八幡神、大いに荒ぶるの事

坂田金平さかたのきんぴらが去って行く。追撃隊の大将である源頼義みなもとのよりよしは川面に膝をつけたまま動かない。反対岸でおろおろとただ二人の様子をなすがままに眺めていた常陸国軍の兵士たちを佐伯経範さえきのつねのりが叱咤した。



「何をボケっとしてんだコラ!逆賊坂田金平が国境を越える前に捕まえろ!!」



経範の咆哮に兵士たちは雷に打たれたように緊張が走り、大慌てで次々と川を渡り始める。下手人たる坂田金平はすでにその姿が見えなくなるほど先行していたが、この先は身を隠す場所もない一本道である。急げば必ず彼の姿を捉えることができるはずだ。兵士たちに先立って経範も川を渡り切る。金平に吹き飛ばされた痛みが全身を駆け巡るが、そんなことに構っている暇はなかった。



「各員、急げ……!」



経範が兵士たちを指揮するために振り返った瞬間、その兵士たちの頭上に無数の矢弾が降り注いだ。



「なに!?」



経範は再び首を前に返す。そこにはいつの間にか出現した弓兵の一団が常陸国軍の渡河を邪魔すべく佐伯経範の頭上を越えて一斉に矢を放っていたのだ。突然の襲来に兵士たちはもろにその矢弾を受け、次々と倒れて行った。



「クソがあっ!どこのどいつだコノヤロー!?」



怒りに震えて叫ぶ経範の膝元にも矢が一本突き刺さる。衝撃と激痛に経範は一瞬身を硬くしたが、すぐさまその矢を引き抜いて地面に叩きつけると、後続の兵士たちに退却を命じた。



「恐れ多くも陸奥むつ国守様ご養女であらせられる『金色の丹生都姫にうつひめ』様、およびご養父坂田金平様を掠取りゃくしゅせんと企む不届き者どもめ、これ以上の狼藉はこの安倍忠良あべのただよしおよび我ら奥州安倍一族が許さぬ!早々に兵を引けいっ!!」



弓兵隊の向こうから指揮官らしき髭面の武者が大声で叫んだ。安倍忠良?あの奥六覇王が自ら兵を率いて最前線に立っていると!?



「ざっけんなコラ!!ここは常陸領内だぞ、国境を侵犯して我らが土地を踏み荒すのはどういう了見だコノヤロー!」



ずっと川面にうずくまったまま動かぬ頼義に代わって経範が叫んだ。端正な顔と裏腹にその言葉は語彙に乏しい。



「さにあらず。我らは先なる坂田金平様の御申し願いにより、姫様を勾引かどわかさんと不逞を働く匪賊ひぞくどもの手からご両人を守るために派遣されたもの。これ以上非道を重ねるならばこの安倍忠良、容赦はせん!!」


「はあ?何言ってんだこのバカ、どの口が言うか!!」



安倍忠良のあまりにも図々しい言い分に経範は我を忘れて激怒する。その様子を見て忠良はニヤリと底意地の悪い笑みを浮かべた。



「手向かうか?ならば望み通り矢弾の的となれいっ!!」


「……やかましい。これ以上図にのるなよ田舎者」



経範の後ろで何者かが不遜な台詞を吐く。驚いて振り返る経範の目の前を熱い、目もくらむような光の束が通過した。



「のわっ!!」



まともにその光を直視した常規はその圧倒的な光量に目を焼かれ、思わず両手で目を塞いだ。暗闇の中で遠くから雷鳴のような、地響きのような轟音が響くのが聞こえる。続いて経範の感覚器官に届いた情報は、か細く聞こえる男たちのうめき声と、肉や髪の毛の焦げ付く醜悪な匂いだった。



「…………!?」


「ふん、『私』の破魔矢はまやは邪悪なる者にしか通じぬものであるが、果たしてかほどに痛み苦しむという事は、人間もまた斯くありなん、という事か」


「お、おい、大将……?」



目が眩んで一時的に視力を失っている経範は、そばにいる者の声を聞いて戦慄する。その声は紛れもなく己が主人と認めた源氏の惣領そうりょう頼義である事は間違いない。間違いないが……



「おい、そこなる人虎よ。馬鹿め、我が破魔矢をまともに目にしたな。視力が戻り次第兵どもを引かせよ。あの阿呆どものお仕置きは『私』一人で十分だ。いや、『私』にやらせろ、あの者共にはちと痛い目にでも合わぬと懲りぬらしいでな」



青白い目を爛々と輝かせた「八幡神」が水を得た魚のように満面の笑みを浮かべて弓矢を番えた。


かたや、つい今の今まで圧倒的優勢に勝ち誇っていたはずの安倍忠良も突如崩壊した自軍の惨状に冷たい汗を流していた。



「な、なあ、なんじゃありゃあ?こげえな話やあ聞いてねえっぺよう!」



動揺のあまりお国言葉が口に出る。つい先ほどまで川のど真ん中で情けなく突っ伏していた敵の大将が、突然すっくと立ち上がったかと思うとただの一矢で二百からなる弓兵の半分を吹き飛ばしてしまった。いったいどのような仕掛けを施せば一撃でこれほどの被害を出せるものか、忠良には想像もつかなかった。


そうこうしているうちに敵が第二射を撃ち込むべく弓を引き絞ろうとしている。



「た、退却!!退却だ皆の者!!装備は捨てよ、怪我人も置いていけ、身一つで構わぬからとにかくケツまくって逃げろ!!」



そう言うや否や自分が真っ先に背中を向けてあの「破魔矢」の射程から逃れるべく一目散に逃げ出した。大将のあまりに見事な逃げっぷりに、陸奥軍の弓兵たちもその場に何もかも投げ捨てて鼠のように一斉に群れをなして逃走して行く。


後には無残な焼け焦げた戦場跡と、敵陣に取り残された負傷兵が転がっているだけだった。



「ほほ、身も世もなく尻をからげて逃げおったか。成る程、一筋縄では行かぬ奴のようだな、引き際をようわきまえておるわ」


「大将、いや……」



思わず「八幡神」の元に跪いた経範は恐る恐る声をかける。彼は知っている、は頼義であって頼義ではない。彼女の奥底に繋がっている「異界」より来訪する、あの……



「逃すか虫ケラどもめ……と言ってもこちらも手勢がもはや足りぬか。ふん、仕方ない。戻るぞ、虎の子」



「八幡神」が経範に命ずる。しかしその顔は「神」である非情さや超越ぶりなど微塵も見えず、何やら非常に困り果てている、といった様子に見えた。



「それにしても、はて困ったものじゃ。この娘め、わい」



経範には、この「神」が言っていることの意味がわからなかった。

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