11 罪悪感




「なあ、直斗。」


週末の夕方だ。

早めに帰ったシューが大川家に来た。


「どうしたんだ。」


ちょうど帰宅した直斗がシューに聞いた。

台所では茜が晩御飯の用意をしていた。


「あれから菜月の様子がおかしい。」


シューが暗い顔をして言った。


「あれって先週の菜月さんの実家に行ってからか。」

「そう。」


台所でちらと茜が二人を見た。


「どんなふうに?」

「僕を見ないんだよ。ちょっと避けてると言うか。」


そして茜が二人に近寄って来た。


「シューもそう思う?」

「茜も?」

「うん、普通は普通なんだけどあまり話さないと言うか。

何回か会ったけどなんか変。」


直斗が腕組みをした。


「俺は仕事だからあれから会ってないけど。」


茜がシューを見た。


「ねえ今日お鍋にしない?ここでみんなで夕ご飯食べようよ。

なんか材料持って来て。」

「豚肉あるよ。ネギも白菜もある。」

「すぐ持って来て、

わたしが用意しておくから菜月が帰ったら連れて来てよ。」

「ありがとう、茜。」


とシューはすぐ出て行った。

直斗はため息をつく。


「菜月さんは真面目だからなあ。」


茜が直斗を見た。


「真面目だからこそ落ち込むって事?」

「多分な。罪悪感じゃないかな。」

「肉親の問題って複雑だよね。」

「茜も経験あるからな。」


少し茜が笑う。


「菜月程じゃないよ。

確かにすごく悩んでいたけど菜月の話を聞いたら

大した事ないなと思った。

親父とうまく行かなかったぐらいだし、今は普通だから。

菜月のは一生引きずるかも。可哀想だよね。」


そして直斗を見る。


「それに直斗がいるからわたしは良い。」


直斗の顔が赤くなる。


「だから俺は茜と結婚したかったんだ。

茜はよく分かっているから。」




やがてシューと菜月がやって来た。


「茜、ごめんね、なんか準備してもらったみたいで。」

「良いよ、材料はシューがほとんど持って来てくれたから。

ほら座って。」


直斗がビール缶を持ってにこにこしている。


「ほら、飲もうぜ。明日は休みだし。」


菜月が薄く笑う。

やはり少しばかり元気がなかった。


しばらく皆は食事を続けた。

だが何となく覇気がない。

ついにシューが菜月を見た。


「菜月、僕は何かしたかな?」


彼はまっすぐに菜月を見た。

ド直球だ。

直斗と茜が慌て出した。


「おい、シュー、いきなり、お前、」

「そうよ、もうちょっとゆっくり……。」


シューが少し怒ったように二人を見た。


「これでも僕は我慢したんだよ。

どうにもならなくなったから直斗達に相談したんだ。

それで茜がご飯を食べようって言ってくれて、

みんなが心配しているんだよ。なのに菜月はむすっとして。

せっかく用意してくれたのに。

そんな態度じゃ駄目だよ。」

「むすっとはしてないつもりだけど……。」


菜月がため息をつく。

シューが言う事はもっともだ。

菜月はみんなを見た。

直斗が言う。


「言いたい事があったらはっきり言った方が良い。」


その通りなのだ。

彼女は一瞬俯いて顔を上げた。


「……あの、ただの私の我儘だと思う。

先週のあれをみんなを見ると思い出すの。」


それは菜月の母親にお金を渡した事だ。


「あれは間違っていないと私は思ってる。

私が決着がつけたいと言ったし、みんなが協力をしてくれた。

それはとてもありがたいと思ってる。

でも……、」


菜月が俯いた。


「あれは親を捨てたのだと思うと苦しくて。」


茜と直斗は顔を合わせた。

先程二人が話した事がそのままだったからだ。

今菜月が感じているのは罪悪感だ。

シューが菜月を見た。


「でも菜月はお母さんが言ったようにお金を持って行っただろ?

やってくれと言われた事をしただけだよ。

しかも僕は知ってるよ、

言われた以上のお金を包んだだろ?」


それは茜と直斗は知らない事だ。


「そう。

でもね、どうしても忘れられないの。

親の恩は海より深いと言うじゃない。

やっぱり私はあそこに戻って二人を見なきゃいけないのかと

家に行ったら思ったの。」


しばらく皆は喋らない。

鍋がぐつぐつと煮えている。

茜が鍋の火を落とした。


「ねえ、菜月、今自分が家に戻ったら

このマンションとかシューはどうなると思う?

ここの生活を捨ててまで戻りたい?」


菜月は俯いたまま首を振った。


「そうだよね。ここは自由だから。

でもあちらに行ったらまた給料は全部取られて、

暴力を振るわれるよ。それでもいい?」


菜月は顔を上げた。


「それは、ダメ……。」


直斗が菜月を見た。


「俺さ、この星に来たのは動物を調べに来たんだよ。

それで動物には巣立ちってあるよな。」

「ええ。」

「あれって自然と別れる事もあるけど、

ある日突然親が子どもを無視したり噛んだりするんだ。

それで子どもは訳も分からずうろうろおろおろする。」


それは菜月も知っている。

生き物の成長の過程だ。


「菜月さんのお母さんも先週きつく噛みついたんだよ。

いつまでも子どもが自立しないから。」

「自立?」

「精神的にだよ。共依存とかアダルトチルドレンと言うか。

親から十分に愛情をもらっていないから、

いまだにそれを求めている。

あの暴力を振るう元カレから離れられなかったのも、

根本にはそれがあるかもな。

菜月さんがお母さんをどうにかしなきゃと思うのは

優しい気持ちからだろうけど、

でももう菜月さんは大人だ。

自分の力で生きていかなきゃならない。

菜月さんは痛い目に遭って精神的に巣立つ時が来たんだよ。

向こうにしたらこっちは忘れてどこか行けって意味だ。」

「お金を渡したのに?」

「それはとても痛いだろ?

菜月さんにとってはとてつもない出費じゃないか?

まだローンは残っているんだろ?いくら出したんだ。」


シューが言う。


「菜月はネットで公立高校の平均出費を調べてたよ。」

「間違いなくお母さんが言っていたより多いよな。」


直斗が菜月を見て笑った。


「僕も直斗の言う事は分かるよ。

それに親の恩って言うけど、

親は親だからって子どもに暴言を吐いたり

暴力を振るうのは良いの?」

「良くない。そう言うのは虐待だよ。」


茜が言う。


「だよね。ちゃんとしたお父さんとお母さんで

子どもを大事に育てた人には

ちゃんと恩返ししないと僕もいけないと思うよ。

でも菜月のお母さんは違うと思う。

妹さんの方が大事って言ったんだろ?

それに子どもを産んだからその子に何でもして良いわけないよ。」


菜月が頷く。


「嫌われていたんならむしろ離れた方が親孝行じゃないの?

それにお母さんは菜月にひどい事をして毎日すっきり出来たんだろ?

ならもう恩返しは済んでると僕は思うよ。」


シューは菜月を見た。


「でも菜月がそう思う気持ちはとても大事だと思う。

菜月は優しいんだよ。だから苦しいんだ。

僕は思うよ、恩返ししたいんなら、

菜月が自分がしたい事をして幸せに生活するのが

本当の恩返しじゃないかな。」


彼は優しく菜月を見た。


ふと彼女は思う。


今初めて彼の顔を見た気がした。

ずっとそばにいたのに、

この顔は今まで見た事がないシューの表情だった。


しばらく二人は見つめ合った。

そして菜月の顔が急に熱くなる。


茜はちらと二人を見て鍋に火をつけた。


「さあ、煮詰まっちゃう前に食べちゃおう。

みんなまだほとんど食べてないよね。」

「そうだ、そうだ、腹減ったよ。シュー、ビール飲むか。茜は。」

「わたしはジュースにしようかな。菜月はビール?」


茜が菜月を見た。菜月は皆を見た。


「飲みたい。」

「上等。じゃあ洗い物は菜月ね。」

「えっ、」

「こっちは準備と場所を提供したから洗い物は菜月。」


茜がにやりと笑う。

するとシューが菜月に言った。


「僕も手伝うよ。でも飲むけど。

でもどうのこうの言いながらみんな手伝ってくれるよ。」

「調子いいなあ、お前ら。」


直斗が笑った。


「とりあえず喰おう。」


彼が鍋をつつき出す。


「でも直斗さん、本当にあんな事して大丈夫かしら。」

「平気だよ。脅かしに行った訳じゃないし。

失礼が無いように正装をして、留守だといけないから朝早く行ったんだ。

お土産も結構なものを渡したし、領収書も書いてもらった。」

「領収書って何か意味があるの?」

「全然ないよ。

まあ一つの記録として意味はあるけどな。

録音録画もしたけど何事も無ければ使わないし。」

「警察に相談に行くかしら。」

「行かないだろ。

だって菜月さんのお父さんがいなくなっても

警察には相談に行っていないだろ?

面倒でそう言う事をしないタイプじゃないか?

もしかすると働けませんって言い出して

連絡が来る可能性はあるけど、実家って持ち家なんだろ?

あの土地の広さとか見るとここより資産価値がある。

菜月さんはまだローンが残っているんだろ?

お母さん達の方が金持ちだよ。」


シューが目を丸くして直斗を見た。


「凄いな、直斗。」

「でしょ、わたしは賢い旦那様を持って幸せだわぁ~。」


とジュース片手に茜が惚気た。

二人は目を合わせてふふと笑っている。

菜月はそれを見た。


「なんか、本当に二人って良いよね。」

「えっ、そう?」


茜が嬉しそうに言った。


「菜月も結婚すれば?」

「えっ、私はその……。」


直斗がビールを持って言った。


「まあ、良いじゃないか、みんな飲めよ。」

「そうだよ、飲もうよ、足らなかったら持って来るよ。」


と調子よくシューが言う。

だが笑いながら直斗が彼の頭を軽く小突いた。


「なんだよ、直斗。」


少しふくれてシューが彼を見た。

だが直斗はそれを見て笑った。


「お前ももうちょっと頭使えよ。」

「えー、何の事か分からないよ。」


茜がそれを見て笑い出した

そして菜月もつられて笑う。


シューが皆の笑い顔を見てなぜかおかしくなり

彼も笑い出した。






その日の鍋はとても美味しかった。

後片付けを済ませて菜月とシューは家に戻った。


「隣で飲むと帰りが楽だなあ。」


とシューがベランダ近くに行き窓を開けた。

部屋の電気は付けていない。

外の明かりと煌々と輝く月が見えた。


「電気付ける?」

「あ、少しこのまま外が見たいな。月も出てるし。

満月だよ。」


それを聞いて菜月は彼の横に近づいた。


月明かりが美しい。

窓からは夜の街が見えた。

道路では車が行き交い家々に明かりがついている。


それを見てシューが言った。


「凄いね、この明かりがある所には人がいるんだよ。

僕の世界にはない景色だ。」

「景色がないの?」

「そうだよ、いわゆる物質が無いから。

だからあの明かり一つ一つが命に見えるよ。」


二人はしばらく外を見ていた。


「菜月、さっき言わなかった事があるんだ。」


シューが隣にいる菜月を見た。


「昔、戦争があっただろ?太平洋戦争って。」

「ええ。」

「その時の菜月も見て来た。

その菜月もお母さんに虐められてたよ。」


彼女ははっとする。


「お母さんは妹さんの方を可愛がっていた。

だけど妹さんは亡くなって、菜月だけ生き残ったんだ。」

「それで……、」

「菜月は家を出て飲み屋のママさんになった。

そして一人で死んだよ。」


しばらく菜月は無言だった。


「辛そうだった?」

「……うん。

戦争で友達が沢山亡くなったからそれをよく話していたよ。

でも妹さんやお母さんの事は全然言わなかった。

でね、一人で暮らし始めたら僕の方を全然見なくなったんだ。

その戦争の時に僕は菜月にこちらに逃げろって手招きしたんだ。

だけど来たのは菜月だけで他の人は来なかった。

その人達が妹さんや友達だったんだよ。」

「それでみんな死んじゃったの?」

「そう。」


菜月がシューに体を寄せた。


「僕は菜月を助けたかった。

だから手招きしたのは良かったと思っていたんだ。

だけど菜月は僕を見なくなった。

僕はそれがどうしてかよく分からなかったんだ。

でも今度の菜月とお母さんの事で僕は分かった。」


シューは彼女を見た。

菜月も彼を見上げる。


「自分だけ生き残った罪悪感なんだよ。

僕を見ると思い出してしまったんだ。

さっきまでの菜月の話を聞いて分かった。」

「あの、でもシューは悪くないわ。」


菜月は彼を真っすぐ見た。


「今度もシューや茜や直斗さんは全然悪くない。

むしろ私の事を考えてやってくれたの。

お礼を言わなきゃならないのは私の方なの。それは分かってる。

でもどうしても気持ちが晴れなかったのよ。」

「そうなんだろうね、

それも僕は初めて分かった。」


菜月は外を見た。

月が煌々と輝いている。


「前の私もシューを見ると思い出してしまったのよ。

シューは悪くないのに。

一番悪いのは戦争だと思うの。」

「戦争かあ。」


シューはため息をついた。


「精神世界で良いのは争いがない事だよ。

こればかりはあっちの方が良いかな。」

「悪い事を考えるとやっぱりそれもみんなに伝わるの?」

「うん、全部繋がっているようなものだからね。

一人の考えは水の波紋みたいに広がるよ。

ほんと争いごとがなければこっちの世界も

もっと良くなるのに。」


菜月は彼の横顔を見た。

綺麗な横顔だ。


彼女はそっと彼の手を握った。

シューがはっとして彼女を見た。

だが彼女は彼の肩に頭を寄せかけていた。

彼からは彼女の頭しか見えない。


彼の胸が急に苦しくなる。

それは嫌な苦しさではない。体が熱くなるような。


彼女の髪からはとてもいい香りがした。

ショーはそっと彼女の頭に顔を寄せた。


シューは自分に体を寄せている菜月から

ほのかに彼女の体温を感じていた。


柔らかな温かいその感触は

今まで感じたことはなかった。

彼の世界では感じられる事は無いからだ。

肉体と言う物が無いと分からない。


そして心の奥底に何かしら微かに湧き上がるものがあった。

それは彼が知らないものだ。


そしてそれはあまりにも心地良く甘かった。


菜月が今どんな気持ちなのかシューには分からなかった。

彼の世界なら相手の思っている事はすぐに理解出来る。


だが肉体と精神を持つ生き物ではそれは不可能なのだ。


言葉や仕草である程度は予測できる。

しかしそれは本心かどうか分からない。

お互いに予測し探り合う関係だ。


だがその不確かな関係がなぜかもやもやしながら

妙な快感があった。


どうして菜月は自分の手を握ったのか、

自分に体を寄せているのか分からないことだらけだ。

それでも彼女がそばにいるのが嬉しいのだ。


二人はしばらくそのまま外を見ていた。


「シュー、ごめんね。」

「えっ、」


少しばかりふわりとした気持ちのシューがはっと現実に戻る。


「多分前の私がきっとそう伝えてって言ってる。」


彼女が彼を見上げた。


「無視してごめんだって。そしてありがとう。」

「ありがとう、も?」

「ありがとうは前の私と今の私から。」

「両方から?」

「そう。」


と言うと彼女は少し強く彼の手を握るとさっと離れた。


「お風呂入れて来る。」


シューが何かを言う暇もなく部屋の電気がつけられた。

現実が戻って来る。

彼はちらりと窓の外を向くと車が走っているのが見えた。


さっきの気持ちは何だったのだろう、と彼は思う。

もしかするとビールで酔ったからだろうか。

そしてそれが終わってしまった事にがっかりしている。

もっと彼女と景色を見ていたかったのだ。


だが彼女は向こうに行ってしまった。

その時間は終わってしまった。

車の姿も向こうに消えた。


何となくがっかりとした気持ちで彼はカーテンを閉めた。






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