──その日の夜。


 夕食、湯浴みを終えたフレイヤは、今日グレースとパトリックから聞いた話の走り書きのようなメモを、きちんとノートに整理してまとめていく。


 グレースはお店を継いだので、一からの開店についてはわからない部分もあると話していたけれど、日頃気をつけていることや、営業する日の一日の動きなど色々なことを教えてくれた。


 逆に、パトリックは実際に自分自身で営業をしたことはないけれど、商家の息子というだけあって、開店場所の見極めなど理論的な部分に詳しかった。


 二人の話を統合すると、ある程度幅広い業種のお店でも応用がききそうな『お店の開き方、商いの仕方』の手引きになりそうだ。


「フレイヤ様、そろそろお休みになられてはいかがですか?」

「……あっ、もうこんな時間!」


 エヴァが控えめに声をかけてきて時計を見ると、もうかなり遅い時間になっていた。

 慌ててノートを閉じ、寝室へ向かおうと立ち上がる。


「ごめんなさいね、エヴァ。あなたにも夜ふかしさせてしまって」

「いいえ、お気になさらず。フレイヤ様が生き生きされているご様子で何よりですから」

「ありがとう」


 夫婦の寝室の前でエヴァと別れ、時間を認識したことで急速に襲ってくる眠気を感じつつ、フレイヤは扉を開けた。


 小さなランタンの明かりを頼りに寝台へ向かい──毛布がこんもりと盛り上がっていることに気づいて、驚いて立ち止まる。


(ローガン、様……?)


 いつの間に帰宅していたのだろう。


 既にぐっすり眠っている様子のローガンは、寝顔すら凛々しく整っていて、起きている時にはほとんど標準装備になっている眉間の皺もない。


 そうすると、幼い日に淡い恋心を抱いた時の、王子様のような麗しく優しげな姿の面影が濃く感じられて、微かに胸が高鳴った。


 今ももちろん、好意があるからなおさらローガンのことは素敵だと思ってはいる。


 だが、いかんせん彼の表情が険しすぎてまともに顔を見られないことが多いので、「ああ素敵」なんて思える余裕がなかなかないのだ。


 久しぶりにじっくり落ち着いてローガンを見つめたあと、フレイヤはランタンの明かりを消し、彼を起こさないようにそーっと寝台に入る。


「……おやすみなさい、ローガン様。よい夢を」


 そう囁いて目を閉じると、外出の疲れもあったのか、あっという間に眠りの世界へ落ちていく。


 ──優しい声が「おやすみ」と微かに返したことを、フレイヤは知らない。




 お忍び外出に別邸の使用人たちが協力してくれることになったとはいえ、さすがに毎日出歩くわけにもいかない。


 それから数日は、グレースやパトリックに聞いた話をもとにどういう業種がよいか考えたり、いつものように読書をしたり、庭園を散歩したりと、フレイヤはのんびり過ごした。


 ローガンは相変わらずどころか、より一層多忙なようだった。


 屋敷で顔を合わせることはほとんどなくなり、また泊まり込みか仕事で遠方へ行っているのかと思うほどだったが、自分が寝ていないところにわずかに皺ができた寝台が、彼が夜間に帰ってきていることを示していた。


 フレイヤとて、せめておはようかおやすみくらいは言いたい。


 しかし、寝る時にフレイヤが起きているとローガンの方は気まずいかもしれないから、見送りができるように早く起きようと頑張っている。


 それでも、フレイヤが起きた時には既に、ローガンは朝食を終えかけているか、出立したあとなのだ。


 この日もフレイヤは一人で朝食をとりつつ、数日前に寝顔を見たのが最後のローガンのことをぼんやりと考えた。


(一応は和解できたと言っても、まだ気まずさがあるのかしら。ただでさえお忙しいのに、私を避けるためにこんな生活をしていたら、いくら体力があると言っても身体を壊してしまいそうだわ。それよりは、前の視察の時みたいに、忙しいから帰れないと言って──あら?)


 ふと疑問を覚え、フレイヤの食事の手が止まる。


 夜中に帰って早朝に出ているとなると、この別邸で休息に当てている時間は長くて五、六時間といったところだろう。もっとひどいと三、四時間かもしれない。


 そのわずかな時間のために王城と別邸を往復するのは面倒そうなのに、泊まり込みせず帰って来ているのだ。


(私を避けて……なんて、ちょっと自意識過剰ね。ローガン様は優れた騎士ですもの。自分をおろそかにしてお勤めに支障が出るような真似はしないはずよ。だからきっと本当にお忙しいのだわ)


 そう気づいてしまうと、フレイヤはローガンのことがもっと心配になってくる。


 忙しいのならなおさら、無理に帰らずに休息を優先してほしい。だが、『帰って来ないでほしい』と受け取られる可能性も大いにありそうで、うまい伝え方がまったく思い浮かばなかった。


(……もしかしたら、この間私が『放っておくのはお得意でしょう』なんてひどい嫌味を言ってしまったことも、多少は気にしておられるのかしら……。ララをくださった時は、ユーリについてのお話を悔いてくださっているようだったし、結婚早々妻を何度も放置するのは、対外的にもあまりよくないと思っておいでなのかも。とにかく、お身体が心配になってきたわ……)


 今日こそは彼の帰りまで起きていて、顔色くらいは確かめたい。


 そう決意したフレイヤは、寝室のソファで本を読んでローガンの帰りを待つことにする。


 ローガンを出迎えたいと起きて粘るフレイヤを、マーサは優しく見守り、その求めに応じて強烈な爽快感がある目覚ましのお茶を淹れてくれた。


 フレイヤは、喉と鼻にスーッと来る風味で眠気を遠ざけつつ、四時間ほどを過ごした。時計を見て、まだローガンは帰らないのかと少しがっくりし、また本へと視線を戻して──そのあたりで、フレイヤの記憶は途切れている。


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