夜逃げ前

千石綾子

私、出て行きます

 薫には3分以内にやらなければならないことがあった。

 サビ猫のサクラを捕まえて、この家から連れ出すのだ。


 自分の荷物はもう車に乗せた。慌ただしく箱に詰め込んだ、少しだけの荷物。とりあえず必要なものだけあれば、残りは後で買うことができる。まずは和也に見つかる前にこの家を出て行くのだ。

 準備はできた。あとはサクラを捕まえてキャリーに入れるだけでいい。


***


 薫が和也と別れようと思ったのは、彼の浮気が原因だ。普段残業などなかった彼の帰りが遅くなり、休日出勤も増えた。しかし薫にはわかっていた。仕事なんかではない。怪しいと思い、先日和也の同僚にそれとなく話を聞いたのだった。


「うちの部署、暇すぎて残業なんてないよ。休日出勤もね。もっと活気があって羽振りのいい職場ならいいのになあ」


 その同僚は喫茶店で珈琲を飲みながら長いため息をついた。やっぱり、と薫は目の前が真っ暗になるのを感じた。

 正直に言えば、和也に対する愛情は変わらない。別れようとしていることに気付かれ止められたら、振り切って出て行く気持ちが鈍るのはわかっていた。だからこうして何も言わず突然出ていくことにしたのだ。


 時間はギリギリ。今日に限ってサクラはすんなり捕まろうとはしてくれない。あと5分もすれば和也は帰ってきてしまうだろう。車に積んでここを離れるまでを考えれば、やはり時間はあと3分しかない。

 焦る気持ちを抑えてキャリーを手に、薫はもう一度家の中にそっと忍び込む。


 忍び込むと言ってもまだここは薫の家でもある。住宅の内見も和也と一緒だった。二人で末永く一緒に住もうと決めた家。


 サクラも二人で子猫の頃から大事に育てて、まさに本当の子供のように大切にしている。籍を入れていなくても、式を挙げていなくても、同棲カップルと色めがねで見られても。彼とサクラがいてくれれば、薫はそれだけで幸せだった。


 しかし、薫は裏切られた。和也は遂に一昨日、甘い香水の香りをつけて帰ってきたのだ。堂々と、いつもの笑顔を浮かべたままで。

 浮気がわかってから、日に日にささくれ立ってきていた薫の心はもう限界だった。はなさないで欲しい、ずっとそばに置いて欲しいと願った日々が、見る間に色褪せていく。

 そして今日、薫は別れを決めた。


***


「サクラ、ほら。サクラちゃん、おいで」


 猫なで声で呼びながらおやつのササミを差し出すが、その足元に置かれたキャリーを警戒してサクラはじっとこちらを見ているだけ。どうやら病院に連れていかれると思っているらしい。

 あと2分……。焦る心の中でそう思った時に、背後からドアを開ける音がした。


「薫、どうかした? サクラを病院に連れて行くのかい?」

「和也……」


 いつも時間に正確な和也が、5分とはいえこんな時に限って早く帰って来るなんて。冷や汗が薫の背を伝う。


「でも、良かった。君が残業じゃなくて」


 和也は壁にかけられた時計をちらりと見てから、コホンと軽く咳払いをした。そうしてスーツの内ポケットから小さな箱を取り出して、薫の顔の前に差し出す。

 ぱか、と小気味良い音を立てて開いたその箱の中には、ダイヤモンドが光る指輪が鎮座していた。


「薫、すごく待たせちゃったけど……これからも一生一緒に居てくれるかな」


 薫ははじめ、何を言われているのかわからなかった。そして数秒後、ようやくそれがプロポーズだと理解した。思いがけない和也の行動に、しばらく固まって何も言えなかった。


「……あの、俺、高給取りでもないし、頼りないかもしれないけど、薫のこと、誰よりも愛してる自信はあるんだ。あ、無駄遣いだなんて心配しないで。この指輪は、会社に内緒でバイトして買ったんだ。近くの量販店でね、夜と週末だけのバイト。と言っても、高い香水落として割ってクビになっちゃったんだけどね。ははは……」


 間が持たないのか、和也は薫がずっと聞きたかったことをベラベラと話してくれた。


「でも、どうしていきなり今日ここで……?」


 贅沢を言うつもりはないけれど、どうせならもっとムードのある場所にして欲しかったかな、と薫は思う。

 すると和也は壁時計を指差してにっこりと笑った。


「5年前の今日、俺たち初めてこの家に住み始めて、この時間に乾杯したじゃないか」


 薫は思わずへたり込みそうになる。和也は昔から記念日などにこだわる性質たちだったのを思い出した。それにしても細かい。乾杯の時間まで、よくまあ覚えていたものだ。


「でも、俺たち男同士だ。結婚なんて……」

「誰かに祝福されたくて買った指輪じゃないよ」


 食い気味に答えた和也は、薫の反応を予測していたのだろうか。薫は熱いものが込み上げてくるのを感じていた。こんなに真っ直ぐに自分を想っていてくれていた和也を、ひとり置いて去ろうとしていたなんて。


「じゃあ、返事する前に、ひとつ教えてよ」


 涙声になっているのを悟られないようにしながら、薫は和也を見る。


「今まで色々あったけど、俺の何が好きなの?」


 和也はうーん、と天井を仰いだ。


「全部……じゃだめかな?」


 和也は眉尻を下げる。

 薫は微笑んで、そっと左手を差し出した。






               了




お題:1)『書き出しが「 」には3分以内にやらなければならないことがあった』

   2)「住宅の内見」

   3)「箱」

   4)「ささくれ」

   5)「はなさないで」

   6)「トリあえず」

   7)「色」

   8)「めがね」

   ※ (1~8のお題全部)

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夜逃げ前 千石綾子 @sengoku1111

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