蝶の剣士は薔薇と共に
えころけい
第一話 蝶の剣士
あたたかな陽光が降り注ぎ、心地のいい風が肌を撫で、小川のせせらぎが聞こえるリリア草原。リリア村に隣接したその草原は、村に住む人々も、村に訪れた旅人も足を運ぶ、豊かな自然に満ちた人々の
そんな草原に、村の青年が一人、仕事をさぼって昼寝に来ていた。やわらかい草の上に仰向けになって、小鳥のさえずりを子守歌に、寝息をたてて穏やかに眠る。実に贅沢な、天気の良い昼下がりの事であった。
ただ、仕事をさぼり
その影の正体はーー魔物。どれほど慣れ親しんだ場所であろうと、油断は禁物。この草原の豊かな生態系には、魔物も含まれていることを忘れてはいけないのである。
魔物は基本、リリア村の付近までには近寄らないが、青年は以前さぼりの現場を村の人間に見つかったことから、村から少し離れた場所で昼寝をしていた。そこがある魔物の縄張りであるとは知らずに。
怠け者が仕事から逃げるための努力が、本人を窮地に追いやったのだ。
大きな影は、その大きな鼻をひくつかせて、縄張りに侵入した不届き者の匂いを
身体に当たる鼻の動きに、青年は耐えがたいむず痒さを 覚えて目を覚ます。心地の良い睡眠を
「うへぇっ!!?」
瞬間、青年はなんとも間抜けな声を上げる。
目の前に現れたこの怪物の名は、ダークロックボア。リリア草原に生息する生体の中で、比較的高い危険度の魔物である。
彼は起き抜けの体を動かして、
「ひいぃぃぃっ!」
静かな草原に、青年の叫び声が響き渡る。ダークロックボアは、段々と遠ざかっている青年にゆっくりと狙いを澄ます。そうしてターゲットを完全にロックオンすると、弾けるように地を蹴り、突進した。
そのスピードはまさに黒い弾丸、当たり所が悪ければ即死の凶弾だ。戦闘能力を持たない人間であればこの時点で、どんなに当たり所が良かったとしても骨が何本か折れることを覚悟した方が良いだろう。
「うわっ!?」
青年は村でも足の速い方であった。故に
後ろを振り返り、超スピードで迫りくるダークロックボアの姿を見て、青年はついに恐怖で腰を抜かしてしまった。勢いを止めず突進してくる魔物の姿に、彼は死を覚悟してぎゅっと目を瞑る。
その瞬間である。青年と魔物との間に、一陣の風が吹くように、颯爽と何かが割り込んだ。
直後、ガキンと金属同士が強くぶつかり合ったような音が鳴る。
「……え?」
来るかと思われていた衝撃が身体を襲わず、不思議に思い目を開いた青年が見たのは、ダークロックボアの突進を、剣の腹で受け止める剣士の姿であった。
九死に一生を得た青年は、呆気にとられ、ただその姿を眺める。突如として現れた剣士は、受け止めたダークロックボアを剣で押し返し、弾き飛ばして距離を離し、美しい所作で剣を構えなおした。
この一連の流れで、どうやら剣士に敵わないことを魔物は悟ったらしい。魔物は、静かに縄張りへと戻っていくのだった。
自分の命はこの颯爽と現れた人物に救われた。青年がそう思って礼を述べようと顔を見ると、青年はその剣士が美しい少女であったことに気付く。
息を吞むほどに美しく、それでいて少々童顔で、可愛らしさも残した顔。帽子からブーツまで、まるで舞台の役者であるかのような衣装に身を包んだ、金髪碧眼の美少女。それが、青年の命を救った恩人の正体であった。
「立てるかい?」
腰を抜かしてその場に座り込んでいた青年に、手を差し伸べた少女が、鈴を転がすような声で言う。
「あ、あぁ……。ありがとう」
青年は、少女の手を借りて立つと彼女へと礼を言った。
「悲鳴が聞こえた時は何事かと思ったけど、間に合ってよかったよ。どうしてダークロックボアに追いかけられていたんだい?」
「それが、あっちで昼寝をしていたら突然襲われて……」
「昼寝? ああ、それじゃあ昼寝していた場所が縄張りだったんだろうね。まったく、危険な事をする」
青年の言葉に、少女はため息をついた。
「申し訳ない……」
少しの間、沈黙が流れる。
「な、なあ」
「ん、なんだい?」
ふと、青年は少女に声をかけた。
「その姿、あんたもしかして『蝶の剣士』か?」
蝶の剣士、そう発した彼に、彼女はにこやかに笑って返す。
「そうだとも。ボクはの名前はレクシー、レクシー=ウィングス。『蝶の剣士』と呼ばれる旅人さ!」
「ああ! やっぱり!!」
少女の返答を聞いて、彼は叫んだ。
この世界には多くの旅人がいる。まだ見ぬ冒険を夢見て旅する者、観光地を巡る者、各地域の食事を制覇しようとする者、旅の目的は人それぞれだが、その中には武勇に優れ、旅の中で強力な魔物や魔人を退治したとして名を馳せる者がいる。
『蝶の剣士』とは、そんな武勇に優れた旅人に付けられた異名であった。
派手な衣装に身を包んだ、自信に満ち溢れた凄腕の剣士であり、その容姿は見るものを魅了する程に美しく、蝶の形の髪飾りが特徴的な、金髪碧眼の少女であるといわれている。
「ボクのことを知ってくれているんだね、ありがとう」
蝶の剣士と呼ばれた少女ーーレクシーは、そう言って握手を求める男に応じた。
「さて、それじゃあ今度はボクが質問しよう。キミ、この先にあるリリア村の人だったりする?」
「ああ、そうだけど……」
「そうか! 丁度良かった! ボクはこれからリリア村に行く予定でね。良ければ村を案内をしてくれると嬉しいんだけど」
「え゛っ……と、それは……」
表情を明るくしたレクシーの提案は、青年にとって都合の悪いものであった。何せ、彼は仕事をさぼっているのである。今戻ったら、見つかって仕事に戻されることは目に見えていた。
「おや、何か都合が悪いのかな? なら無理にとは言わないけど」
そんな彼の様子に、言いながらレクシーは首を傾げた。
「いや、その、実は仕事を抜け出して来てて……」
冷や汗をかいた青年が頬を掻きながら言う。レクシーは再度大きなため息をついた。そして、無言で彼に近寄ると、彼女は突然その身体を担いだ。
「うわわっ!? な、何を!」
「キミをリリア村まで送り届ける」
呆れたレクシーは、彼を村に帰して仕事に戻すことを決めたようだ。青年はその言葉を聞くと、慌ててじたばたと暴れ出したが、彼女は青年の身体をがっちりと支えており、びくともしない。ダークロックボアの突進を受け止めるだけあって、見た目によらず力が強いようであった。
「ええっ!? いや、ちょっとそれは困る! 降ろしてーー」
「ダメだ。魔物の縄張りで昼寝して死にかけるような人を置いていけない。仕事を抜け出した天罰が下ったとでも思うんだね」
「そんなぁ……!」
とある天気の良い昼下がり、怠け者の青年は、少女に担がれて村に戻されるのであった。
そうして、青年が村に戻された結果、青年は姉や仕事の上司に叱られ、仕事に戻っていった。
レクシーはそれを見届けた後、青年の姉からの申し出により、村を案内してもらった。更に姉は、それに加えてなんと弟を助けてくれた礼として宿代を払うという。彼女は最初、そこまでしてもらうわけにはと断ろうとしたが、相手が断固として譲らないので、厚意にあずかることにした。
空の色が暗くなってくると、レクシーは早々に宿の部屋へと入る。
とった部屋は、両隣に客の入っていない部屋。少し声をあげた程度では誰にも聞かれることの無い部屋で、彼女はその上、部屋に防音の結界を張った。
そして彼女は、派手な服を脱ぎ、美しい蝶の形の髪飾りを外す。髪飾りを外した瞬間、彼女の輝く金色の髪は、おとなしい茶髪へとみるみるうちに色が変わった。そのまま彼女は、まとめていた長い髪をほどき、身体と脱いだ服を魔法で清潔にして、鞄から無地な服を取り出して着替えた。
そうして、着々と休む準備を整え、少しかたいベッドに仰向けになった彼女は、深くため息をついたあと、めいっぱい息を吸い込んでから、大きな声で叫んだ。
「あー、つかれたーっ!」
その声は、レクシーの噂を知る者が聞けば驚くような、彼女のイメージとは異なる叫びであった。
「はあ、ほんと馬車が欲しいわ。歩きだと疲れるわ時間がかかるわ、良いことなしよ」
ぐちぐちと、彼女は唇を尖らせて呟く。
「まあでも、実際手に入れたら手に入れたで、馬の管理やら馬車を停めて置ける場所探しやらで、持っていることによる特有の面倒ってのもあるのかしらね~」
先刻までの態度はどこへやら、彼女の姿は、もうすっかり日中に見せていたものとは別人のような様子であった。
だが、それもそのはずである。『蝶の剣士』レクシーなど、本来の彼女ではないのだから。
彼女は、このベッドの上に寝転んでひとり不満をこぼしている少女は、昼間、助けた青年に自らをレクシー=ウィングスと名乗っていたが、実のところ、それはまったくの偽名である。
では、彼女は誰なのか?
出身不明、華麗なる、そして謎多き剣士のレクシー。その名前すらも偽りであった彼女の本当の名は、オリヴィア。
オリヴィア=ベル。それが、『蝶の剣士』レクシー=ウィングスの正体である。
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