Octet 8 ボヤージュ

palomino4th

Octet 8 ボヤージュ


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家に帰って雑用を済ませようやく落ち着いた夜、寝る間際に本を読もうとしてから眼鏡が無いことに気がついた。

普段は眼鏡使用者ではないのだが、本を読む時には読書用の老眼鏡は欠かせない。

外出時に携行してるので上着の内ポケットやバッグにしのばせていたのだが、思い当たるところを探ってみても見つからない。

どこかで落としてしまったのか。

今日一日の行動を思い出しながら道順を辿ると、一箇所浮かび上がるポイントがあった。

行きつけの喫茶店に入り、ブレンドコーヒーとサンドイッチを頼んだ。

それからそこで手持ちの単行本を読んでいた……その時には間違いなく眼鏡をかけていた。

つまり、喫茶店以降、どこかで眼鏡を見失っているのだ。

使い終えた後にどこかで落としたか、或いはボックス席に置き忘れそのまま店を出たか、だ。

喫茶店の電話番号は知っているので、眼鏡の忘れ物は無かったか問い合わせることもできるのだが、今夜はもう遅い。

改めて営業時間に連絡を取り訊ねることにして、今夜は別の眼鏡……予備用にしておいた一本……昔出先で買った既製品の老眼鏡が一応は使えるので、それで本を読むことにした。


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……夢の中で私は奇妙な店の中にいた。

日本ではない異国……アメリカだろうか、古ぼけた品々が雑然とならべられた棚を見ていて、そこにいる人物の目線と一体化していた。

店主は得体の知れない絵柄や写真のカードをマンダラのように床に敷き詰め、何かの物語を読み取ろうとしていた。

そして視界が揺れると同時に場面は不思議な回転をして私の視界は反転した……他に誰もいない薄暗い店内の床に這いつくばっている小柄な外国人の小男を見ていた。

私はその人物自身ではなく、彼のかけていた眼鏡の視界を通してどこかの光景を見ていた。……


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夢の記憶は曖昧で起きてからしばらく経つと、朝にはほとんど忘れ去った。

コーヒーを抽出してる最中、自分用の眼鏡が行方不明になっていることを思い出し、喫茶店の開店後に電話連絡を入れて問い合わせをしておかないと、と頭に思い描いた。


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……夢の中で私は真新しい建売住宅の正面玄関を見下ろしていた。

そしてこの住宅の購入を検討しに訪れる者たちを見張り、相応しくないと感じた時に彼らの運命をねじ曲げてその未来を奪う、邪悪な視線を感じていた。

私は住宅の正面に嵌められた窓硝子なのに気がついた。


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数回のコールで繋がった。

『もしもし「オクテット」でございます』

「お忙しいところ失礼します。昨日そちらを利用した者なのですが」

『はいありがとうございます……』

「実は帰宅してからですね、私の老眼鏡。どうもどこかに落としたみたいで見当たらないのです。それで、もしかしたら昨日そちらのお店に伺った時に眼鏡の忘れ物が届いてないかと」

『あぁああ。そうですか。ちょっとお待ちください』

しばらく遠い会話の声が続いた。

『もしもし。お待たせいたしました。お客様にご利用いただいた席はそれぞれ片付けの時に確認などもしているのですけれど、昨日は特に忘れ物とかはありませんでした。見落としがないか確認もしますけれど、どちらの席だったのでしょうか』

一応昨日座った席を答えてから付け足した。

「また近いうちにお店に伺おうと思っておりますので、その時までもし見つけたりしましたら取っておいていただけないでしょうか」

『かしこまりました、お名前様は……』


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……夢の中で古い石室の中にいる。

懐中電灯のゆらめきの中で、視線の主は薄闇を通して若い青年を盗み見ている。

何か声をかけつつ、それまで使っていたフラッシュライトをわざと消し、闇の中で隠し持ったもう一本のフラッシュライトと持ち替えた。

視線の主は半ば強制的に青年の持つライトを渡させ、どうやら点けることのできないライトを押しつけた。

眼鏡のレンズを通して、私は行われつつある何かの罠が仕込まれているのを見ていた……


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電話を終えてからしばらく考えた。

喫茶店で忘れたり落としたりしていたのならとりあえず今し方の電話連絡で対処はできた。

でも忘れ物として発見されてない以上、そこ以外の可能性も考えなければならない。

やれやれ、喫茶店から自宅までの道のりを思い出さなければならないか。



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……夢の中で指先、中指の腹を見ている。

ただ見ているだけではなく、目の前いっぱいに巨大に広がっている。

これは凸レンズで拡大された眺めだ、と私は気がついた。

どういう状況か見ていると、微細な皮膚の紋様にできた肉の盛り上がりに金属の先端が近づき、しきりにふくらみを圧迫しているようだった。

棘を抜こうとしているのか、と理解できた。

目線の主は皮膚の中に入り込んだ最小の異物を取り除こうと苦闘しているようだった。

しかし私は棘らしきものの影が、気のせいかより奥に潜り込んでいるように見えた。

まるで意思を持つかのように。


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昨日の路上を途中まで逆に辿った。

これだけ人の行き交う時間でそのまま落ちている可能性はどれだけあるものだろうか、とぼんやり考えた。

もう手元に戻らないことも考えるべきではないか。

ずいぶん長く使って馴染んだけれどこれでお別れか。

道具なので使えればいい、のだけど見つからなくなってみると愛着を持っていたことを実感した。



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……夢の中で遥か天の高みから地上を見ていた。

おそらくは天体の一つとなって、別の時代、神話の世界を見下ろしていたのだ。

地上には人間と同じくらいの数の神々が溢れ、人の抱く様々な欲望をも持ちながら世界を駆け巡っていた。

ある男は見初めた女を奪うために追いかけていた。

女は男から逃れるために天の神に祈りを捧げると、神の力で女は一本の樹木に変化をしていった。

男は女の姿を見失ったが、思いは止み難く、狂おしいまでの感情に突き動かされ彼女を求めて地上を駆け回る。

彼の報われない愛の姿を私は空の中の一つの円として全て見つめていた。



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「いらっしゃいませ」

店内にいたワイシャツの男性が声をかけてきた。

チェーン店ではなく個人経営の眼鏡店でワイシャツの彼以外の姿はない。

軽く会釈をすると、売り場に置かれた一面の眼鏡フレームの方を早速見始めた。

読書用の眼鏡なので、基本見栄えはしなくてもいいか、それとも気分転換にこれまでとは違った感じにするか、を考えつつ一本一本を眺めた。


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……夢の中で暗い夜の浜辺に倒れているようだ。

空には何も無く夜天光のみで僅かな白みがあり、その下は全て影に沈んでいる。

砂の上に倒れているとおもったのが、少しづつ波打ち際に向かって這っているのがわかった。

これは海を目指す海亀のようだ、と直感的に思った。

ヒトの身体ではない、別の生物になっているのだから倒れているというのは間違いだろうか。

そしてこの生き物の眼には「瞬膜」があるようだった。

水中に潜り込み、瞬膜で眼球を守りながら、透明な風景を見る両生類の眼玉のようだった。


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また来ます、と一言告げて眼鏡店を出た後、帰途で色々考えた。

そういえば昨夜からの夢は何やらあれこれとバラエティに富んでいたような覚えがあった。

まるで私の手元から旅立った眼鏡が、姿を変えつつ様々な時と場所、世界の姿を覗き込んでいた。

そう、「見る」ことだ。

私の眼鏡は見るために旅をしている。



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……夢の中で私は複数の丸い「窓」になっていた。

物理的な窓ではない。

緻密な技法のエッチング銅版画の画面を縁取る円で、見る者は私を覗き込んでその内側の作品世界に取り込まれていく。

現実世界と作品世界の狭間にある「窓」が今の私だった。

私は「見る者たち」に見られると同時に、彼らの視線を円の中の世界に誘導し、同時にそれ自体が私の眼となり絵画作品を「見る者たち」を反対側から覗き込むことができていた。


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帰宅して部屋の中をぐるりと回った時に、壁際に置かれた棚の真横の床に見覚えのある布製のソフトケースが落ちてるのを見つけた。

開けると探していた眼鏡が出て来た。

昨日帰宅して上着を脱いだ時に落としたけれども、ソフトケースが音を立てずにそのまま離れたところに飛んでしまったようだった。

力が抜け椅子に座り込んだ。

やれやれ。

改めて手元に戻った眼鏡をかけてみた。

突然、私は理解した。

あの幾つもの別世界の夢は、何も眠る時に限られたものではなかった。

この眼鏡を相棒にして、幾つもの書物を開き、それぞれ異なる別の世界を旅してきたじゃないか。

私はページを開くごとに、そこから立ち上る世界に入り込み、様々な場面を見、無限の人生を覗き込んできた。

この眼鏡と繰り広げる書物の中への旅こそ、もう一つの夢であり、もう一つの人生であり……

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