死神の采配 仕事始め編

マツダセイウチ

第1話 トンネルの果て

 ここはどこだろう。


 真っ暗なトンネルを歩きながら男は考えた。もう随分と長い間この果てしなく真っ暗なトンネルを彷徨い歩いている。あまりにも長いこと暗闇で迷っていたため、男は自分が何者だったか─名前や生年月日、家族や友人、これまでの人生などの記憶を失ってしまった。トンネルにいる間、男は食事も休息も取らなかったが不思議と疲れは感じなかった。早くこの暗闇を抜け出したい一心で、男は足を動かし続けた。


 とりあえずこのトンネルを抜けなければ。


 壁に手をつきながら、壁伝いに道を進んでいく。何度目かわからない曲がり道を曲がると、遥か遠くの方に光が見えた。男は驚いて目を見張った。


 光だ。あそこが出口に違いない。ようやく辿り着いたぞ。早く外に出たい。一刻も早くこんな辛気臭い空間とはおさらばするんだ。


 男は光に向かって走った。久しぶりに見た光の眩しさに目が焦げそうだった。光はどんどん大きくなり、やがて男の全身を包んだ。


 トンネルの外は、豊かな自然が広がっていた。暖かく穏やかな日差しに、艶やかな葉っぱがそよ風を受けてさざめいている。男の左側に森が広がり、その中から清らかな小川が目の前を優しく遮るように流れていた。小川の向こうは色とりどりの花が咲き乱れ、蝶々がその上をふわふわ飛んでいた。


「ここは一体…?」


 男は思わず呟いた。後ろを振り返ると、古びたレンガ造りのトンネルがあった。今さっき出てきたところだ。ここがどこだかは知らないが、とりあえずあのトンネルの中に戻る選択肢はない。男はトンネルに背を向けて歩き出した。


 小川の近くまで来たところで、男は一旦立ち止まった。そして身を屈めて川を覗き込んだ。とても小さな川だった。深さは足首が浸かるくらいで、幅も歩いて3歩ぐらいしかない。川というより田圃の脇の用水路みたいだった。水はとても清らかで、水草が揺れる中をメダカのような魚が泳いでいた。


 男はしばし考えた。この川の向こう岸に行きたかったが、靴が濡れてしまう。男の靴は革靴で、歩きすぎてぼろぼろになっていた。川は小さいとはいえ、ジャンプして飛び越えられるほどではない。まあでも見たところすごく綺麗な川だし、裸足で渡っても大丈夫だろう。


 男は靴と靴下を脱いで手に持ち、川に足を踏み入れた。

 その途端、川の幅が大きく広がり、足首までと思われた水が急に底なし沼のように深まった。男は足を取られ、水の中に沈んだ。


 パニックになりながらとりあえず岸に戻ろうともがいたが、両岸は遥か遠くにあった。泳いでも泳いでも岸には辿り着かなかった。


 どういうことなんだ。すごく小さな川のはずだったのに。


 左の方から地鳴りのような不穏な音が聞こえた。その方へ顔を向けると、雨季のアマゾン川のような激しい濁流がこちらへ押し寄せてくるのが見えた。


「…!!」


 男は慌てて逃げようとしたが、なす術なく濁流に押し流されていった。


 男が川から消えた後、川幅はまた狭まり、水の高さも元の足首ぐらいまでに戻った。水草が揺らめき、どこからかすうっと魚が現れ、元の清らかな小川になった。


 風はそよぎ、草は揺れた。先程の出来事など何もなかったかのように、穏やかで美しい豊かな自然が広がっていた。次の旅人が現れるのを待ちながら、狂暴な小川は微睡みの時間に入っていった。



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