中二病の犯罪

森本 晃次

第1話 無限の可能性

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年3月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。今回は少し、かつてのドラマや特撮などに似たような話があり、それをディスったような形になっていますが、あくまでも、時代が違ってきたということと、いろいろな意見があるということで、寛大な目で、ご覧ください。あくまでも、フィクションです。


 21世紀になったくらいからであろうか。ネットの世界において。

「中二病」

 という言葉が囁かれるようになった。

 その元々の意味としては、

「思春期に見られる、背伸びしたがる言動というものを、自虐する言葉」

 それが転じて、

「思春期にありがちな自己愛の満ちた空想であったり思考などと揶揄するネット上の言葉だ」

 と言われている。

「中二」

 というのは、まさに、思春期ど真ん中という意味での、

「中学二年生」

 ということであり、これは、学者が提唱したというものではなく、ラジオ番組か何かで出てきた言葉が、広まったということだったようだ。

 確かに、思春期になれば、誰にでも覚えがあるように、

「自分の殻に閉じこもったような考えを持ちながら、その中で、背伸びしたいという感覚になることが結構あったような気がする」

 と思うことだろう。

 もちろん、世代にも、育った環境にもよるのだろう。

 育った時期が昭和の後半であれば、テレビ世代ということになり、テレビ番組の影響が大きいのかも知れない。

 特に、子供番組として多かったのは、特撮ヒーローもの、これは、

「怪獣を倒す」

 という、自然現象が怪獣になるというSF的な発想からの、巨大ヒーローものである。

 あるいは、

「戦隊もの」

 と言われるような、数人の戦隊で、悪の組織の怪人たちを倒していくという、今に続くシリーズもその頃から始まったりした。

 どちらも、勧善懲悪であるが、巨大ヒーローものは、

「本当の勧善懲悪なのか?」

 ということには疑問が残る。

 怪獣となった生物だって、普通に暮らしていれば、平和に、自然環境の中、自然の摂理の中で一生を終えられたものを、

「人間が出した公害であったり、さらに、特殊なものを接種してしまったことで、巨大化したりして、それが人間社会に害を及ぼすようになった、ある意味、可愛そうな生物たちを、怪物としてやっつける」

 というストーリーであった。

 本当であれば、人間が出したものなのだから、人間としては、

「因果応報」

 であり、人間によって怪物にされてしまった罪もない動物は、完全に、

「被害者」

 と言えるのではないだろうか。

 それでも、人間は、

「自分たちの平和を乱す」

 という大義名分で、怪獣をやっつけようとする。

 しかも、そこに、

「地球を大好きな」

 という宇宙人がやってきて、

「地球人のために、怪獣をやっつける」

 というとんでもないストーリーとなっている。

 これは、

「勧善懲悪」

 ではない、いわゆる、

「弱肉強食」

 ということになるのだ。

 それも、自然の摂理としてのものではなく、完全に、

「人間だけに都合のいい、弱肉強食」

 ということになるのだ。

 そもそも、宇宙人が、

「地球が好きだ」

 というのであれば、怪獣をやっつけるのではなく、怪獣を元の大きさにしてあげて、怪獣ではなくしてあげれば、倒す必要もなければ、お互いに傷ついて、最後にやっつけることもなくなるのだ。

「そんな力はない」

 というのであれば、人間の味方をすることなどないのではないだろうか?

「人間社会に根底の過ちがあるのであれば、人間こそ、滅びるに値する生物だ」

 ということにならないのだろうか。

 人間だけに、知能があり、人間だけが、自分の利益のために、同類も平気で殺そうとする。他の動物でも、

「共食い」

 というのはあるが、それだって、

「生きていくために大切な本能」

 と言えるのではないだろうか?

 人間に、果たして、そんな本能があるのだろうか?

 と考えてしまう。

 あったとしても、私利私欲のために、その能力を使おうとするので、優先順位は、私利私欲ということになるだろう。これを、

「傲慢」

 と言わずに何というかということであろう。

 何と言っても、巨大ヒーローは、

「地球の平和を守る」

 と言っていても、結局は、

「人間社会の平和を守っているだけではないか?」

 と言われても仕方がないことだろう。

 特に、物語の中で、

「人間が、実は地球の侵略者だった」

 というような、まるでアメリカ大陸を彷彿させる話であったり、

「地球が兵器開発によって、その実験場に選んだ星を爆破すると、そこに生物がいて、突然変異で地球に復讐に来たり」

 というような、今度は、

「核開発競争」

 を思わせる話もあったりした。

 そういう意味では、当時の時代背景を風刺した優秀な作品ではあったが、結局は、

「人間は悪くない」

 と理屈の下、ヒーローは、人間に侵略され、海底に追いやられた人たちや、地球に復讐にきた怪獣を葬ったりした。

 さらに、別の話として、

「地球防衛軍やヒーローにやられた怪獣たちの墓場が宇宙にあるということで、怪獣供養をするということになったが、怪獣が来たということで、すぐに怪獣退治の任務に就く」

 という皮肉な場面もあったりした。

 そんなことがあったからか、やはり、特撮ヒーローものは、どうしても、

「人間だけを贔屓する」

 ということになるのだ。

 もし、これが、地球における、

「内戦」

 のようなものだとすれば、地球人だけに味方をするということは、普通ならありえない。

 国際的に考えると、

「同一国内における内乱」

 であれば、この行為は、

「内政干渉」

 となるだろう。

 これが他国の争いであれば、同盟国でもない限り、この争いに加わってはいけないだろう。

 元々、同盟を結んでいたり、安全保障上の問題で、どうしても干渉しないといけない場合があれば、それおしょうがないのだが、

「宣戦布告」

 を交わした国に対して、第三国は、その動向をハッキリとさせなければならない。前述のような、同盟や安全保障の問題でもなければ、普通は中立を表明する。中立を表明することで、どちらに対しても、軍事的、金銭的に援助はしないということであり、攻撃を加えることはできない。

 最近の日本は、中立でなければいけないのに、アメリカの言いなりで、

「経済制裁」

 あるいは、

「軍事のための資金援助」

 ということを平気でやっている。

 これでは、中立でも何でもないので、相手国からすれば、

「敵国」

 の一つ。

 戦争ができないという、

「戦争放棄の憲法」

 を持った国なのだから、当然、攻撃を受けても反撃もできない。

 そういう意味で、中立を表明すべきなのに、バカな政府は、アメリカの言いなりになったまま、国内では、困っている国民がたくさんいるのに、その人たちを無視して、戦争に金が使われるということを知ってか知らずか、金を出しているではないか?

 これでは、

「自分たちも一緒になって、苛めに参加しているのと同じではないか?」

 と言えるであろう。

 もっといえば、宇宙で、遭難しかかっている宇宙人がいて、円盤が故障したということで、地球にその部品があるということで、たちより、そこで、地球人と遭遇し、凝固高専のようなもので、動きを止めた。どうやら、死んでいることになっているようだ。

 地球防衛軍内部で、宇宙人に対しての対策会議が行われ、最初は、首脳陣から、

「断固攻撃」

 という意見であったが、防衛隊隊長が、

「話し合ってみたい」

 という進言があり、そこからさらに会議が紛糾したが、結果、結論らしい結論が得られずに、

「とりあえず話し合い」

 ということで、話し合いとなった。

 しかし、宇宙人の方との話し合いは、なかなか難航を極めた。

 まず、宇宙人には、

「命、生命」

 という概念がないという。

 もっとも、向こうにも死ぬという感覚があるのだから、言葉上の、

「生命」

 という言葉を知らなかっただけなのか、それとも、

「知っていて、わざとすっとぼけていたのか?」

 そのとちらなのかは、分からない。

 さらに、彼らは、短気なのか、話し合いをしているのに、地球人がいろいろ聞いてくることに業を煮やしてか、いきなり、

「地球は我々がいただく」

 と言って、いきなり、豹変し、地球を攻撃し始めたのだ。

 こうなってしまうと、地球側も黙っておらず、ここで初めて、

「戦争」

 ということになったのだ。

 だが、

「なぜ、宇宙人が豹変して襲ってきたのか?」

 ということは別にして、冷静に考えてみると。

「そもそも、何が悪いというのだろうか?」

 というところであった。

 そもそもの原因は、宇宙船の故障から遭難して地球に流れ着き、

「修理のための部品と、人間であれば、水と食料の確保」

 を目的とした滞在だったはずだ。

 それは、考えてみれば、どこかの国の船が難破して、日本のどこかに流れ着いたとして、遭難した乗組員を、侵略者として差別しているのと同じではないか、何しろタイトルが、

「侵略者をうて」

 というものであった以上。完全に、相手を、

「侵略者」

 として決めつけているのである。

 結局、宇宙人をヒーローが出てきてやっつけるという、

「お約束のパターン」

 であるが、本当にそれでよかったのだろうか?

 地球上であれば、もし、虐殺でもされれば、戦争案件である。報復で攻撃されても、文句は言えないだろう。

 宇宙においてはどうだろうか?

 地球という星は、今でもまだ、有人では、月か、行っても火星までしかいくことのできない星であり、他の天体に、本当に地球人の足元にも及ばない科学を持った星が無数に存在していて、それこそ宇宙戦争を繰り広げていたり、戦争をしなくても、宇宙全体に宇宙連邦のような法律があったり、銀河系だけで通用する法律が存在したりしないとも限らない。

 それを思うと、何も知らないのは地球人であり、宇宙では、

「常識」

 となっていることを知らない地球人を、

「責められない」

 で片付けられるものではないだろう。

 この広い宇宙、自分たちがまったく知らない世界が広がっていて、

「知らぬは自分たちばかりなり」

 ということであり、そもそも、ヒーローが宇宙人として君臨しているのだから、そのヒーローが宇宙の法律を教えなければいけない立場なのではないだろうか?

 知らないということが、罪だとよく言われるが、まさにこの場合など、言えることではないだろうか?

 さすがに、そこまでいくと、30分番組で、しかも、

「一話完結」

 という物語なので、

「尺が足りない」

 ということになるであろう。

 それを考えると、このお話は、

「あまりにも局地的な話」

 と言えるだろう。

 そもそも、地球防衛軍の会議といっても、東京のどこかの貸会議室のようなところに、政府や、警察。さらに地球防衛軍の代表者、10名にも満たない人数で集まり、全員が日本人。そんなところで、全世界規模の話をしようというのだから、それ自体がおかしな話ではないだろうか。

 今であれば、せめて、国連本部において、常任理事国が集まっての会議を行うべきものを、諸外国に話をしたのかどうかわからないが、勝手に日本だけで、会議をして話を進めようというのは、

「子供相手の番組」

 という意味で許されるのかも知れないが、

 それであれば、あまりにも、思想のようなものが、偏り過ぎているのではないだろうか?

 そんなことを考えると、

「やはり、超がつくくらいの、局地的な話だ」

 といってもいいだろう。

 もし、ここで宇宙人をやっつけたとして、

「宇宙の平和を乱した」

 として、宇宙連邦警察なるものがあったとして、地球に抗議してくれば、国連本部などでは、

「はあ? 何のことでしょう?」

 と寝耳に水となってしまうのは分かり切っていること。

 元寇だって、元の特使が日本に来て、皇帝の親書を持っているのに、その人間を叩き切ったことで、報復に来たのではないか。過去の歴史に習えば、先走った行動がどのような結果を導くか、分かりそうなものである。

 つまり、

「いくら相手の素性が分からないということで、いや、分からないからこそ慎重にならなければいけないところを、先走って叩き切るなどということをすれば、叶わず報復を受ける」

 ということは、歴史が証明しているではないか。

 何をそんなにムキになって歯向かうのか、昔から、人間は、

「自分の土地を犯すものは、何であっても、侵略者として扱う」

 という風潮がある。

 それは改めなければいけないところであろう。

 ただ、今の日本において、諸外国から食い物にされ、属国に成り下がり、さらには、体制の違う国からは、国土をどんどん買われ、さらには、領海侵犯など、され放題であり、ただ、抗議文を送るだけで何もできない、

「腰抜け政府」

 を、諸外国は、嘲笑っていることだろう。

 ただ、日本の宗主国が怖いということで、その後ろ盾があることで、何とか攻撃を受けるところまでは行っていない。

 そういう意味で、

「属国に成り下がってはいるが、それも仕方のないことなのだろうか?」

 と言えるのではないだろうか?

 それを考えると、

「属国と言われても仕方のないのだろうか?」

 ともいえるが、属国としての権利すらないのだったら、中途半端すぎるだろう。それだったら、属国になった方がいいともいえないだろうか?

 とにかく、政府も、他の官庁も、すべては日本主導であった。しかも、地球防衛軍の本部は、パリにあるのに、パリ本部の意見もまったく聞かずにである。

ひょっとすると、極東基地に、すべて一任だったのかも知れない。しかし、国家間の問題であればまだしも、何と言っても、全世界的問題を、一家国の隊長に、一任するというのも考えにくい。

 やはり、

「子供向けの番組」

 ということでの許容範囲だということだろうか?

 そのあたりを考えてみると、

「あの時代だから許されたのかも知れない。それ以上の小説やマンガは、結構時代考証であったり、理屈に合わないようなことは抗議が来たりして、結構大変のようだった」

 さらに、その後のアニメなどでは、巨大ロボットものがあったりした。それが、今でも続いているものであり、その内容も、ちゃんと理路整然としたストーリーでなければ、視聴者が許さなくなった感じであろう。

 ただ、最初の頃の子供向け番組であれば、研究所のようなところがあり、そこで、地球規模のエネルギー研究などをしていると、悪の組織が邪魔をしてくる。

「自分たちが生存するのに、困る」

 という内容であったり、逆に、

「人間を攻撃するための武器になる」

 ということで、相手の組織もそんなエネルギーを何とかしたいと思うようになるのだった。

 こちらも、相手にどういう事情があるにせよ。

「人間が生き残るために、悪の組織をやっつける」

 という構図は、特撮ヒーローものと同じで、こちらは、人間が開発したメカやロボットを人間の青年が操縦するというストーリーなのだ。

 そして、今度は、同時期に、

「人間に等身大のヒーロー」

 が生まれるようになる。

 それらは、ロボットというのか、サイボーグであったり、アンドロイドだったりするのだ。

 日本語に治せば、

「人造人間」

 と言ったところであろうか。

 普段は人間の姿をしているが、戦闘ともなると、戦闘用のフォームにチェンジするということである。

 このような、

「人間型ロボット」

 の場合というのは、少し込み入っている。

 というのは、巨大ロボットは、人間が操縦席に座って操縦する形になるのだが、人間型ロボットの場合は、そうはいかない。

 つまりは、

「人工知能」

 あるいは、

「電子頭脳」

 と呼ばれるものを搭載しないといけない。

 これらは、人間が操縦するわけではないので、人工知能が判断し、行動する。

 この時に問題になるのが、第一期ロボットブームの頃から言われている、

「ロボット工学三原則」

 であったり、

 ロボットの知能に直接関係のある、

「フレーム問題」

 と呼ばれるものが問題になる。

 サイボーグのように、脳を人間から委嘱した場合は、元が人間なのでいいのだが、アンドロイドのように、すべてを、人間が創造した場合は、人工知能の問題は、絶対に起こってくるものであった。

 これら二つの問題は、今の世界においてだけ言えることではなく、今から50年前から大きな問題となっていた。

 ここ50年で科学は飛躍的に進歩したが、達成できていないのは、

「ロボット工学」

 と、

「タイムマシンの研究」

 なのではないだろうか?

 その中でロボット工学というのは、前述の2つの問題がある。

 そのうちの一つの、

「フレーム問題」

 というのは、ロボットが、行動する際の、

「可能性」

 という問題を、果たして人工知能が把握できるのか? ということであった。

 つまり、次の瞬間に発生する、無限の可能性について、

「ロボットはキチンと予知して動くことができるか?」

 ということである。

「次の可能性」

 というものは無限に存在するものである。

 さらに、その中から一つの可能性を見つけ、行動した場合も、次には無限の可能性が秘められている。

 そうやって、瞬間ごとに無限の可能性がある中で、瞬時にして、そのすべての可能性に対して、対応できるかということが問題なのだ。

 しかし、次の瞬間に起こる可能性というのは、確かに無限であるが、実際にその無限を考えた時、

「実際に行おうとしている行動に対して、まったく無関係なことがほとんどである」

 ということであった。

 つまりは、

「実際に判断するための、範囲を限定できさえすれば、十分に人工知能は判断できるであろう」

 ということである。

 判断する範囲というものは、パターン化できるはずである。そのパターンを人工知能に覚えこませればいいという考えに至るのだが、今度はそれが不可能であることに気づくのだ。

 元々が、無限なのである。それをいくつかのパターンに分けるというわけだが、要するん、無限というものから、考えられるパターンで割ることで、それぞれに見えてくる数の可能性だけを追いかければいいということになり、

「単純な割り算だ」

 と言えるであろう。

 割り算というものを実際にしてみると、無限というものから、パターンの数だけ割るということであるが、そのパターンというのも、無限であることに気づくのだ。

 というのは、

「無限というのは、何で割っても、無限にしかならない」

 ということである。

 逆に、少なくとも、パターンなのか、パターンで割った時に求まる答えなのか、どちらかが無限でなければ、辻褄が合わないことになるのだ。

 そうなると、どこまで行っても、

「無限は無限でしかない」

 ということになるのだ。

 それは、いわゆる、

「マトリョーシカ人形のようなもの」

 であったり、

「合わせ鏡」

 つまりは、自分の前と後ろ、あるいは、左右に鏡を置いた時、そこに写っている姿が、どんどん小さくんあっているわけではないが、

「無限に続いていく」

 というものであった。

 マトリョシカ人形にしても、この合わせ鏡にしても、無限に続いていく中で見えてくるのは、

「限りなくゼロ」

 に近いというものであった。

 それも、見えているものが、

「無限に続く」

 ということが前提にあるからである。

 つまりは、

「ゼロになってしまうと、そこで終わりになってしまう」

 という考えからである。

 次のロボット工学の問題点としての、

「ロボット工学三原則」

 という考え方は、元々は、

「フランケンシュタイン症候群」

 というものから来ているのであった。

 フランケンシュタインというのは、

「理想の人間をつくろうとした博士が、結果として、怪物を作ってしまった」

 ということを基本としたストーリーであった。

 だから、人間はその過ちを犯さないように、ロボットの人工知能に、最初から、3つの原則を植え付けるということを考えたのだ。

 順番に、

「ロボットは人を傷つけてはいけない。もし、人間が危険にさらされることがあれば、自らの命を捨ててでも、人間を助けなければいけない」

「ロボットは、人間の命令には、したがわなければならない」

「ロボットは、自分の身は自分で守らなければならない」

 というものであった。

 この3つには、それぞれに優先順位というものが存在し、

 最初から順にその優先順位は高かったのだ。

 だから、いくら、人間がロボットに命令をしたとしても、その命令が、人間を傷つけるようなものであれば、従う必要はない。いや、

「従ってはいけない」

 ということになる。

 さらに、ロボットは自分の身を守ることが規定されているとしても、人間が命の危機にさらされていると予見されれば、

「身を犠牲にしてでも助けなければいけない」

 ということになるのだ。

 それが、ロボット工学三原則という考えである。

 しかし、この三原則には、大きな問題が潜んでいて、前述の優先順位が問題なのだ。

 この優先順位にも、可能性が無限にある以上、優先順位を考える可能性も無限にあるということである。

 それを考えると、

「フレーム問題」

 と同様に、この、

「ロボット工学三原則」

 にも、不可能ではないか?

 という考え方が潜んでいるということだ。

 この二つの問題が解決しない限り、ロボット工学は先に進まない。だから、ロボット開発というのは、進むものではないということなのだ。


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