どこまでも見えた

@ihcikuYoK

どこまでも見えた

***


「神様仏様姉ちゃん様、お世話になります……!」

今回も誠にすいやせん! と腹から声を出され、ほんとにね! と思わず口からヤケクソな声が漏れた。

 ボロボロの軽自動車に、よっこいしょとふたりで乗り込んだ。


 免許証も持った、運転しやすいスニーカーも履いてる。

 心の中でいつものあれこれを唱えた。


 本日、弟がまた寝坊したのだ。

 どちらかというと朝には強く普段なら寝坊なんてまったくしないのに、たまに大事な用事ができるとこれである。その愛想のよさも相まって、そこそこ器用に生きている弟だが、ときどきこういったヘマをしでかす。

 やれ『アラーム掛け損ねた!』だの、やれ『楽しみで寝れなかった!』だの、わたわたしながら小学生みたいなことを本気で言う。

 ユウの詰めが甘いのはお母さん譲りかなぁ、いくつになっても可愛いねぇ、などと父はのほほんと笑うが、これらのミスを可愛いと笑っていられる年齢もそろそろ終わりだと思う。

 こんなボヤボヤした弟が、すでに成人しているだなんて信じられない。


「今日が平日だったら、姉ちゃん仕事で送ってあげられなかったんだからね」

 私と違い、お父さんやお母さんは寝坊したからといって送ってあげるような人たちじゃない。遅刻した寝坊した、となっても、『そうか、頑張りなさいね』で終わりある。

 自分のミスは自分でフォローしなさい精神の人たちなのだが、私はどうしてもそこまで放りだせないのであった。たぶん私は、自分が困ったときに助けてほしいと願う人間なのだろう。

 心のどこかで、巡り巡って自分のためになるとでも思っているのかもしれない。


「ほんとに姉ちゃん様の懐の深さにはいつも感謝して」

「そういうのいいから。シートベルトして」

「合点だ!」

 弟は助手席で器用に身を捩ると、シートベルトをして身を縮こませた。別に心理的な負担からではない。古い軽自動車の助手席は、180を超える体躯を持つ弟には事実として狭いのである。


 ――そうだ忘れてた、いけないいけない。

 助手席前のティッシュ箱前に置きっぱなしにしている、赤いケースに手を伸ばす。取り出しツルを伸ばし、少しクリアになった視界にやや満足した。これでなんの問題もない。

「ん? 姉ちゃん様、眼鏡なんてかけてたっけ??」

「なんか悪くなってたの」

「へー……。社会人だから?」

「さぁ? パソコン仕事のせいって言えばそうなのかも」

 おっと、のどかに喋っている場合じゃなかった。

 はいはいじゃあ行くよ! お願いしゃっす!! と言い合い、じわりとアクセルを踏んだ。


「いーなー、眼鏡カッコいいね。俺も買おうかな」

「? ユウって両目とも2.0とかじゃなかったっけ」

「そうだよー。目だけはめちゃくちゃいい」

じゃあ眼鏡いらないじゃんと述べると、伊達眼鏡とかでいいの、と続いた。


 ――そこまでしてつけたいものかなぁ? と思った。

 春の健康診断の結果を見たら視力が落ちていたが、私はいままで両目ともに1.0で、ずっと視力はいい方だった。歩くのに支障が出るほどではないし、裸眼でも運転していい範囲ではあったが、これからまた下がるかもしれないしと思って慌てて作った。

 必要になりそうだから作っただけで、眼鏡に特に感慨はなかった。

 せいぜい、ちょっと面倒だなぁと思うくらい。なんでも「いいなー」と述べる弟の感性は、正直ちょっとよくわからない。


「……そんなにいいものじゃなくない? 荷物1個増えるし、お父さんなんか私が眼鏡作るって話したらすごい可哀想がってもう」

「えー? なんで? 似合ってると思うけど」

 父は幼少期に瓶底眼鏡でからかわれて育った人であった。自分の子供まで眼鏡姿になるなんて、と、自分の子供のころを思い出して悲しくなってしまったようだった。

 だが小学生ならまだしも社会人にまでなって眼鏡をからかう人などいないので(なんなら眼鏡やコンタクトの人の方がずっと多いし)、父の心配や気遣いも不要だったわけだが。


 次は、個人的にこの道程で一番緊張する右折である。

「……」

「……? これなんの匂い? ミカンともちょっと違うけど、なに?」

能天気な声など聞こえない。いまはそれどころではないのだ。

「……」

「?? お姉ちゃん様ー? どしたのー? 無視は悲しいよー?」

「ちょっと待ってて、これから右折するんだから。ここ信号ないんだから」

「おぉ……。おっけ、御意御意ごめん」


 いまだに運転が苦手で、ハンドルを持つと緊張する。

 おまけにここは、信号機のない場所での右折である。後ろに行列ができるのではないか、と焦って仕方がないのだ。

 幸いなことに、向こうからやってきた大型トラックがパッとライトで合図してくれた。あわあわしながら手を上げて礼をし、急ぎつつも慎重に曲がる。

 毎度毎度、九死に一生みたいな気分で、ヒヤリハットのヒヤリが常時である。心臓に悪いったらない。


 肩に力が入りっぱなしの私を見て、弟は膝上の黒いリュックを抱えたまま首を捻った。

「……姉ちゃんって通勤で毎日乗ってておまけに無事故無違反なんでしょ? 初心者マークもとっくに外れてるし、優良ドライバーなわけだし、俺も安心して乗れちゃうし」

そんなに緊張しなくても大丈夫でしょ、と言外に言われ、ちょっと膨れた。

「世間からの評価や実績なんて、これから事故をするかどうかとはなんの関係もないでしょう。姉ちゃんの心は永遠に初心者なの」

 それが無事故無違反の秘訣? と問われたが、そんないいものではないと内心思う。ただ臆病なだけである。本当は、向こう10年はあのマークをつけていたかったくらいだ。


 問題の右折を終え、あとはもう直進といくつかの信号だけとなった。

 今回は最寄り駅じゃなく、快速が止まる一駅先に行くことになったので過度に怖気づいてしまったのだ。

 だが普段通りに運転すれば、普段と違う目的地にだって問題なく行けるに決まっている。今朝うっかり『送る』と言ってしまってから、ずっと自分に言い聞かせ続けていたことだった。


「そういえば、バイクの免許取るとか言ってたのはどうしたの?」

余裕の戻ってきた私の声に安心したのか、ほっとした声が返った。

「どうせ取るなら車にしよっかなって。車の免許なら、バイクも乗れるから一石二鳥でしょ」

「……免許はまだあれだけど、車を買うお金なんてあるの?」

 私の時と同じく免許を取るお金は出してくれるだろうが、父も母もさすがに車代までカンパしてくれないだろう。かといってこのボロ車を譲ってやれと言われても、車通勤の私は新しく車の都合をつけねばならなくなるので困ってしまう。

「全然ないけど、遊ぶだけならアルバイトしてレンタカー借りればいいし」

駐車場代とか払ってらんないもんね、と今どきな考えを述べた。

 でもまぁ確かに、実家暮らし且つ余ったボロ車があるから私もこうやって車に乗れているのだ。ひとり暮らしだったなら、今も車とは縁遠いままで、ペーパードライバーを貫いていただろう。


「そういや、この芳香剤はなんだったの? 結局ミカン?」

「? ミカンなわけないでしょ?」

「わけないこたぁないでしょ」

 首を振る。そんな普通なものを買ってなにが楽しいのか。

 ご機嫌な気持ちになった。

「これはねー、すだち」

「、すだちの芳香剤なんてあるの??」

「これがまさにそうだけど? すだち、サッパリしてていいでしょ!」

と述べると、「すだちだけで嗅いだことないからわかんないけど、確かにサッパリはする、かも……?」と弟は深刻な声を出した。


 駅の一般車用ロータリーに入り、駐車券を取り中の駐車場へと滑り込む。

 以前ならこの駐車券も、運転席に座った状態では取れなかったものだが、私もずいぶん上達したものだ。

「! なんかここ駐車場狭いかも! 俺その辺で降りよっか?」

「大丈夫、ちゃんと枠には入るでしょ、……たぶん。ちょっと曲がるかもしれないけど」

 ドキドキしながら一度の切り替えで無事バック駐車をキメると、弟は荷物を抱え「姉ちゃん様ありがとー、助かりました!」と車を降りた。


 リュックを背負いつつ前に出て、両サイドを覗き見た。

「わー、完璧だ! まっすぐ入ってる!」

ほっと胸を撫で下ろした。

「これでも平日は毎日乗ってるんだからね」

おみそれしました~、と弟は笑って軽く頭を下げた。


「それじゃ、また冬休みにね」

「うん、また。送ってくれてありがとー」

大きな体でバイバイと手を振りつつ、弟は駅へと吸い込まれていった。


Fin.

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