第五書庫の刺客

第五書庫の刺客


 ロストリア王国騎士団の騎士舎には、五つの書庫が存在する。

 第一書庫が最も大きく、これは主に軍事、戦略などに関する書籍、閲覧可能書類などがファイルされている。

 第二書庫から第四書庫は、歴史書、実学書、文学など、その他様々なジャンルの世界中の本があるかと思われるほどに所蔵されている。

 そして第五書庫。

 別名、団長書庫。

 この書庫は、歴代団長が私的に使用する特別書庫だ。歴代団長が好意で残していった書籍も大量に残っており、各代団長の趣味が垣間見れる騎士らにとっては好奇心が刺激される部屋なのだ。

 だが残念なことに、この部屋に入室が許されているのは団長から直々に発行された入室証を所持する者だけ。

 よって、その第五書庫は騎士達の間で「秘密の書庫」との異名もつけられているのである。


 城内巡回で時々その部屋の前を通る見習騎士アレウスは、秘密の書庫の扉の前を通りすぎる度に、深緑の扉の向こうの景色を想像していた。

 扉は片開きの、簡素な作りだ。騎士舎の構造からもこの区域は北の城壁側の「隅」であり、騎士舎の中で最も人口比率が低い一帯だ。それでもやはり団長が利用する私的書庫という事もあり、簡素な扉の上には「第五書庫」とゴシック調で彫られた装飾プレートが飾られており、ドアノブも金をあしらった彫り物が施されている。

 質素ながらも、どことなく上品だ。

 アレウスは一度だけ、この部屋へと入っていく獅子騎士団長ノーマンと出くわした事がある。その時に部屋の中がちらりと見えたが、薄暗い部屋を遠くから眺めたのみで様子を伺う事ができなかった。それでも、部屋にドミノのように並ぶ天井に届くかという高さの書架と、壁も同じように書棚に埋められている様子は分かった。森林地方出身のアレウスは、夜目が利くことが自慢だった。

(あれで、どんな本があるのかが分かれば面白いのにな)

 と思いつつ、今日もアレウスは城内巡回のために廊下を歩いていた。


 ちょうどその頃、

「『有酸素運動の有効性』『サバイバル術』『東方軍事異聞録』見事に軍事バカが現れているね。おや、珍しい。サイロス・クーパーのベストセラーじゃないか。好きなのかい?」

 東口から帰城した獅子騎士団長ノーマンと虎騎士団長キースの姿があった。この二人は士官学校時代からの友人の同期入隊同士であり、こうして二人で並ぶ姿がよく見られる。

「まあな。悪いか。それにしても、『健康維持に役立つ薬草辞典』『花言葉』『世界の民族舞踊』『花火職人への道』『童謡歌集』。見事に好奇心が支離滅裂に拡散しているな。お前らしい」

 両者とも両手一杯に本を抱えている。団長執務室の本棚から溢れてしまった本を第五書庫に移動すべく。ちなみに、前者のセリフはキースのもので、後者のセリフはノーマンのものだ。お互いが持つ本の背表紙を読み上げてそれを揶揄しあって笑う。

「そう言うなよ。雑学を集めるのが生きがいの一つなんでね。サイロス・クーパー、今度貸してもらおうかな。推奨はあるかい」

 ノーマンの本棚にその名前が連なっているのを見たことがあると、キースは思い出す。サイロス・クーパーとはロストリアでは有名な古典文学の大家の一角である。人間の本質を詩的表現を用いて直接語りかけるように描くのが特徴だ。軍事関係の物々しいノーマンの本棚の一角を占めるそれが、異質に映ったのを覚えている。だが、ある意味彼らしいとも言えた。

 一方でキースの本棚は、全くもってテーマを見出す事ができないジャンルの広さで、しかも部屋を訪れる度に並ぶタイトルの顔ぶれが変わっているのでノーマンはいまだにキースの「趣味」が分からないでいる。余談だが、「世界の肉料理百選」という本が妙に気になったのは言うまでも無い。

「推奨か。幾つか選んで今度持っていこう」

「頼むよ。俺も推奨本を献上しようか。「肉料理百選」がいいかな?写真が豊富で見ているだけで満腹になるよ」

「馬鹿言え」

 そんな両団長が通りすぎていくのを、若い騎士達は微笑ましく見眺めていった。

「ご歓談中のところ、申し訳ありません」

 背後から早足に向かってくる足音が、本を抱えた両団長を呼びとめた。赤い騎士服の若者だ。

「キース様、東門付近の城壁路近辺にて、城下の者が不審な人影を複数目撃したとの証言をしておりまして、現在赤騎士が数名急遽その付近の偵察に出ております」

「何だと?」

 城内、城付近の警備は赤騎士団の役目だ。

「本は俺が仕舞っておこう。行って来い。剣も部屋に置いたままだろう」

 キースの手から本をとり自分のに重ねてノーマンが廊下の先を目で示した。

「悪い。頼むよ」

「騒ぎが大きいようなら、後で俺も行こう」

「そうならないことを願うよ」

 本をノーマンに渡しキースは赤騎士と共に廊下を駆け出していった。

「さて」

 大量の本を抱えたまま、廊下の真中に取り残されたノーマン。

「このままでは崩れるな…」

 バランス悪く腕の中に積み上げられた本は、一歩でも動けば総崩れを起こしそうだ。持ち方を変えるべく、ノーマンは慎重に一度それらを床に置いた。

 ちょうどそこへ、見習い騎士アレウスが丁字路を曲がってやってきた。廊下の真中、つみあがった大量の本と、獅子騎士団長がそこにいる。滅多に目撃する事の出来ない団長の姿を間近に、アレウスは緊張した面持ちながらも何やら困った様子のその背中に声をかけた。

「ノーマン様」

「?」

 振り向いたそこにいた虎騎士団の見習い騎士にノーマンは笑みと労いを向ける。

「巡回ご苦労」

「いいえ。あの、それ」

 背筋を伸ばしはにかむ若い騎士の視線が本に向いている。

「どこかへ運ぶ途中だったのですか?お手伝い致します」

「悪いな、頼む」

「いいえ」

 床に置かれた本のうちの七割をノーマンが持ち上げ、残り三割をアレウスが手に取った。歩き始めたノーマンのやや後方、アレウスが遠慮がちに距離を置いて歩く。青を纏った長身を見上げる。颯爽と歩く背中がそれだけで精悍だ。

「君、名前は?」

「は、はい!虎騎士団少年部隊に所属しています。アレウス・クラウディンと申します!」

 背中に一瞬見惚れていたアレウスは弾けるように背筋を伸ばして団長の質問に答えた。過敏で初心な反応を肩越しに一視して、ノーマンは小さく笑った。

「頼みついでに悪いのだが、もう一つ頼まれてくれるか?」

「はい!何なりと!」

 外の天気の雲行きは愚図り気味だが、今日は何て良い日だろう。アレウスは心からそう思った。


 どこへ行くのだろうと着いて行ってみれば、辿りついたところは「第五書庫」の前だった。ノーマンは胸の内ポケットから取り出した鍵で扉を開け、戸惑うアレウスを余所に部屋の中へと入っていった。

 廊下側でたち尽くしたままのアレウスに、ノーマンは手招きをする。


「どうした。入っていいんだぞ」

「で、でもここは私などが…」

「構わんよ。どうせ娯楽書庫みたいなものだ。大して貴重なものがあるわけでもなし」

 と獅子騎士団長は苦笑して肩を竦める。

 これは千載一遇のチャンス。

「し、失礼します」

 声を振るわせつつアレウスは、抱えた本と共に「秘密の部屋」へと足を踏み入れた。

「………」

 ひんやりと、冷たい空気にまず驚く。

 北側の部屋の上、ここには恐らく暖房器具などは備えられていないのだろう。「いつもより寒いな…」とノーマンの独言。日の当たらない部屋は暗く、背の高い書架の落とす陰もあいまって夜のような闇に包まれていた。廊下の明かりも、部屋の中へ二歩進んでしまえば届かない。

「灯りは……どこだったか…」

 暗闇の中、手探りで本を棚に置いてノーマンが灯りを探る。その後ろからアレウスが歩み出る。

「左手の棚の、ちょうど上にあります」と言いながら自ら天井から吊るされたランプの灯りを灯した。

「この暗がりでよく見えたな」

 仄かに灯りが点った室内に、まず感心した面持ちのノーマンがアレウスの瞳に映し出された。

「夜目には自信があります。北方の森林山岳地方出身なものですから」

「月読みの目か。いいな」

 長身のノーマンがわずかに腰をかがめてアレウスの瞳を覗き込む。

「月読み…ですか?」

「梟のことだ。夜目が効き頭が良く、かつ勇敢な狩人だ。闇の森で敵う者はいまい」

(カッコイイ……)

 まるで霞の中に浮かび上がった自然現象であるかのように、少ない灯りに照らされたノーマンの面持ちが、その語り口と相俟って若いアレウスにはこの上なく凛々しく感動的だった。

「アレウスも、そのような将を目指せ」

「はい!お言葉、ありがとうございます!」

 薄闇でも分かるほどに顔を紅潮させたアレウスに、ノーマンはまた柔らかく笑みを向けた。

「さて…」

 ようやく暗闇に目が慣れて来た。この部屋には三つの吊りランプが備え付けてある。ノーマンが二つ目に手を伸ばしかけた。


 次の瞬間、


 ガシャッ!!

「!」

「!?」

 頭上でガラスが激しく割れる音がした。

 仄かに点っていた明かりが消える。

 再び書庫内は暗闇に包まれた。

 突如の暗闇に、またノーマンは瞬時盲目となる。

 目が慣れる間もなくすぐ隣の書棚を始め、次々と棚が倒れ始めた。

「こちらへ!」

「っ!」

 アレウスに袖を引かれ、そのすぐ脇を重い書棚が掠めて倒れていった。あれに押しつぶされては只では済まない。舞いあがる埃と鼓膜を刺激する轟音の中、アレウスの夜目は嫌な物を見てしまった。

「扉が…!」

「何!?」

 倒れた書棚が折り重なるようにして入り口の扉を塞いでしまったのだ。

 つまりは、閉じ込められた。

 しかも、今まさに、この部屋にいる何者かの手により。

「誰かいるのか!何者だ!」

 目が見えないながらも、ノーマンはアレウスを背中に庇い壁際に寄せる。そして見えない闇に向かい声を張る。

「…………」

 暗闇からの返答は無い。

 書庫内は折り重なった書棚と散らばった本で埋め尽くされ、その物陰に隠れているのか、他の人影は夜目の効くアレウスからも見ることが出来なかった。

「獅子騎士団長ノーマン・グレンヴィルか」

 どこからか、声がかかる。

「………」

 無意識に自分の腰の辺りを手で探ってノーマンは内心で舌打ちする。

 本を運ぶのに邪魔になるからと、帯剣していなかった。

(なんたる油断……)

 帯剣を怠っていた自分と、北側の人員手薄を突かれて侵入者を許した事に対しての憤り。

 恐らくは屋根裏の空白構造の中を破って侵入したのだろう。外の冷たい空気が侵入しているのだ。入室した時に感じた常より冷たく感じた空気を、もっと疑うべきだった。

「…………」

 アレウスは懸命にノーマンの背後から目を凝らし、侵入者の姿を探す。

 背後の壁越しに、廊下の向こうから数人が駆け寄ってくる気配がする。

「何事ですか!?」

「今の音は!」

「団長!?」

 ちょうど第五書庫の前付近で立ち止まった人の気配がドアノブを回す。開かない。次にドアが叩かれる。

 次の瞬間、

 アレウスの夜目は折り重なった書棚の影から現れた人影を捕らえていた。

 その手の刃の輝きも。

「ノーマン様!」

「!」

 本能的に殺気を感じ取ったのだろう。

 ノーマンがアレウスの腕を掴み横に倒し、自らも襲い来る刃を避けようと動く。

「つ…ぅっ」

「ノーマン様!」

 だが人影が薙ぎった刃の先がノーマンの腕を掠る。アレウスの夜目は、それをも捕らえていた。ノーマンは変わらず見えていないようで、怪我した腕をそのままに手がアレウスを探していた。

 自分の身よりも若い騎士の安否を気にしている。アレウスは自分からノーマンの腕を取って壁際に引き寄せた。

「ああ、そこか」

 手探りでアレウスの肩に手を添えて再びノーマンは自分の背後に庇う。だがその直前、闇の中から打ち出されてくる刃の閃きにアレウスが反応する。

「あぶな…っ!」

 言いきる前にアレウスは強引にノーマンの腕を引いた。ノーマンの頬を掠めるほどの距離に、刺客が投げた小刀が金属音をたてて石造りの壁に当たった。

「!」

 瞬間、火花が飛んだ。

 ノーマンの視界に一瞬、青白い光が点り、本棚の影に再び隠れる人影が映った。

「…これだ…」

「?」

 短い独り言の後、ノーマンは背後の少年騎士に

「今のナイフを拾ってくれ!」

 と命令した。

「は、はい!」

 暗がりの中、アレウスがナイフを拾いノーマンに手渡す。すばやくその感触を確かめ、空いた方の手で壁を触り、

「…?」

 何をするつもりだろうと不思議がるアレウスに「少し離れていろ」と指示を出した。

「………」

 静寂が訪れ、部屋の中に充満する埃だけが漂う。

「!」

 本棚の影から再び、何かが動いた。

「っ!」

 危ない、とアレウスが声をかけようとする前に、ノーマンが動いた。

 右手に持っていたナイフを壁に突き立て、腕を振り切って横に引いたのだ。

 金切音をたてて盛大に火花が上がった。

 室内が青白く点り、ノーマンの目には鮮明に、本棚の影から身を躍りだそうとしていた刺客の姿が映し出された。

「そこか!!」

 距離感と感覚だけを頼りに、ノーマンは人影を狙いその動きからナイフを投げ撃った。

「ぐあぁ!」

 再び訪れた暗闇の中で、刺客の叫びがくぐもる。

(すごい!)

 アレウスがノーマンの咄嗟の知己に目を輝かせたのも束の間、隣でノーマンの舌打ちが聞こえる。

「急所を外したか…」

 投げた感覚と相手の反応だけで分かるのか。

 まさかとアレウスは疑ったが、しかしノーマンの言葉が示すとおり、人影は肩を抑えてよろめきながらも、再び体を起こした。

「やれ!」

 壁際から声が上がる。と同時に、部屋の奥の壁が轟音を上げた。どうやら廊下側から騎士達が壁を破壊しようとしているらしい。

 古い作りの部屋全体が、みしりと軋んで埃がまた舞いあがった。

「手間取らせやがって…」

 独言と共に刺客の影がまた動く。

 闇の中、アレウスの夜目は、剣を構えた刺客の姿をとらえた。壁からの轟音に、聴覚だけを頼りにしていたノーマンにはその微かな抜刀音を聞き取る事ができなかった。

「おのれ……っ!」

 刺客の動きを目でとらえていたアレウスが抜刀する。見習が全員持たされている簡易な短剣だったが、無いよりマシだ。

「やめろアレウス!」

 すぐ近くの抜刀音を聞いてノーマンがそれを制する。

 体制を立て直した人影が再びノーマンを狙う。

 アレウスの体は衝動的に、獅子騎士団長とそれを狙う刺客の間に躍り出ていた。

「アレウス!」

 獅子騎士団長の声は、廊下にいる騎士達の耳にも轟いた。

 刃と刃がぶつかり、一瞬そこに火花が生まれた。

 ノーマンの目に刹那、自分の目の前に飛び出し刺客に刃を向ける少年騎士の姿が映る。次の瞬間には再びあたりは闇となるが、それを切欠にノーマンの眼球が闇の中で視力を取り戻し始めた。

 輪郭だけが微かに浮かび上がる光景の中、

 それでも小さな体が自分の足元に倒れ付す様子は鮮明に理解できた。

「貴…様っ!!!」

 一気に沸騰点に達した怒りが、獅子騎士団長を鬼にした。

「なんてことを!!!」

 前後省みずに目の前の人影に体当たりを食らわした。

「ぐぁ!」

 寸詰まりな声を上げて刺客は倒れた本や書棚の中に吹っ飛ぶ。すかさずその上に飛び乗り、手当たり次第に顔や体に拳を叩き込んだ。どこが顔で体で急所かなど、この目の効かぬ状態で構ってはいられない。とにかくこの刺客を倒す事だけ。ノーマンの体はそのためだけに動いていた。

「っが……」

 まともに鼻っ柱を殴りつけられ男は血を吹いて気を失った。それと同時に、

「団長!!」

 壁の一部が破壊され、そこから大量の光が差し込んだ。

 廊下側から騒ぎを聞き駆けつけた騎士達が壁を崩したのだ。

「……だ……」

 彼らが見た光景。

 それは瓦礫のように積み重なる書棚の丘陵で、血に汚れた姿で気を失った刺客の襟を掴み上げている団長の姿。

 そして、腹部の辺りから血溜まりを作り倒れる幼い騎士。

「アレウス!」

 刺客をその場に投げ捨て、ノーマンは踵を返し床に倒れたアレウスに駆け寄る。刺客の物と思われる剣を腹に抱え込むような形で体を丸めていた。そこから、血が流れて水溜りを作っていた。

「すぐに医者を!それからあの男を捕らえろ!」

 ノーマンの怒号が響き渡った。

 


 キースが報告を受けて医務室に駆けつけると、寝台に横たわり眠る若い見習い騎士と、その側に立ち無言で見下ろすノーマンの姿があった。

 ドアの向こうから姿を現したキースに、その場にいた数人の騎士達も視線を向ける。

「キース……」

 ゆるりと、ノーマンの首がキースを向いた。

 彼自信も、左腕に傷を被い三角巾をあてがわれている。

「ノーマン」

「すまないキース…お前の部下を俺は……」

 歩み寄るキースから瞳を伏せる。

「彼の様態は」

 出来るだけ優しく、キースは問う。

「出血量が多く、傷は浅いものではありませんでしたが、急所からはずれていました。心配はいりません」

 代わりに軍医が答えた。洗浄を終えた手を清潔な布で拭きながら、まるで貧血でも起こしたように顔色を悪くする獅子騎士団長を見やる。

 その視線の意味を知り、キースが「お前も休め」と声をかけようとしたところに、

「失礼します」

 とノックの音が妨げた。

「何だ」

「アレウス・クラウディンの母君がお越しです」

 キースが目端を細めて「どうする」という視線をノーマンに向ける。

「お通ししろ」

 答えたのは、ノーマン自身だった。

 即答。

「失礼致します」

 控えめな声に導かれて扉が開かれ、急いで駆けつけたのだろう、まだ肩で呼吸をするまだ若い女性がそこに立っていた。上流家系の出身だと感じさせる質素なだが上品な黒い召物に、頭髪を頭部の高い位置で纏めている。

 母親は視界の中に横たわる息子の姿を見とめると、居並ぶ両騎士団長に深々と頭を垂れながら寝台に駆け寄った。

「アレウス…」

 麻酔薬で眠っている息子を何度も呼びかけて、額や頬を撫でる。

「…………」

 その背中に向けて、ノーマンは片膝を折った。

「ノーマン様…!?」

「団長…」

「……」

 驚く騎士達の声に母親が振り向くと、そこには自分に向かい片膝と右手をつき、深く俯く獅子騎士団長の姿。彼女も酷く驚いて、温和そうな瞳を見開いた。

「ノーマン様……」

「……」

 誰もが驚く中で、キースは静かに、ただ静かに情景を見つめていた。

 低く、静かなノーマンの言葉が流れる。

「己の愚かな油断と慢心、そして未熟さから、ご子息をこのような目に合わせてしまった事、どのように詫びたら良いのか分かりません」

「…………」

 母親はしばし驚きに包まれていたが、やがてその面持ちを緩和させると、ノーマンの腕を被う包帯と三角巾に視をやり、そこにやんわりと手を添えた。

「お顔をお上げ下さい。ノーマン様」

「…………」

 顔を上げようとしないノーマンに、アレウスの母親は柔らかい笑みを湛え、俯く騎士団長を覗き込んだ。

「部下一人の事で、騎士団長様がこのようでどう致しますか」

「…!」

 ノーマンが黒い両眼を驚きに見開いて顔を上げる。

 周囲の騎士達も、彼女の言葉に息を飲んだようだ。

 ただ一人、表情を変えなかったのはキース。

「……」

 どう応えて良いから分からずただ彼女を見つめるしかないノーマン。

 しばし、その柔らかい笑みだけがそこにあった。

「アレウスは、勇敢でしたか?」

「え…」

「アレウスは、ノーマン様をお守りする事ができましたでしょうか?」

 彼女は、「騎士」の母親なのだ。

 なんと気高く、力強いことか。

 ならばそれに、騎士団長として応えなければならない。

「騎士の鑑たる働きでした」

 ノーマンの口から出た言葉は、彼女を満足させたようだ。

 その答えを受けてアレウスの母親は、また寝台に横たわり眠る息子に向き直り、今度はそのまま幾ばくかの間動く様子を見せなかった。



 医務室から廊下に出た両騎士団長は、始終無言だった。

 その後ろを追随する数名の部下達も、静かな背中をみつめて同じく無言。

「ノーマン」

「………」

 キースの呼びかけに、誰ともなく足を止めた。

 丁字路の前。

 右に曲がれば獅子騎士団長の執務室。

 左に曲がれば虎騎士団長の執務室。

 ここは丁度、分かれ道だ。

「こう言ってはお前に殴られるかと思って言わなかったが」

「……」

「でもやはり言ってやらないと気が済まないので、言わせてもらおうと思う」

 虎騎士団長の声は低く、そして冷ややかだった。

 喧嘩でも始まるのかと背後の部下達はなるべく目を合わせぬよう口をつぐんで両団長の様子を見守る。

 ノーマンは無言でキースの言葉を待った。

 ただまっすぐ、そのブルーの瞳を見つめ。

 何を罵られてもかまわない。それ相応の覚悟はしている。

 だがキースの言葉は、

「お前が無事で良かった」

 どこまでも冷たい声調で、

「お前を一番最初に心配すると怒るだろうと思って、黙っていた。でも私はお前が、お前が無事で良かったと、思っているんだ」

 だがどこまでも優しい。

「キースそれは」

「それだけだ。じゃあな」

 獅子騎士団長の批判交じりの声をきっぱり拒否してキースは左方向へと進んでいった。そのまま背中を向けたまま振り向かず、キースは足早に執務室へと姿を消した。

「……」

 丁字路の真中に、獅子騎士団長の長身が迷い子のように取り残される。



 獅子騎士団長を襲った刺客は、同日に目撃された怪しい人影の正体であると判明。厳しい取り調べを現在も受けている。

 アレウスが怪我から復帰したのは、刺客襲撃事件から二週間後だった。見習騎士達の寄宿舎に戻り、訓練などにも徐々に加わるようになった。

 復帰してみると、彼は見習い騎士の間でちょっとした英雄になっていた。第一に、アレウスは獅子騎士団長の命を守ったのだ。それも勿論の事だが、同級の見習達にとっての多大な好奇心は、アレウスが獅子騎士団長の見舞いを数度受けた人物であり、そして、見習騎士の中で恐らく唯一、あの秘密書庫へと足を踏み入れた人物でもある所にも向けられているのだ。

 周囲からの質問攻めの日々が続く。

「『花言葉』とかいうタイトルの本があったような」

「本当か?キース様の本かな」

「似合い過ぎるよ」

 本を運んだ際に見た背表紙のタイトル一つで、見習騎士達の会話が盛り上がる。見習達の訓練場の片隅で、休憩時間はその話で持ちきりだった。

 噂をすれば何とやら。

 その集団に向けて声をかける人物がいた。

「月読みの英将、アレウス・クラウディンはここかな?」

 この独特に軽快な語り口は、この騎士団でこの人物くらいしか思いつかない。

「キース様!」

 虎騎士団長、キースだ。

 楽な姿勢で段差に腰掛けていた騎士達は一斉に姿勢を正して立ちあがる。

「あ、いいよ。傷に響くだろう」

 少し遅れて立ちあがるアレウスを、キースが制した。

「申し訳ありません…」

「若い時に作った傷は、完全に治しておいた方が良い。体が弱った時などに、後になって辛い時がある。どこかの馬鹿者みたいにね」

「馬鹿者?」

「決まっているだろう。獅子騎士団長のことさ」

 若い見習達はキースの言葉に唖然とする。怒らせると手がつけられないというあの直情騎士団長を制御出来るのは虎騎士団長だけだという話は本当だったのだ。無論、彼でさえ抑える事の出来ない事態というのもあるらしいのだが、できればそんな状況には出くわしたくない。

 見習達の心情を完全に無視してキースはマイペースに話を進める。

「アレウス・クラウディン」

「はい」

 改めて名前を呼ばれ、アレウスは背筋を伸ばした。

 アレウスが段差に腰を下ろしているため、その下に立つキースとちょうど、視線位置が合う形となる。キースの目が、真っ直ぐ鋭く、アレウスの両眼を捕らえていた。

 それだけで何かの術に陥ったような気圧がある。

「月読みの勇将」

「え…?」

「獅子騎士団長が君につけた称だ。これに恥じぬよう今後、精進に励んでくれる事を願う」

「月読みの…。ノーマン様が?」

 夢の中に漂う感覚がアレウスを包む。

 虎騎士団長が真摯な瞳を向けてくる。それが整った顔立ちもありまるで絵画のごとき神々しささえあるように思えた。あまりの荘厳さにアレウスは息を呑む。

「そうだ。私も、君の武勲を高く評価したい。君はこのロストリアで最も美しい宝を守ったのだからね」

「…………」

「ノーマンの友として、私は君にこれ以上ない程に感謝している。私の命も救ってくれたと同じだ」

 惚然と見開かれるアレウスの目を、キースも腰を屈めて覗き込む。美しいブルーの直接的な視線が、痛いほど熱く感じる。

「その瞳を大事にしたまえ。いつか再び、ロストリアを救う時が来よう」

 アレウスに向けられた虎騎士団長の賛辞。周囲の友人達が羨望にも嫉妬にも呆惹とも言える視線で様子を見守っていた。

「後者は、虎騎士団長としての感謝の言葉だよ」

 一歩下がり顔を離して、キースは笑んだ。

「では、失礼する。憩を邪魔して悪かったな」

 また二歩ほど後ろに下がり踵を返してマントを翻し、キースは去っていった。

「あ、あのキース様!」

 高い天井に響く長靴の音にようやく我に返ったアレウスが咄嗟にキースを呼び止める。首だけで肩越しに振り返るキース。アレウスはぎこちない仕草で段差から立ち上がった。

 頬が、更に紅潮する。

「ありがとうございます!!」

 よく通る若い声。

 最後にまた一つ笑みを溢して、キースはまた歩き出した。



 アレウス・クラウディン。

 後に練狼騎士団特殊武器隊第一部隊隊長に就任。

 森林、山岳地帯、夜間など不利条件での戦いにおいて圧倒的強さを誇る「月読みの勇将」として、名を馳せる事となる。



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