古びた駅舎の待合室で
ハルカ
持ち主を待つ眼鏡
駅の待合室に、
落ち着いた色合いのフレームと少し大きめのレンズ。誰かの忘れ物だろうか。
もうすぐ桜の季節だというのに早朝の駅舎はしとしと降り続く冷たい雨に濡れて薄暗い。
私は小さく身震いをした。
古びた田舎の駅である。上りの電車は通勤の時間帯でも一時間に二本しかない。
都会で働く人たちは、その中にぎゅうぎゅうと身体を押し込められる。若い人も年老いた人も、たくさんの人たちが慌ただしく待合室を通り過ぎてゆく。
でも、眼鏡のことを気にする人はいない。
待合室のベンチに腰掛け、私は偶然そこに居合わせた眼鏡をまじまじと見つめる。飴色のフレームは舐めたら甘い味がしそう。そういえば、高校のときの国語の先生がこんな眼鏡をかけていたっけ。言葉を大切に扱い、とても柔らかい話し方をする人だった。
この眼鏡の持ち主はどんな人なのだろう。今どこで何をしているのだろうか。
眼鏡を忘れたことに気付いているだろうか。
取りに来られないほど遠方に住んでいるのだろうか。
不便をしていないだろうか。
この眼鏡は、今までレンズにどんなものを映してきたのだろう。
胸が苦しくなるほど感動的な映画は見たことがあるだろうか。
あるいは、ずっと読んでいたくなるような心地よい小説は?
一生大切にしたくなるような手紙は?
誰もがその名を耳にしたことのある有名な画家の作品は?
震えるほど美しい風景と出会ったことはあるだろうか。
夜空で妖しく踊るオーロラの波を見たことは?
流星雨の降る夜空は?
空を割くような稲妻は?
南国の透き通る海と砂の色は?
圧倒される空気に触れたことはあるだろうか。
床から天井まで壁という壁を埋め尽くす大量の本は?
視界のすべてを埋め尽くす色とりどりの花畑は?
青空を映す大きな湖は?
大草原を渡ってゆく象の群れは?
夕日に染まるオレンジ色の砂漠は?
感動的な場面に立ち会ったことはあるだろうか。
群れになってゆったり泳ぐ鯨たちは?
本能のまま大空を飛んで行く渡り鳥の群れは?
雨上がりの空に虹が生まれる瞬間は?
流氷を砕きながら進む船は?
誰かが恋に落ちる瞬間は?
眼鏡はそのレンズに、持ち主の想い人を映したことがあるだろうか。
私はいつもこの瞳に、アパートの扉や、白い壁、あるいは時計の秒針ばかりを映していた。
恋人と二人で借りた部屋だった。
それなのに、あの人は日を追うごとに帰ってこなくなった。たまにふらりと帰ってきてベッドで眠っていることもあったけれど、そのときはいつも知らない香水の匂いがした。
この眼鏡もまた、戻ってこない持ち主を待っているのだろうか。
遠くから電車の走行音が聞こえてくる。
電車の到着を報せるアナウンスが響き、雨に濡れた空気を押し分けながら電車はホームへと滑り込んでくる。
駅舎の外にあるロータリーには送迎のタクシーや自家用車が次々とやってきてはまた誰かを乗せて走り出す。
にわかに混み合い始めた待合室の片隅で、私は家から持ってきたトランクを少し横に寄せる。誰の邪魔にもならないように。ずっとそうやって生きてきた。
たくさんの人が電車を降りて、また乗っていった。
でも、その中にあの人の姿はない。
どうやら眼鏡の持ち主もいないようだ。お互い待ちぼうけ。
電車が走り去り、待合室はすっかり空になった。
でもまたすぐにぽつり、ぽつりと人が現れ始め、またすぐいっぱいになる。誰かが待合室へ入ってくるたびに湿った雨の匂いがする。濡れた傘が視界を通り過ぎてゆく。その繰り返し。
いくつもの電車が到着し、またホームを出て行った。
それでも、やっぱりあの人は来なかった。
私はそっと眼鏡に視線を向ける。
次にやってくるのが、この町を出る最終列車だ。
今日一日寄り添ったこの眼鏡に、いつのまにか私は親しみを覚えていた。いっそのこと連れて行こうかと、思わず手を伸ばしかける。
だけど、もしかしたら眼鏡にはまだ希望があるかもしれない。
持ち主がひょっこり迎えにくるかもしれない。
そう思い直し、そっと手を戻す。
最後の電車の到着を報せるアナウンスが聞こえてきた。
私はトランクを持って立ち上がる。
たぶん、私はもう二度とこの町に来ることはないだろう。
ゆっくり一歩を踏み出す。
これから私は自分のためだけに、新しい景色を見に行く。
そっと振り返ると、眼鏡は出会ったときと同じようにただ静かにそこにあった。
ホームに出ればいつのまにか雨はやんでいて、空には煌々と月が輝いていた。
古びた駅舎の待合室で ハルカ @haruka_s
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