第31話 街に出掛けた日の夜
その日の夜、子爵の元に家令がやって来た。
「ご報告がございます、旦那様」
「どうした、グリム」
いつもに比べて重い声に、子爵は家令に眉をひそめながら尋ねている。それに対して、家令はひと呼吸おいてから報告を始めた。
その報告を聞き終えた子爵は、椅子にもたれ掛かった。
「そうか、釣れたか」
「はい、兵士を引き上げさせたところで安心しきっていたようです。隠し扉の位置も確認できました」
淡々と報告をする家令に、子爵はすっと顔を沈ませる。
「……どうにかして奴らの巣を突き止めて叩き潰さねばなるまい。だが、奴らの規模と戦力が分からない以上、下手に打って出るわけにもいくまい」
「左様ですな。できる限り、こちらの被害は抑えたいものでございます」
「隠し扉も一か所とは限らんだろうし、しばらくは監視しておけ」
「畏まりました」
子爵の命令に、家令はすっと右手を上げる。すると、家令の側にぶわっと黒いもやが集まってくる。そして、それが形を成すと、そこに現れたのは黒い猫だった。
「シャノン、引き続き見張りを頼んだぞ」
「うみゃあ!」
シャノンと呼ばれた黒猫は、ひと鳴きすると再び黒いもやとなって姿をかき消した。
「グリム、お前にもお前の聖獣にも苦労を掛けてすまないな」
「いえ、私めはこの子爵家に仕える身。この程度、当然の事でございます。旦那様に拾って頂けた事、誠に感謝しております」
「……そうか。下がってよいぞ」
「はっ、失礼致します」
家令は頭を下げて部屋を出ていく。
なんと、子爵家の家令も聖獣持ちだった。何とも意外な話である。
だが、そういった背景があるからこそ、ガーティス子爵はルスと名付けられた聖獣がボロボロにされていた事に怒りを感じているのである。
「これ以上、私の領地で好き勝手な事はさせぬからな。覚悟しておけ……ならず者どもが」
子爵は領地に蔓延る悪党を滅ぼす事を誓い、唇を強く噛みしめていたのだった。
その夜遅く、ようやくモエは仕事から解放されて部屋に戻ってきていた。
「はう~……、疲れたよぅ」
メイド服のままベッドへと倒れ込むモエ。そのまま眠ってしまったんじゃないかというくらい、しばらくの間ぴくりとも動かなかった。
「くう~ん」
ルスが姿を見せて、心配そうにモエに寄り添っている。顔の横まで来ると、耳あたりをぺろぺろと舐め始めた。
「ちょっ、ちょっとルスってば。くすぐったいって」
マイコニドも耳はかなり敏感なようである。笑いそうになりながら必死に堪えるモエである。モエが元気そうに反応する姿を見て、ルスは動きを止めて安心したようにモエから離れた。
「そうね、このまま寝るわけにはいかないわね。一緒にお風呂入りましょうか」
「わうっ!」
モエの言葉に、ルスは元気に吠える。
そして、モエはベッドから起き上がると、ルスを抱えて特別に室内に備えてもらったお風呂へと向かった。
普通、使用人たちは共用のお風呂を使うか、濡れた布で体を拭くかのどちらかである。しかも、そのお風呂だって毎日入れるわけではない。人数が居るために交代制なのである。
ところが、モエに限っては、子爵令息であるイジスのかなりお気に入りという事で、イジスの一存でお風呂を備えた特別な部屋が割り当てられたのだ。実はこの待遇、執事長やメイド長クラスの待遇なのである。まったく、あの坊ちゃまはちょっとこのマイコニドに熱を上げ過ぎではないだろうか。
そんなわけで、モエはそんな恩恵であるお風呂に入ったのだった。
さっぱりしたモエとルスは、改めてベッドに転がる。さすがに街に出て精神的に疲れたので、お風呂によるリラックス効果は絶大だった。
「ふふっ、本当にお前は色も毛並みもきれいだね」
自分の髪にも使っているブラシを使って、モエはルスの毛を梳いている。毛繕いをされながら、ルスはリラックスしたように目を細めている。本当に幸せそうな表情をしている。
ルスのブラッシングをしていると、モエの頭の笠もゆさゆさと揺れている。よく見ると、その笠から何やら光る何かがこぼれ落ちている。これこそがモエの胞子なのである。部屋の中が薄暗いためか、はたまたルスの光を操る能力のせいか、モエの胞子がキラキラと光っているのだった。だが、モエ本人はまったくそれに気が付いていなかった。ルスのブラッシングに集中しきっているのである。
「これでよしっと」
モエはブラッシングをする手を止めると、ブラシを棚の上に置く。ブラッシングによって、お風呂に入ってぺしゃんこになっていたルスの毛並みが見事に復活していたのだった。
「明日もまた早いから、もう寝ましょうね。ルスもおやすみなさい」
「わうっ」
モエが話し掛けると、ルスは嬉しそうに鳴いていた。
そして、部屋の明かりを消して眠りに就いたのだった。
明日からはまた、いつも通りの屋敷の中の仕事だけで済むと信じて。
だが、着実にガーティス子爵領の中に、不穏な空気が立ち込めつつあった。
その不穏な空気は、少しずつその魔の手をモエたちに伸ばそうとしていたのだった。
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