6章 波乱の夜会


 ハッと、気絶から意識を取り戻すように目覚めたフレイヤは、窓の外が明るくなっていることに気づいて、己の神経の図太さに頭を抱えた。


(あんなことがあったあとで、私、いつの間にどうやって眠ったというの……!?)


 フローレンスに毒を盛った犯人についての推理、ローガンの理解不能な言葉、そして突然の口づけ。

 怒涛の情報量に頭がついていけず、強制終了してしまったのだろうか。


(……っていうか、もしかしてあれは夢だったのではなくて? やだ、私ったらいくら街で色々と色事まわりの話を聞いたことがあるからって、経験もないのにそんな……。ああやだ、恥ずかしいわ)


 自分に呆れつつ、寝間着の襟元を軽く引っ張って胸元を覗き込む。

 すると──左寄りの胸の上と、谷間のあたりに一つずつ、赤紫色の痕がそれはもうくっきりはっきり見間違えようもなく刻まれていて、フレイヤは再び頭を抱えた。


「ゆ、夢じゃなかった……」


(……えっ? ということは、あれもそれもこれも全部現実……?)


 昨夜のローガンの言動が、猛烈な勢いで頭の中を駆け抜けていく。


『逃げられるよりは、刺したいほどに憎い男もろとも手中に収めた方がまだマシだとすら一度は考えた』『どんなそしりを受けようと、いっそ、この名と剣への誓いを破り捨てたくなってきた』


 そう、苦しげに吐き出された言葉。唐突に落とされた優しい口づけ。

 痕を刻みつけながら、どこか熱っぽく零された言葉は、『さっさと、こうしてしまえばよかった』というものだった。


 ただ、その声音には熱だけでなく、悲しみや後悔も滲んでいたような気もした。ローガンが一体何を思っていたのか、考えるほどにフレイヤは混乱してくる。


(ありえないはずなのに……なんだか、まるでローガン様が私のことを憎からず思っているような錯覚に陥ってしまうのだけれど……?)


 そこまで考えて、フレイヤはぶんぶんと首を横に振った。


(いいえ、混乱して都合よく解釈しすぎているに違いないわ。しっかりなさい、フレイヤ! 冷静かつ客観的に事実を見つめるのよ!)


 深呼吸して心を鎮め、フレイヤは昨夜を中心に、ローガンの言動を振り返ることにした。


(ええと……私を逃がすくらいなら、愛人ごと囲った方がまだマシで……刺したいほど憎い男って、これまでのことを踏まえるとユーリよね? でも、ローガン様とユーリはこの数年ほとんど交流がないはずだし、ユーリがそこまで恨まれるようなことをするとも思えないわ。……ということは、やっぱり……?)


 再び先程と同じような結論が頭に浮かびそうになり、フレイヤはまた首を横に振る。


(名と剣に誓ったことと言えば、庭園での話よね。結婚が本意でなくても、私を傷つける気はない、無理強いはしないと……。それを破棄したくなったというのは、傷つけたい、無理強いしたいということ……? 確かに、少し強引に口づけされて……痕も残されたけれど。そんなに酷いことをされたわけでもないし、短刀を私に渡して、止めたければこれで止めろともおっしゃったわ。……あれって、刺されてでも口づけたかったということ……? いえいえ、そんなはずはないわよね!?)


 冷静に考えたいのに、思い返すほどに考えが脱線していく。ローガンの柔らかく熱い唇の感触までまざまざと思い出してしまい、頭から湯気が出そうになって、フレイヤは呻いた。


 と、寝室の扉がノックされ、フレイヤは慌てて居住まいを正す。


「おはようございます、奥様」

「おはよう」


 マーサのあとには、目覚めのお茶が載ったワゴンを押しているエヴァと、普段着用のドレスを持ったベラが続く。


(そうだわ、着替え……! どうしましょう……!)


 胸元の赤い印を侍女たちに見られるのは、とてつもなく恥ずかしい。

 だが、名実ともに夫婦であると見せかけるために寝具を乱したりしたこともあったわけで、今更恥じらうのも怪しいだろう。


(ど、堂々と……こんなのいつも通りでしてよ!という感じを装うのよ)


 そう決意したフレイヤだったが……。


「まあ、旦那様ったら!」


 マーサの声で、じわりと頬が熱を持ちはじめる。


「これでは夜会のドレスの選択肢が限られてしまいますわね。夜会の話が出た途端にこれとは、旦那様も心配性ですこと」

「心配性……」


 マーサにまでそう言われると、先ほどまでの自分の考えが正しいのではないかと思えてくる。

 しかし、では一体これまで散々険しく冷たい表情を向けられていたのはなんだったのだろうか。


 今に始まったことではないが、ローガンの考えがさっぱりわからない。


「今日は夜会用のドレス選びをいたしましょうか。旦那様は騎士服でしょうから、合わせて青みの入った色がよろしいかと思いますわ」

「ええ……いくつかよさそうなのを見繕ってちょうだい」

「お任せください、奥様」


 ローガンの騎士服には、何種類かある。

 婚姻の儀や最重要式典などの時には、純白の布地に金糸で刺繍が施された豪奢なもので、マント付き。

 通常式典やパーティーでは、濃紺の布地で刺繍装飾はないが、金の飾緒がついており、武官らしさと控えめながらも華があるものだ。


 フレイヤはまだ見たことがないが、訓練などの際には、汚れが目立ちにくい黒のシンプルな騎士服を着ることもあるらしい。


 今回は通常の夜会なので、ローガンの服装は濃紺の騎士服となる。

 パートナーとはある程度色味を合わせるものだから、フレイヤのドレスも青系統が望ましいというわけだ。


 なお、夜会は業務外なので、夜用の礼服で参加してもいいはずだ。

 だがマーサがこう言うということは、ローガンはいつ呼ばれてもすぐに対応できるようにか、あまり礼服にこだわりがないとかで、基本的に騎士服を身に着けているのだろう。


(そういえば、ローガン様と夜会に出るのは初めてね)


 フレイヤとローガンが公の場で並んだのは、婚礼の日が最初で最後だ。

 婚約は結婚準備までに必要な最短期間だけのうえ、ローガンの多忙と社交期から外れていたことも影響して、二人で揃って夜会に出る機会がなかった。


(一番の目的は情報収集だけれど、彼と一緒に夜会に参加できることは嬉しい──って、喜んでいる場合じゃないわ。私はお姉様と円満離縁と事件の手がかり探しのために……)


 そこまで考えて、フレイヤは思い直す。


(ローガン様が私のことを多少は思ってくださっている──というのが私の思い込みや思い違いでないなら、離縁計画は中止になるのではないかしら……?)


 愕然として固まるフレイヤを不思議に思ったらしいマーサに「奥様?」と呼びかけられて、「なんでもないわ」と微笑んでごまかす。


(とにかく、ローガン様としっかり話をしたいわ。気持ちをはっきり確かめるのは怖いけれど……重要なことだもの)


 近頃、ローガンは遅くなっても夜は必ず帰ってきている。

 なので、今夜にでも話をしようと思っていたフレイヤだが……。


「本日、旦那様はお帰りになられないとのことです」

「……そう」


 夕食の前に久しぶりに家令からそう伝えられて、がっくりと肩を落としそうになった。

 しかし、同時に罪悪感が湧いてくる。


(もしかして……急に夜会に参加することになったから、その分のお仕事をされているのかしら。この間、一番街へ出かける前もお忙しそうだったし)


 別に一人でも大丈夫なのに、という思いがよぎるが、『逃げられると思うなよ』とまで言われている。


(……改めて思い出してみると、まるで人攫いか何かの台詞みたいね)


 それでもつい嬉しく思ってしまうあたり、諦めたつもりでも、心の奥底では全く諦められていなかったのだと痛感するフレイヤだった。


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