眼鏡論争

高麗楼*鶏林書笈

第1話

「主上、よろしいのですか」

 側を歩く近侍が聞いた。

「構わん」

 王は応えると急ぎ足で朝会の場へと向かった。近侍たちは黙ってそれに従った。

 王が玉座に着くと百官たちは騒めいた。

 “主上が眼鏡を掛けられている!”

 不惑を迎えて以降、王は文書や書物の読み難さを感じるようになった。そのため、眼鏡を愛用するようになったのである。ただ公的な場に出る時には掛けなかった。当初はそれでも何とかなったが、最近は眼鏡無しでは視界がぼやけてしまい不便さを感じるようになったのである。

 騒然とする中で、一人の大臣が進み出た。王の反対派の領袖だった。

「御畏れながら申し上げます。一国の王が眼鏡を着用して政(まつりごと)の場に臨むという例はこれまで一度もございません…」

 こう前置きして彼は王が眼鏡を掛けて現れたことを、古今の書物の記述をあれこれ上げながら批判し始めた。

 王は何も言わず目を閉じて聴いていた。

 彼は眼鏡着用の是非を問う気はない。ただ、これをきっかけに王の政治を批判し、出来ることならその力を弱め、かつてのように自分たちが権力を握れるようにしたいのである。

「左様か」

 大臣が言い終えると、王は目を開け、まず発言者を睨み、そしてその場にいる者たちを見まわした。

「先ほど卿が述べた言葉のうち…」

 王は大臣が上げた記述を一つ一つ反論していった。

 そして、

「眼鏡を掛けることにより視界が開け、卿等の顔もよく見えるようになった。心中のことはよく顔色に現われるという。まさかと思うが、汝らはそれが不都合ゆえ、眼鏡の着用を拒否しているのではあるまいな」

といって話を終えた。

 大臣は、這う這うの体で退いた。

 その後は、通常通りの朝会となった。


「主上はやはり大した御方だ」

 散会後、若手官僚の一人が感嘆したように言う。

「ああ、万巻の書物を読まれ、全てを御理解されているという話は本当だね」

 別の若手が応じた。

 彼らは經筵の“生徒”たちである。

 本来の經筵は、著名な儒者が王に経書を進講するのであるが、現王の場合は優秀な若手官僚たちに王が講義するのであった。学問の世界でも王がこの国の最高峰に立

っているのである。

 彼らは、王を心から敬愛していた。主上の下で、自分たちの志が果たせるように思われたのである。

 現王が即位してから、民の生活は少しずつ良くなっていった。

 このままいけば、この国は良くなり、人々は耶蘇教などという怪しいい宗教に心を寄せることもなくなるだろう。

 だが、彼らは志は実現することはなかった。

 この一年後、王はこの世を去ってしまったのだった。 

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眼鏡論争 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu

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