最強の魔法使いは堕落の道を歩きたい

柿うさ

第一章 デタラメな非常勤講師

第1話 非常勤講師になったワケ

 それは、とある早朝の一風景。


「なんつーかさ。俺、つくづく思うんだよ。この世には絶対的な真理などないのだと。なぜならそれを、神を前提とする世界を人類自らの手で、その文明によって破壊してしまったからだ」


 長き修行の果てに悟りを開いた僧侶のような表情で男――オルレアは言った。気だるげに頬杖をつきながら、テーブルを挟んで正面に腰かける妙齢の女に穏やかな視線を送る。


「天動説が地動説に、創造論が進化論によって否定された。学問の世界においては、神の存在がこれら理論によって破壊されたのだ。また実社会においても、神の名の下に行われる戦争、不正の数々、歪む倫理と信仰が神の存在を虚無に変えてしまったのだ」


 オルレアの視線を受け、女は微笑を浮かべ、優雅に足を組み替えた。その仕草はまるで舞踏のように美しく、彼女の持つ気品を際立たせる。

 ティーカップを手に取り、まったく音を立てずに一口飲むと、彼女は冷ややかに応じた。


「ふ、そうか。死ねよ、穀潰し」


 辛辣な言葉を淡々と放つフローゼの顔には、優美な微笑が浮かんでいた。彼女の唇から漏れ出た毒々しい言葉は、あたかも鋭利な刃のようだった。


「まったくフローゼは厳しいなぁ。……あ、おかわりをもらえるかな」


 オルレアは微塵も気にする素振りを見せず、空になったカップを女――フローゼのの鼻先に突きつけた。その動作は、まるで当然の権利を主張するかのように自然なものだ


「凄まじい図々しさだな、君は」


 フローゼは毒づきながらも、その手つきは優雅で、オルレアのカップに再び紅茶を注ぐ。彼女の動きはまるで精密な機械のように無駄がなく、美しさに満ちている。


「普通、働きもしない居候って、もう少し謙虚になるものだぞ」


「それがダメなんだよ。曲がった道徳規範、社会の秩序、空気、他人の目線。そんなものに縛られるから、人は醜い姿になってしまうのだ」


「その上、説教とは恐れ入る」


 フローゼは肩をすくめ、呆れた様子でオルレアを見つめる。彼女の顔には嘲笑の色が浮かんでいたが、その瞳にはどこか寛容な輝きがあった。

 社会的負け犬、落伍者然とした彼とは対照的に、彼女はまさに特権階級の象徴ともいえる美しさを持っていた。彼女の年齢は二十代の半ばと見えるが、その存在感は年齢を超越したものだった。


 フローゼの黒髪は夜空の闇のように濃密で、光を吸い込むかのように輝いていた。その深紅の瞳は、まるでルビーのように煌めき、見る者の魂を引き寄せる。彼女の顔立ちは完璧なまでに整っており、神々しさすら感じさせる美しさを持っていた。


 彼女の身にまとっている装束は、一見すると聖職者の法衣のように見えるが、その胸元は大胆に解放され、ベルトで強調されたウエストラインは蠱惑こわく的だ。

 豪奢ごうしゃな刺繍が施されたその衣装は、彼女の圧倒的な美しさを一層引き立てている。彼女は、その気高い雰囲気と堂々たる立ち居振る舞いで、まるで生まれながらにして人の上に立つべくして存在するかのようだった。


 さらに言えば、二人が住むこの壮麗な城のような大邸宅の主人はフローゼであり、オルレアはただの居候に過ぎない。その社会的地位の格差は、まさに天と地、月とスッポンほども異なっていた。しかし、その格差を越えて、二人は同じテーブルを囲み、まるで長年の友人のように会話を交わしていた。


「それはそうと、オルレア……お前、そろそろ新しい仕事を探さないか?」


 フローゼは真紅の瞳でオルレアを見据え、その言葉を発した。まるで一本の矢が的を貫くように、彼女の視線は鋭く、揺るぎない。お茶を啜るオルレアの手が一瞬止まる。


「お前が前の仕事をクビになり、私の家に上がり込んでから早三年。お前は毎日毎日、食って寝て、食って寝て、時折下らない議論を吹っかけてくるだけの穀潰し生活を続けているわけだが。寿命の無駄遣いだぞ?」


 フローゼのため息混じりの言葉に、オルレアは堂々と胸を張って、自信満々に応じた。その態度は、まるで何の後ろめたさもないとでも言いたげだ。


「大丈夫だ。俺は今の自分を愛している。過去の俺は、社会の期待に応えようとして自分を失い、思考も曇っていた。だが今は違う、今の俺は何億倍も何兆倍も輝いているんだ」


「何をどう比較すれば、哲学者気取りの無駄メシ喰らいな生き様の方が輝いていることになるんだ」


 フローゼは額に手を当て、呆れたように力なく続ける。彼女の目には、オルレアの怠惰ぶりが目に余る様子が見て取れる。しかし、オルレアは持ち前の図太さを発揮し、どこ吹く風といった態度を崩さない。


「まったくお前という奴は……昔のよしみでお前の面倒を見てやっている私に少しは申し訳ないとでも思わないのか?」


「俺は良い隣人に出会えて、本当に幸運だった。これからもよろしくな」


 その一言に、フローゼは流石に堪えかねたようだった。オルレアのスネをテーブルの下で蹴りつけると、忌々しげに舌打ちをする。


「うっ!? いきなり蹴ることはないだろ!」


 オルレアは痛そうに脚をかばい、濡れた子犬のような涙目で抗議する。その情けない姿を前に、フローゼは呆れきった様子で大きなため息をつく。


「まぁ、とにかくだ。そろそろお前も前に進むべきだと思う。いつまでもこうして時間を無駄にし続けるわけにもいくまい? お前自身も本当は分かっているのだろう?」


 諭すように、そして力強くフローゼは問いかける。

 百の言葉を煮詰めたような重さと深みを持ったその言葉に、今度ばかりは流石のオルレアも茶化せない。彼女が本気で自分のことを思ってくれているのが理解できたからだ。


「つってもなぁ……今さら働くとして……一体、俺は何をしたいんだか?」


 オルレアは腕を組み、宙を見上げながら考え込んだ。


「お前がそう言うだろうことはわかっていた。だから、ここは一つ、私がお前に仕事を斡旋してやろう」


「仕事の斡旋だと?」


「ああ。実は今、エデンガルド帝国魔法学院の講師枠が、ちょうど一つ空いてしまっているのだよ」


「学院の講師?」


 オルレアが、「何言ってんだこいつ?」といわんばかりの露骨な表情を浮かべる。


「急な人事だったものだからな。当分、代えの講師が用意できないんだ。よって、お前にはしばらくの間、非常勤講師を務めてもらおうかと思っている」


「ちょっと待てよ。俺が規律訓練型権力をどれほど嫌っているか、お前もよく知っているだろう。人間を都合の良い兵隊や労働者に変えるための機関で働くなんて、考慮にも値しない」


 オルレアは、今までのふざけた調子を一変させ、不快そうにフローゼを睨みつける。彼にとって、学校とは規律訓練型権力であり、個々の自由や個性を抑え込み、均一化することで社会の秩序を維持しようとする抑圧的な体制を意味していた。

 その体制に組み込まれることは、自分の精神を拘束されることに等しいと考えていたのだ。

 

「仮にその話を受けるとして、今さらどの面で俺は人に教えるのだ。個人や自由を殺し、子供たちが国家や皇帝のために万歳突撃ができるように教育すればいいのか? そんな偽りの正義に従う日々を送るなんて、それこそなんと憂鬱なことか」


 オルレアの長年の持論が、またもやその口から漏れた。彼の言葉は、長い夜のしじまを破る雷鳴のように、フローゼの耳に響く。

 彼女はうんざりしたように肩をすくめ、口元にほのかな苦笑を浮かべながら、彼をなだめるように語りかけた。


「まぁ、そう言うな。期間は三ヶ月だし、給与も特別に正規の講師並みに出るようにしてやる。もし三ヶ月の間に良い仕事をすれば、正式な講師として迎えることも考えよう。どうだ? 悪い話ではなかろう?」


 フローゼの提案は考えるまでもなく破格の条件だった。しかし、オルレアは自嘲気味に鼻で笑い、低く呟いた。

 

「……無理だな」


「無理? なぜだ?」


「わかるだろ? 俺は絢爛けんらんたる奴隷生活の平穏無事なくびきよりも、苦難に満ちた自主独立の生活を選ぶような、どうしようもない男なのさ」


 オルレアは、まるで古典の英雄が重荷を背負うかのような芝居がかったセリフを吐き出し、フローゼの申し出を拒絶する。

 

「この上なくイライラするな、そのセリフ。私が真剣に話しているというのに。心底、地獄に落ちてほしいと思った」


 フローゼのこめかみに青筋が浮き上がる。忍耐の限界が近いようだ。オルレアもそれを感じとったのか、少し慌てて取り繕うような言葉を並べ始める。


「そう怒るなよ。そもそも俺は教員免許を持っていない。だから、その申し出を引き受けたくともできないんだ」


 オルレアは抗議の声を上げるが、フローゼはその動揺を見透かしたように、冷静に応じる。


「資格云々については、安心しろ。私が許可する」


「は? どういうことだ?」


 オルレアの眉間に疑念の皺が寄る。フローゼはその様子を楽しむかのように、微笑みを浮かべながら答えた。


「知らないのか? 私はヴァレンティーノ家当主だぞ。ヴァレンティーノ家は度々権力を頼みとし、その権限は絶大だ。時には不正も許される」


「チッ、特権階級め」


 オルレアの忌ま忌ましげな悪態を無視して、フローゼは続ける。


「魔法講師としてのお前の能力は問題ないはずだ。どうだ? やってみないか?」


 フローゼの提案には、確信に満ちた響きがあった。しかし、オルレアはその言葉に不信の眼差しを向ける。


「目的のために権力で法律を捻じ曲げる。それでお前は本当にいいのか? 胸を張って生きられるのか? 俺はそれが心配だ」


「はい、ダウト!」


 フローゼはオルレアの言葉に鬼の首でもとったかのように、ビシッと指さした。

 何事かと思い、彼がぎょっとしていると、フローゼは滔々とうとうと語り始めた。


「お前はいつも言っているじゃないか。悟りや真理、道徳がないから、自分に何の基準もないから神や救世主、国家に判断の基準を委ねるのだと。そんなお前が、私の申し出を断る根拠として法律を挙げるのは、それこそ卑劣。女衒ぜげんにも勝る不名誉かつ恥辱というものだ」


「ち……確かに。だが、そこまで言うか」


 フローゼの言葉は、鋭い剣のようにオルレアの心を突き刺す。彼の口からは反論の言葉が出ない。図星を突かれた彼は、バツの悪そうな表情で口を閉ざし、まるで敗北を認めたかのように目を伏せる。

 フローゼはそんな彼の姿を見て、勝利の笑みを浮かべるが、その喜びも束の間のこと。すぐに真剣な表情に戻り、再び口を開く。


「とにかくだ。もし何か困ったことがあっても、私が力になる。だから、お前も勇気を出して一歩前に踏み出てみないか?」


 目を覆いたくなるほど眩しい善意が圧力となって、オルレアに襲いかかる。

 その輝きに、彼は思わず目を逸らすが、フローゼの真摯な眼差しは彼を捉えて離さない。そしてついに根負けしたかのように、彼は大きなため息をついた。それは彼が観念した証だった。


「……わかったよ。けど、どうなっても知らないからな」


 こうして、半ば強制的にオルレアの再就職先は決まったのである。三年ぶりに手にした職、それはエデンガルド帝国魔法学院の非常勤講師の座だった。三ヶ月という短い期間ではあるが、彼の新たな旅路がここから始まる。

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