幽玄の夏に僕らは惑う
立藤夕貴
第1話 蠱惑の夜
夏の夜は幽玄だ。そして、
真夏のぬるい風が吹き抜け、少年――
道端で制服姿の少女が猫の前に座り込んでいた。それだけならいい。亜麻色の毛並みの猫は二本足で立ち、表情をころころと変えて意気揚々と何かを語っていた。どう見ても
気まぐれに出かけたのは町の夏祭り。受験勉強を理由に友人からの誘いを断り、本当は来ないつもりだった。しかし、祭りの喧騒と現実逃避に誘われてついつい足を運んでしまったのだ。
持っているラムネの瓶がカランと音を立てると同時に、化け猫が慇懃無礼にお辞儀をする。それに対して少女は屈託なく手を振った。化け猫の後ろ姿が見えなくなり、少女が道を外れて暗がりに向かって歩き出す。
小さな町の大きな風物詩。そのせいだろうか、この世でもないものが増える。特にこの地域はそう言った逸話が多いのだという。昔からその類を見ていた蓮にとっては避けるべきはずだったのに、いつの間にか祭りに誘われていた。やはり、夏という季節が人だけでなく妖をも高揚させているのだろうかなどと、不埒なことを考えてしまう。もう帰るべきだと思いながら、屋台が並ぶ道へ戻ろうとした時だった。
――むやみやたらに嫌っては駄目だよ。
不意に浮かんだ言葉に蓮は足を止める。
自分以上に妖といった類いを察知できることができた祖父は、事あるごとにそう言った。感情に折り合いをつけられれば容易なのかもしれない。けれど、今の自分には到底できそうになかった。それに、できれば面倒ごとは避けて通りたいもの。この世ならざるものには触れないほうがいい。
そう思ったものの、いつの間にか蓮の視線は少女が消えていった先に戻っていた。足早に後ろ姿を追うと、それほどしないうちに少女を見つけた。
セミロングの艶やかな黒髪に半袖のシャツと紺のプリーツスカート。どこの学校かわからないが、同じぐらいの年頃だろう。背丈は蓮より少し低いぐらいで、すらりとした手足が妙に大人っぽく見えた。背中を追いかけつつ思わずしっかりと観察してしまっていることに気がついて、蓮は慌てて思考を元に戻す。祭りから離れ、人気が遠くなったところで少女に声をかけた。
「ちょっと……」
瞬間、少女が立ち止まって勢いよく振り返る。勢いに気圧された蓮が体を強張らせている間に少女は嬉々として迫り寄ってきた。
『すごい! 君、私のこと見えるんだ!』
少女が蓮の手を取ろうとするも、スッと通り抜けてしまう。それを見て少女は真顔になり、少し間を空けてから残念そうに独りごちた。
『あー……。見えると言ってもやっぱり触れないか』
そう言いつつも呑気に少女は笑う。そんな彼女を見て蓮は眉を顰めた。
「君はなんでこんなところにいるの? それにさっき……」
『っと、ちょっと待って。話すなら、まずは自己紹介してからじゃないかなぁ。立ち話もなんだし、移動しようよ』
少女はにこりと笑うと、街灯がまばらな道を歩いていく。颯爽と歩き出してしまった後ろ姿を蓮は仕方なしに追った。程なくすると大きな岩がそびえる川辺に出て、少女はキョロキョロと辺りを見渡してから蓮に目を向けた。
『私は
「……蓮。蓮の花の」
『蓮かぁ。いい名前だね。ねえ、年齢は?』
「誕生日が来たら十五だけど……」
『それなら中三か』
そう言いながら紗夜は川辺にある岩場に腰掛ける。ちなみに私は一つ上ねと言って彼女は笑った。ということは高校一年ということか、と蓮は思考を巡らせる。逡巡してから、少し距離を空けて紗夜と並ぶように腰掛けた。離れたといえども、場所は祭り会場とさして変わらない。遠方から賑やかな声が聞こえてくる。
霊体で現世を惑っている場合、亡くなったことを認識していないほうが多いと祖父から聞いたことがある。彼女の現状を鑑みると意思して現世に留まっているように見えるのだが、何故という疑問があった。蓮はちらりと紗夜を見遣る。
「さっき、猫の妖と話してたよね。ああいったものとあんまり関わらない方がいいと思うんだけど」
蓮の視線を受けて紗夜は微笑む。今更ながらに目鼻立ちが整っているなと感じた。垢抜けていて、自分とは違う環境で生きていたんだろうとぼんやりと思う。
『なんで?』
「……ああ言った類のものは人を巻き込んで楽しむことが多いからだよ。危険だってあるし。そういうわからないもの信じて、痛い目をみたらどうするの?」
『蓮くんはそういうことあったの?』
「……どうだろうね」
歯切れ悪く返す蓮に対して、紗夜はふうんとなんとも言い難い相槌を打った。彼女は膝元に頬杖をつき、上目がちに蓮を見遣る。
『まあ、生きてる時に霊感なんかなかった私が言うことじゃないかもしれないけど。いい妖怪だっているんじゃないかなぁ。ほら、アマビエ様なんか有名どころじゃん』
流行疾患が流行った昨今、疫病退散のご利益があることからアマビエが大々的にもてはやされた。善悪はとかくして、神秘的な存在、この世ならざるものというものはいつの時代も人の心を惹きつけてやまないらしい。
神秘的な存在に対する人の反応はさまざまだ。奉ずる人々、面白おかしく騒ぎ立てる輩、嫌厭する者。どちらかといえば蓮は嫌厭に類する者だった。
『こういう秘密めいたものに触れられるって羨ましいけどなぁ。あ、そういえば蓮くんはさあ、導き様って知ってる? ちょっと話題の都市伝説』
聞いたことはある。対価を払えば望む場所に導いてくれる。忘れてしまった思い出の場所、今はなき懐かしい風景。この世でない場所にさえ導いてくれる――それが導き様だ。
ただ、その都市伝説はここ十数年で流行りだしたものだ。都市伝説自体がそもそも信憑性などないに等しく、噂に聞く導き様の話は架空のものに思えた。
「知ってる。でも、都市伝説は信憑性なんかないに等しいし……」
言いかけてハッとする。真夏なのに空気が冷え、突き刺すようなひりつきが肌を襲う。
「もしかして導き様に、会った? それとも会うつもり? 君は――」
いつの間にか紗夜が目の前に立っていて、蓮の唇に人差し指を当てた。手の感覚などないのに思わずどきりとして、言葉は喉奥に飲み込まれてしまった。
『秘密』
月にも負けない妖艶な笑みを浮かべたまま、紗夜はただ一言だけそう言った。
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