初めてメガネを買いました
遠山悠里
「あれ、これ、ミスってますね」
「えっ?」
「竹田さんがミスって珍しい。ほら、半濁点のところ濁点になっていますよ」
そう、後輩の矢神さんに指摘されて、初めて気づいた。
どうやら、私は、少し視力が落ちているらしい。
小さい頃から視力のよいのが自慢だった。
視力検査はいつも両眼とも2.0。
そのため、学校の席はいつも教室の一番うしろの方。
別に視力順に席替えが行われるわけではないが、できれば後ろの方がいいという学生共通の望みは肉体的な不適合ゆえにその望みが叶えられず、皆、少しずつ前へ前へと押し出されていく。厳しい現実だ。
その当時、コンタクトというのは、高嶺の花。
メガネになるのは、何か負けた気がして、皆、なかなかメガネ着用へと踏み込めなかった。メガネの印象が今と違うというのもあったのだろう。漫画、アニメなんかでも、メガネのキャラと言えば、『ガリ勉』『お堅い生徒会長』なんてものが多く、特に女子のメガネはもてないキャラクターの代名詞だった。今とは大違いだ。
自分の場合、まあいわゆるガリ勉でお堅い(?)生徒会長であったわけだが、幸いかどうかはわからないが、視力はよかった。メガネをかける必要もなく学生時代をつつがなく送ることができた。
しかし、近視時代は無事通過することができた自分も、どうやら、遠視時代を避けることはできなかったらしい。ここのところ、通勤途中に読む文庫本の文字がいささか読みにくいとは思っていた。しかし、『自分は視力はいい』という思い込みが、無意識に、現実を直視することを避けさせていたようだ。
そう、これは遠視だ。いや、もっと現実を直視しよう。
これは、『老眼』という奴だ。……やれやれ。
書類仕事の記述で初めてミスをしたその日、私はチェーンの眼鏡店にメガネを買いに行った。
初めて買ったメガネ。
私は驚いた。世界はこんな風になっていたのか。
世界が一変した。
街を歩いていると、店の看板や、人の表情それぞれがくっきり見える。
これまで自分が見ていた世界は何だったんだ。
私は、楽しくなった。
世界が光り輝いて見える。細部までくっきりと……
そう……多分、老眼になる前、私はずっと近視でもあったのだろう。
ただ、自分は目がいいという思い込みが強く、そのままごまかしてこれまで生きてきたのだ。もったいないことしたなと、私は思った。
私は、しばらく、メガネで見る新しい世界を堪能した。
満開の桜、横切るネコ、通りを行く人々の美しい出で立ち……
だが、その新しい世界は、美しいものだけではなかった。
最初に、ハッとしたのは、数年前から付き合っている恋人との食事の時だった。
彼の誕生日を祝う席で、私は、彼とグラスを合わせる。
私は、ああ……彼もこんな年になったんだと思いながら、改めて、彼を見る。
すると、見える。見えてしまった。
それまでは気づかなかった頬のシワ。少し薄くなりかけた頭髪。
それは、不快なものではなかったが、恋人の年齢を如実に表していた。
メガネを外す私を、彼は訝しげに見た。
「どうしたの? とても似合っているのに……」
彼はそう言って、笑った。
その後も、いろいろなものが、美しいものだけではないことに気づかされた。
自分は掃除は好きで、マンションのワンルームを毎週週末に丹念に掃除しているつもりだったが、新しいメガネをかけて改めて見ると、部屋の隅や棚の下にはホコリが随分残っていた。
毎日、朝、ジョギングしている川沿いの堤防には、あちこちに、捨てられた雑誌や空き缶が散らばっていた。
職場では、皆の机の上の散らかり具合がとても気になるようになった。なぜ、スナック菓子の袋をいつまでも捨てずに机の隅に放って置くのだろう。いや、そもそも自分の机の上だって、そんなに褒められたものではなかった。私は、こんなところで仕事をしていたのか。
メガネをかけるようになって数週間、それらがすごく気になった。
***
「あれ? 竹田さん、メガネは外ではつけないんですか?」
ロッカールームで退社の支度をしている時、矢神さんに尋ねられた。
「ああ、そう。メガネは、仕事の時とか映画を見る時にかけることにしたの」
「竹田さん、メガネとても似合ってるのに……」
私は、フフッと笑う。
外の世界は、以前と同じように、少しぼんやりした世界だった。
でも、これが私の世界なんだ。
時々不便に感じることもあるけれど、その時はまた、このメガネをかければいい。
私は、メガネを指でクルクル回しながら、ぼやけた街をすたすた歩いていった。
初めてメガネを買いました 遠山悠里 @toyamayuri
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