私を変えた雨
夜海ルネ
私を変えた雨
雨の夜、冷たい膝を抱えて考え事をする。多くは、命が尽きた後の妄想。時々、初恋の人が今何をしているか。ごく稀に、明日の自分。
雨音は私の思考をそれはそれは発展させる。だから私は雨が好きだ。雨に打たれるのに憧れているが、風邪を引くといけないので試したことはない。
なんて愚かな毎日だ。窓辺で今日も膝を抱えて、闇を濡らしていく雨をただ眺める。なんて生産性のない日々だ。だけどこの怠惰な毎日はどこか心地よく、同時に人間性を放棄していた。
——なるほどそれはまずいな。私は人間だし、人間でありたい。
四月になったら実家を出て、一人暮らしでも始めようじゃないか。
珍しく明日の自分を考えていたら、今日の自分と何も変わらない行動をするのだろうということに気づいた。そして決めたのである。四月、私はこの家を出よう。父と母と姉がいる。私一人が引越ししても、家の温度はさして変わらないはずだ。
「自立しなきゃねぇ」
つぶやくと、母親がやってきて「アンタ、まだそこにいたの。とっとと風呂入っちゃいなさい」と私を急かす。
うるさいなぁ、は思っても言わない。言ったら口うるさい説教が始まるに決まっている。私は賢い、予測できる面倒は避けて通るのだ。
風呂に入りながら、窓の外の暗い夜に思いを馳せた。きっと今も、雨が降っている。
私はいつものように膝を抱えて、思考の海にダイブした。
今日は気分を変えて、目を閉じて雨音に耳を澄ましてみた。外だからあまり聞こえないかもと思ったけど、わずかにシトシト、冷たくて柔らかい音が聞こえてくるような気がする。
真っ暗だ。目の前は真っ暗。目を瞑ると、俗世間から切り離されたような気持ちになる。
「……」
数秒だか数分だかの思考のうちに、目には見えないものが視えてきた。
世界と私の間には、深い、深い溝があった。
私は父とも、母とも、姉とも違う。それは当たり前だが、同じ人間ではないみたいな、そんなことを思う時があった。
平たく言えば変わり者だった。学校にはあまり行かなかったし、先生が家に訪ねてきた時も「学校で勉強する意味が分かりませんし、自分が興味を持たないことまで勉強する意味も分かりません」と突っぱねた。
このセリフは家族も先生も困らせた。でも私は困らない。普通のことだと思えてならない。勉強の場も、勉強の量も種類も、私が決めるべきだ。勉強するのは家族でも先生でもなく私なのだから。
だけどこの考えは、国が推奨するものとは違うらしかった。
ならばそれは、国の方針が間違っていると私は強く思った。私は正しいことを言っている自信はないが、間違ったことを言っている自覚もない。
だから正しさを押し付けられようとも、自分の正しさを信じ抜いて今日まで生きてきた。
目を開けて、少しのぼせたなぁと思いながら窓に視線をやる。真っ暗な窓。外は深い闇の色。
浴室の照明をやけに眩しく思った。私はもしかしたら、「あっち」側の人間かなあと思えてきた。
スポットライトの当たる模範的な人間ではなく、その奥の闇に潜む反対側の人間。国のお偉いさんが手を叩いて喜ぶ模範人間とはかけ離れた存在。
でも、昼の月より夜の月の方が、神秘的で美しい。
模範的な人間はみんな同じ顔して、苦しそう。
夜の方が自由だよ。誰の目を気にすることもなく、思うがままに宙を舞えるもの。
そうだよね。
世間と違ったっていい。私は私。ただ一人。
妙にスッキリした気持ちで風呂から上がり、台所に立っていた母親に一言告げた。
「次の雨が降る夜、この家を出るね」
母親はびっくりした顔で振り返った。怒られるだろうか。何でわざわざ雨の日に出るんだよ、とでもツッコまれるだろうか。
「……そう。頑張りなさいよ」
穏やかに微笑して、母親は言った。私は思わず拍子抜けした。何だ。お母さん、私のことちゃんと理解ってくれてたのね。
「今までありがとう、お母さん」
「いやね、急に気持ち悪い」
言いながらお母さんは笑っていた。
次に雨が降ったのは二週間後だった。
「じゃあ、もう行くね」
家族三人、玄関先にて笑顔で私を見送ってくれた。
「傘を忘れずにね」
お母さんの言葉でああそうだ、と慌てて傘を手に取る。
「行ってきます」
ただいまを言うのはいつ頃になるかな。なんて一瞬考えながら駅への道を、暗い道を進んでいく。
そういえば、と思い立って私は一度挿した傘を閉じた。
目を瞑って天を向くと、雨粒が私の顔を打った。ああ、へえ、こういう感覚なんだ。けっこう心地良い。
少し開けた場所で、畳んだ傘を振り回してくるくると舞ってみた。舞うたびにどんどん、どんどん自由になっていく気がする。
もう悩まなくていいんだ。私は私でいていいんだ。
それは、ささやかだけどずっと願っていたことだった。
この世界で息を吸う感覚を、初めて憶えた気がした。
私を変えた雨 夜海ルネ @yoru_hoshizaki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます