色を持たぬ少女。子を持てぬ魔女
白夏緑自
第1話
とある森の奥地。緑に囲まれた湖を一望できる崖上で黒髪の少女──ミーティアはキャンバスに向けて黒鉛を走らせていた。
静かな時間。冷たい朝の空気がいつの間に陽の温かみを帯びていることにも気が付かぬまま、やがて最後の線を引く。
黒鉛を画材入れに仕舞うと、集中がどんどん細くなっていくのがわかる。途切れてしまわぬうちに、四角形の中に写した世界を眺める。どこか足りない箇所はないか。今一度、確かめてみる。
不備よりも己がこの絵に対して満足が出来るかどうかが大事だ。どうせ、至らぬ点は多くある。その評価を下すのは、この絵を買い取る画商だ。ミーティア自身があれこれ文句をつけて、いつまでも手元から離さぬのでは、それこそ無価値のまま朽ちていく。
だから、彼女は書き終えてから一度も陽が西へ傾かぬうちにキャンバスをディーゼルから剥がした。
完成した。ただし、そのまま布に包んで保管したりはしない。完成したと言っても、ミーティアが出来る工程の限りの話だ。このまま画商に持っていっても、びた一文の価値もつけてはくれないだろう。
ミーティアはキャンバスを持って、近くの切り株で紅茶を飲む女へ近づく。まだ淹れたばかりなのか、マグからははっきりと湯気が昇っている。
チェックにもう少し時間をかけてよかったかもしれない。そんなことを思ったが、ここまで近づいては
「師匠、お願いします」
黒髪の少女が切り株に座っている女にキャンバスを手渡す。
師匠と呼ばれたその女──カルラは「うん」と右手のみで受け取った。
カルラは右手と己の太ももで押さえるキャンバスの中に描かれた風景と、現実の風景を交互に見比べる。
その間、命じられたわけでもなくミーティアは微動だにすることができなかった。手持無沙汰な両手をギュッと握りしめて、カルラの目の動きを追う。彼女が今、どこを見ているのか探りながら、そこに自分はどんな線を描いたかを思い出す。
ミーティアが3度目の鳥のさえずりを聞いたとき、ようやくカルラが声を発した。
「うん、いいんじゃないかな」
この一言にミーティアは安堵の息を吐いた。長い間息を止めていたかのような深い吐息にカルラはついつい苦い笑みを零した。
「私がお前の絵にダメ出しなんてしたことがないだろ?」
そんなに緊張することもなかろうに。発さずとも、笑みの意図を読み取ったミーティアはすぐさま反論する。
「でも、絵を描き始めたときは多くのご指南を頂きました」
「誰だって始めたてはどんな素人よりも劣るものだよ。お前が指南と呼ぶものはただの年長者からの助言みたいなもの。私がミーティアの絵につけるケチなんてどこにもない」
「そうですか……」
確かに、カルラは絵に口出しをしない。ここ数年は皆無だと思う。
だとすれば、とミーティアは胸中で疑問を浮かべる。これまで、何度も浮上しては沈めてきたが、一度も満足のいく回答で掬いあげられていない疑問だ。
だとすれば、どうして師匠≪カルラ≫は己を師匠と呼ばせるのだろうか。
■
ミーティアが物心ついたときには、カルラが傍にいて、一緒に旅をしていた。長期的に一か所に留まることをカルラが避けていたこともあり、周囲と関わり、社会を学ぶ機会には乏しかった。その代り、彼女は話好きであり、よく色々なこと教えてくれ、知識を授けてくれた。
そのなかには当然、家族という概念が含まれており、ミーティアが自分の家族について興味と疑問を持つのもまた当然であった。
絵を描き始めたその頃、彼女はカルラに質問した。
「私の母や父はどこにいるの?」
カルラが言葉を教えているせいで親を“お母さん”“お父さん”と呼ぶ習慣がなくて、慇懃な呼称になってしまう。そのくせ、まだ敬語を扱えるほど自身の言葉を丁寧に組み替えられるほど脳の回路が出来上がっているわけでもない。
舌足らずでちぐはぐな言葉遣いにカルラは少女の頭を撫でた。
「天国だよ。戦争で死んだんだ。光を奪う魔女たちに襲われてね」
この質問のあとから、カルラは自身を“師匠”と呼ばせるようになった。ミーティアにとって、その呼称を用いること自体がなんだか大人に近づけた気がして簡単に受け入れることができた。当初はごっこ遊びの感覚に近かったが年を取るにつれ、ごっこは本気になっていた。
カルラも幼い少女が“師匠”と呼んでくれることに満足していたようだった。明らかに、ミーティアに対して距離が近づいた。それまで曖昧だった二人の関係に“師弟”という名前がついたことで、接し方に迷いがなくなったのだろう。
以降、カルラは“師匠”という呼び名に固執する。礼儀のための線引きではなく、彼女を心の平穏を守るための砦であることをミーティアは最後まで知らずにいた。
■
「周りに生い茂る木の葉は若くて瑞々しい緑」
ミーティアが描きあげた風景に色を付けるのはカルラの役目だった。
彼女は左手が使えない。全ての画材を身体の右側に置き、時には弟子の手を借りながら、顔料を調合し、キャンパスに筆を乗せていく。
「朝の湖は空を映す鏡の青」
「湖を囲む地面は生焼けパンの皮みたいな茶」
「遠くの方の木々は落ち着いて、深くしっとりした緑」
「今日の空は透き通って、するりと抜けていけそうな青」
「雲は──立派な綿を背負った羊みたいな白」
カルラは一つずつ、肌や耳、舌や鼻など目以外で感じ取ることができる言葉で、それがどんな色なのか教えてくれる。
ただただ静かな時間が流れていく。カルラが自分の絵に色を加えていく、この時間がミーティアは好きだった。キャンバスよりもカルラの口元、カルラの声に注意する。一つたりとも漏らさぬように。
やがて、カルラが筆を置いて、温かい紅茶を求める。
完成の合図だ。
「お疲れさまでした」
ミーティアは顔料を乾かすため、まだイーゼルに乗せられた絵を眺める。
弟子が線を引き、師匠が色づけた湖のほとりは原形よりも凹凸と影の数を増やしながらも、ミーティアの目には未だ白と黒の二色のまま写っていた。
■
物心ついたときから、ミーティアは色を知覚できなかった。
本当は生れた時からかもしれない。目を瞑ってみても、およそ白と黒以外の色を思い出せない。
医者に診せても、原因はわかれど治療方法はまだ見つかっていないという診断しか下りなかった。
曰く、母体が妊娠状態のときに意図せず摂取していた化学物質による影響が考えられるとのことだった。
診断した医者は付き添っていたカルラに視線を向けたが、当然、カルラは首を横に振るしかない。カルラはミーティアの師匠であって、母ではないのだ。
ただ、ミーティアが見た彼女の重たげな表情はやけに印象的だった。
「いつか、君にも色を見せてあげるから」
それが、カルラの口癖だった。
■
二人の師弟の旅は意外に早く終わりを迎えた。
別れではなく、落ち着ける村を見つけたからだ。
そこは戦火からは遠く、時の流れに対して戦争の傷も早く癒えていた。
そこでも、二人は絵を描き続けた。
村を拠点にしながら、何日か遠出をしてそれまで通り風景画を描いては行商人に買い取ってもらうことが主な収入源だったが、肖像画を請け負うことも増えていった。
彼女たちが村に馴染むのに、そう時間はかからなかった。
ミーティアは少女から一人の女性へと年を重ね、やがて一人の青年と恋に落ちる。
狭い村だ。すぐに二人は仲を深め、ミーティアが身籠り、二人は婚姻した。
慎ましくも、幸せな祝福のなか、最前列に招待したカルラの瞳には白い粒を見ることができた。
ミーティアの婚姻と前後して、カルラは急速に老け出していた。なんなくできていた遠出ができなくなり、今まで一つの皺も無かった肌には積み重ねた歩みの深さを察する彫が刻まれた。絹のようだった髪も今や枯葉みたく乾いている。
別れがちかい。ミーティアは悟った。せめて、お腹の中の子が産まれるまでは。
早く、育ててくれた師匠に自分の子どもの顔を見せてほしい気持ちと、しかし、言いようもしない不安がお腹と共に胸で大きくなっていた。
「子どもも、色を感じられない目だったら……」
この頃眠る前に思い出すのは、かつて診てもらった医者の言葉。
ミーティアが色を知覚できないのは母体による影響。
だとすれば、色を知覚できぬ母から生まれた子もまた、色を見られぬ目をもつ可能性もある。
夫はそれでも良いと言ってくれるが、自分のハンディを子に引き継がせてしまう可能性は母を苦しめるに十分であった。
不安を隠せずにいるミーティアに、カルラは見た目通りの慈しみ称えた声で励ました。
「大丈夫。君のそれは遺伝しない。魔女の呪いはかけられた当人のみだ。そうなるように作られている」
若い母にとって、年老いた師匠の言葉は気休めの励ましだった。
それが気休めではないと知るのは無事に元気な女の子が産まれてから。
しかし、カルラはミーティアの子を抱くことは無かった。産まれる一ヶ月前にこの世を去ったからだ。正確な年齢は誰も知らない。
さて、赤子が色の分別をつけられているとわかったからではない。
カルラの遺留品からだった。
短い手紙と一つの遺品。
手紙にはこう書かれている。
「すまない。つい、楽しく別れがたく、最後まで渡せずにいた」
遺品は眼鏡だった。
弟子が覚えている師匠の顔に眼鏡をかけていたときはない。
試しにかけて、十分もしないうちに取り外した。
二つのガラス越しに覗いた世界は白と黒以外の世界で彩られていたが、ミーティアが──弟子が──少女が想像していた世界よりも味気なかったからだ。
師匠が見せてくれた世界を現実が塗りつぶさぬように、母となった少女は白黒のまま生きていく。
色を持たぬ少女。子を持てぬ魔女 白夏緑自 @kinpatu-osi
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