貴方の眼鏡に映る私
京京
貴方の眼鏡に映る私
貴方はもう私を抱くとき、眼鏡を掛けてくれないのね。
私はあり日の思い出に浸る。
近視の激しい貴方は少し前まで私を抱くとき眼鏡を掛けたままだった。
噎せ返るような淫靡な匂いの中で互いを求め合う。
その中で貴方は私を真っ直ぐ見てくれていた。
貴方の瞳は吸い込まれそうで、美しくて、愛に満ち溢れていた。
汗と唾液が混ざり合う二人だけの世界。
愛されていると確信できるほどの優しさと守られていると実感できる力強さを同時に感じられた。
喘ぐ私。責める貴方。
微睡みに似た幻想の中で溶け合う二人。
時折、貴方の眼鏡に反射する私は自分でも見紛うほど艶めかしく、淫らで、それでいて綺麗だった。
火照って赤くなった肌。熟れた表情。ハリのある身体。
全てが女として完成していた。
自惚れかもしれないけれど、貴方と一緒にいるとその錯覚に溺れることができたんだ。
貴方に求められているときだけは、世界で一番綺麗なんだと自覚できた。
それくらい、愛されていた。愛されていたの。
きっとそれは永遠に続くと思っていた。
それなのに……
貴方はもう私を見ていない。見てくれない。
私を抱くとき貴方は眼鏡を外す。
歪んだ世界では私は見えない。
見えないということはいないと同じだ。
それは女として筆舌に尽くしがたい屈辱だった。
視線は一度として交わらない。
愛のないそれは最早快楽とは程遠く、欲望とは違う感情が入り乱れていた。
義務。
その一言に尽きる。
抱いてやってる。
これでいいだろ。
さっさと終わろう。
そんな言葉が貴方の身体から発せられていた。
思い過ごしだと思いたかった。
でも優しさは失せ、力強さは消えた。
眼鏡をしてない貴方から感じるのは虚無だけ。
私を見てないから愛を確認できない。
私を見てないから私がして欲しいことを理解できない。
私を見てないから私の悲しみに気付かない。
貴方は何を見ているの?
二人の世界なのに互いの意識は大きく乖離していく。
愛されているとは思えず、泣きそうになりながら貴方の身体に腕を絡ませる日々。
理由は分かっていた。
一年前に息子のカズトを産んでからだ。
それから貴方は眼鏡を掛けなくなった。
待望の子供。
愛おしい貴方の血を受け継ぐたった一人の息子。
それが引き金になった。
あの子を産んで私の体形が崩れる。
産褥の肥立ちが悪かったのか、それとも難産の影響か、私の体形は元に戻りきらなかった。
胸は前よりも小さくなった。萎んだといったほうが良いかもしれない。
お腹は出て、皮膚の弛みもある。
お尻は垂れてもう嘗ての私はいない。
産後、私なりに努力した。
お腹は戻せた。でも妊娠線が走り皮膚の弛みはそのまま。
しかも、ついぞ胸とお尻は戻らなかった。
努力では補えない壁がそこにあった。
繰り返される義務の連続。
溺れることのない世界。
ある夜、私はとうとう泣いてしまう。
耐えられなかったんだ、この屈辱に。
勢いに任せて募った思いを全て吐露した。
『抱いてやっているんだ。有難いと思ってくれ』
そんな私に貴方は無慈悲に、冷酷に、言い捨てた。
貴方はもう私を見てくれない。
それ以降、貴方は私を抱かなくなった。
眼鏡の奥にある瞳からは侮蔑と軽蔑の色しかなく、会話は一切なくなってしまった。
私は打ちひしがれる。
それから数日後、貴方の服から見知らぬ香水の匂いを感じた。
私じゃない匂い。
瞬時にわかった。
私以外の相手がいることに。
加えてこの匂いはその相手からの挑戦状だ。
『貴方の旦那さんは私の匂いに染まっているのよ』
存外にそう言われた気がした。
眩暈がして立っていられなかった。
まだ愛されていると思っていた。
今は喧嘩をしているだけだと思っていた。
思いたかったんだ。
希望は容易く壊される。
気が付いた時、私は貴方のスマホにスパイアプリを入れていた。
ロックなんて寝ているときの貴方の寝顔で簡単に解除できる。
昔の彼に使ったあのアプリを再び使うことになるとは夢にも思わなかったけど。
間違いであってほしい。
そう祈りながら自分のスマホを握りしめていた。
届いた通知に絶望したとき、私は無意識に吐いていた。
床にぶちまけた吐瀉物の臭いと食道を焼く痛みだけが現実だと教えてくれる。
愛し合う二人の甘酸っぱい逢瀬の記録。
愛を誓い、愛を求める二人。
そこに私はいない。
嘗て私が味わった幻想が私以外の人間と紡がれていた。
私はソファに座り天井を見上げた。
嗚咽と涙が止まらなかった。
私の世界は終わりを告げた。
貴方は一向に私を見ない。
愛の無い世界はひたすら地獄だ。
吐き続け、自らの身体を焼く咎に耐えながら愛を確かめようとする。
けれど貴方は私を否定し続けた。
枯れていく希望。壊れていく身体。崩れていく心。
貴方の愛を失ったと漸く理解できたとき、私は鏡の前で嗤っていた。
思い出から目覚める私。
どうやら泣いていたみたいだ。
その夜、私は貴方を求めて呼びかける。
最後の希望に縋りながら。
それでも貴方は私を拒絶する。
あぁ、貴方の愛はもう私には向いていない。
私は服を脱ぐ。
貴方は一瞥しただけ。
触れもしない。
私は隠していたナイフを取り出しもう一度貴方の名前を呼ぶ。
愛しかった名前。
私は今でも貴方を愛している。
名前を呼ばれて振り返った貴方は驚きながら立ち上がる。
よく見ようとしたのか、それとも視力の弱い者の本能なのか、眼鏡を掛けた。
徐に後退り、助命を懇願する。
『アレは間違いだ。気の迷いだ。愛しているのはお前だけだ』
あぁ、中身のない言葉はこんなに空虚だったのか。
黙っていても愛されていると思えた貴方の全てが今は薄ら寒く嘘くさい。
私は泣きながらナイフの切先を貴方に向ける。
怯える貴方。
漸く目と目が合った。
貴方の眼鏡に映る私は醜く、邪悪で、悪魔そのものだった。
もう貴方が愛してくれた私はいない。
私はナイフを自分の首に当てる。
貴方は驚いて目を見開いた。
ナイフの冷たさが伝わる。
怖れなんかない。
貴方に愛されない世界に未練なんて無いのだから。
私は自分の首をひと思いに切り裂いた。
慄く貴方に、好きだった貴方に、私の血が降り注ぐ
貴方は獣のような咆哮を挙げた。
あぁ、血に塗れた貴方の眼鏡に映る私は過去の私に似ていた。
熱く火照り火照って赤くなった肌。熟れた表情。ハリのある身体。
全てが女として完成していたと勘違いしていたころの私。
今わの際の幻想。
その中の私は嗤っていた。
これで私は永遠に貴方に刻み込まれる。
貴方を渡さない。
誰にも。
別の女を抱いていても貴方の心には常に私がいるの。
ずっと。永遠に。
さよなら貴方。
さようなら。
貴方の眼鏡に映る私 京京 @kyoyama-kyotaro
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