第2話 導き様

 祖母とともに夕食を済ませた蓮は勉強に少し手を付けたあと、自転車に乗って田舎道を走る。コンビニに出かけると言った手前、最寄りの店に立ち寄ることにした。適当にお茶と菓子を買い、目的のものを探しに再び自転車を走らせた。


 目的のもの――それは数日前に祭り出会った少女、紗夜だった。やっかいごとは御免被るのだが、彼女の妖艶な笑みが心の中でずっとつかえていた。あてもなく自転車を漕いだものの、紗夜の姿は見つからない。


「なにやってるんだ、僕は……」


 蓮はひとりぼやくと公園に入ることにした。ベンチに腰掛け、ペットボトルを開けて勢いよく飲む。緑茶が乾いた体と喉を潤していった。

 お茶を飲んで一息ついていた矢先、ひとりの少年が木陰のそばに立っていることに気がついた。紺の着物に赤い袴をまとった少年。白髪に布で顔を隠したその風貌は紛れもなく妖だ。


 目元は隠れているものの、じいっと見つめるような視線を感じて気持ちが落ち着かなくなる。どちらも沈黙を続ける中、先に動いたのは妖の少年だった。

 少年は蓮の元に歩み寄るとTシャツの裾を引っ張った。くいくいと続けて繰り返す。


「もしかして、どこかに案内したい……とか?」


 蓮の言葉に少年は首肯する。その時だった。

 リィンと、高い鈴の音がした。瞬間、ぞわりと悪寒が背筋を駆け抜ける。


 視線の先に立っているのは人らしき影があった。漆黒の着物に菊模様が施された銀の帯。真っ直ぐな銀灰色の長い髪が被衣から覗く。背丈は小学校中学年ごろといったところだろうか。被衣をまぶかに被っているため目元は見えないが、輪郭と唇はふっくらとしていた。


 しかし、それが放つ存在感は裾を引いた少年など比にもならなかった。心臓が早鐘を打つ。

 関わってはいけない。それは直感だった。影の口元が弧を描く。


『そんなに怯えなくてもいいのに』


 耳に響くのは玉を転がすような声。そこで呼吸を思い出す。蓮ははやる心臓を宥めながら乾く口を開いた。


「君はいったい……?」


 出てきたのは情けないほどの弱々しい問い。それを聞いて少女はころころと笑った。


『あの子が望んだんだよ。この世ではないどこかに行きたいと。だから君が探して何かしようとしても、無駄』


 問いをまるで無視したかのような答え。しかし、返ってきた言葉で蓮はハッとする。問おうとして言葉が喉につかえた。それを見越してか、少女は続け様に問うた。


『ああ、でも君も面白いね。よかったら、こっちにくる? きっとその方が――楽しいよ』


 少女が手招きをする。ふわりと頭が眩んで、手繰り寄せられるように体が動く。

 じゃり、という音がして蓮は我に返った。足で小石と地面を擦ったのだろう。些細なことだが思考が戻ったことに感謝した。

 我に返った蓮を見て、少女は残念そうに手を下ろす。ここで自分の見当は間違っていなかったのだと蓮は確信した。


「導き、様……」


 答え合わせのために発した言葉に対して、少女はただ笑みを零しただけだった。それは問いに対する答えそのものだった。


 少女が言ったことが本当であるならば、彼女は導き様に会い、望んで幽玄の者に成り果てたということだ。自分とほんの一つしか歳が変わらない彼女が、何をしてその道を選んだのか。導き様が彼女をどうするつもりなのか。わからないことばかりで、自然と疑問が口から溢れていた。


「紗夜は……元に戻れないんですか? それに彼女を、どうする気ですか?」

「もう器がない。何よりも、本人が望まない」


 導き様は蕩々と言の葉を連ねる。平坦なように聞こえながらも、そこには隠しきれない高揚が満ちていた。次いで出た言葉は、善悪も関係なく無邪気に笑う子どもそのものだった。


「早くこっちに来てくれないかな。たくさん同族が増えるのは、楽しみ」


 背に虫が這うような怖気が走る。

 導き様が身を翻した瞬間、ふっとその姿が消え去った。はやる心臓のまま、蓮はその場に崩れ落ちる。ナイフを突きつけられたわけでもないのに、異常なほどの息苦しさと吐き気を伴う。


 そこで不意に背中の服を引かれて、現実に引き戻される。気がつけば先程の少年が再び服を引っ張っていた。かすかに震える腕からみると、この少年も導き様に気圧されていたらしい。それでもなお、この場に止まっていたとなると、余程伝えたいことがあったのではないだろうか。


「ああ……。ご、ごめん。案内してくれる?」


 蓮の言葉に少年はこくんと頷いた。Tシャツの裾は掴んだままで離してくれそうにない。蓮は仕方なくそのまま歩くことにした。


 案内されたのは川のほとり。そこに明るい光球を飛ばす狐耳の少年や化け猫、顔を布で隠す白髪の少女がいた。彼らの傍らで、妖が放つ色とりどりの光や幻を紗夜がキラキラとした目で追っている。


『あ、蓮』


 いつの間にか呼び捨てにされていることも気にとまらないほど、その時は余裕がなかった。

 こっち来て、と言い放った言葉は自分でも聞いたことのない切羽詰まったものだった。不穏な空気を感じ取ったのだろう、紗夜はふっと笑顔を潜める。再び笑顔を浮かべると妖たちに手を振った。


 蓮が背を向けて歩き出したのを見て、紗夜は慌ててその後ろ姿を追う。人気ひとけのある家が見えてきたところで蓮は足を止めた。


「彼らともう関わらないほうがいい」


 何の前触れもなく言い放たれた忠告に紗夜はムッとしたようだ。その態度と相違ない言葉が切り返される。


『なんでそんなこと君に言われなきゃいけないの? 私がどうしようと勝手でしょ』

「このまま妖の類に関わったら、君だってどうなるかわからない」

『いいじゃん。楽しそうで』

「……は?」


 返された言葉の意味が飲み込めなかった。いや、飲み込みたくなかっただけかもしれない。


『関わってみて思ったけど、人間の世界よりもよっぽど親切だよ。わからないことは助けてくれるし、私を私として見てくれる』

「本気で、言ってるの? 君が死んで、家族や周りの人は悲しんで――」

『君はいい家族を持ってるんだね』


 大きく削がれた月を背に、少女は酷薄な笑みを浮かべた。

 この笑みを自分はよく知っていると、そう思った。


『君が羨ましい。私には……居場所がなかった。ううん。生きてる価値なんてなかった』

「どう、いう」


 蓮は詰まる言葉を無理やりに吐き出す。そんな蓮に気を留めず、紗夜は酷薄な笑みを濃くした。それはモルフォ蝶のように美しく、内に毒を秘めた者の笑みだった。


『私のお父さんね、ちょっと昔に流行ったアーティストのボーカルだったの。不倫して、離婚して。再婚して……今の私の家族があった』


 淡々と紡がれる言葉。まるで他人のことを話すかのように白々しく聞こえる。


『それを知ったのはつい最近。今って残酷だよね。ネットニュースに残ってるんだ。それがクラスで拡散されて知ったの。気がついたら一人ぼっちで、誰もいなくなっていた。友達だと思ってた子も先生も……誰も、助けてくれなかった。親にはもちろん、話を聞きたくも言いたくもなかったしね』


「駄目だ」


 直感で紗夜が彼らを同じ側に引き摺り込むのだと思った。どういう手段を取るのか、誰まで巻き込むかはわからない。けれど、ここで止めなければきっと彼女は悪鬼に成り果てると感じた。

 妖艶に笑う少女はわずかに目を見張ったが、すぐに仮面の笑みを貼り付ける。


「止めても無駄だよ。だってそうでもしないと――終われない」

「誰かを恨んでも、過去を呪っても、全部自分に返ってくるだけだ。いや……、ちが――」


『因果応報? あはは。優等生だねぇ、蓮は。まさに泥中の蓮だよ。……でもさ、泥の世界に沈んでいく人だっているんだよ』


 月を背に立つ姿は凛としていて、いっそ美しい。モルフォ蝶は美しい見た目に反して、腐った果実や動物の死骸を好んで喰む。今の彼女はまるでそれのようだった。


『じゃあね。蓮。ちょっとだけだったけど、話せて嬉しかった』


 彼女は少しだけ寂しそうな笑みを浮かべて、目の前から消え去った。








 カタンと玄関の扉が音を立てる。早足で近づいてくる足音を聞きながら、蓮は靴を脱いだ。


「蓮、遅かったじゃない。それに……」


 顔を出したのは祖母だった。見るからに不安が滲んだ顔をしている。けれど、それに受け応えるだけの気力が今の蓮にはなかった。


「遅くなってごめん。調子悪いから、今日はもう寝る」


 心配をしてくれているとわかる声を振り払って、蓮は二階の自室に戻る。汗を流すために風呂に入りたいのは山々だったが、その気力すら今は湧かなかった。ぼすりとベッドに沈む。


 別れ際の紗夜の笑みが脳裏に焼き付いて離れなかった。しかし、ふとしたきっかけで知り合っただけの蓮に止める術はない。これ以上の介入はできないと思い直して目を瞑る。


 ふと目を覚ました時には夜中だった。いつの間にか眠っていたらしい。喉の渇きを覚えて、何か飲みに行くかと寝返りを打ったところでクローゼットが視界に入った。

 蓮は不意にその奥にあるはずの、ずっと開けずにいたままの物を扉越しに見つめる。おもむろに立ち上がると、クローゼットの奥に手を伸ばした。

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