その色眼鏡は、外せない。
kayako
濃ければ濃いほど、見える世界が違ってしまう。
誰かの書くものは大概、何らかの色眼鏡を通して書かれている。
その色が濃いか薄いかは別として、人間が書くものである限り、ある程度色のついた眼鏡で作品が書かれるのは避けられない。
つい最近、そんなことを考えてしまう出来事に遭遇した。
私には10年以上も好きで、今も好きな作品がある。
その作品の中で、私がとても好きなキャラがいる。仮にA君とする。
彼はストーリーの中では脇役。酷い目にも散々あい、主人公とも対立し、いがみ合うキャラだ。
彼と主人公との関係を中心に、色々考えさせられることも多かった。
その原作はストーリーもキャラもかなり複雑な描かれ方をされていた為か、発表当時はファンも多かったが批判も溢れていた。
特に主人公やメインキャラの行動が悪い意味で特異に見えることも多く、当時のネット上では批判意見が非常に多数を占めた。
私が好きだったA君は主人公とぶつかり合うことも多いキャラだった為、私もどうしても主人公を、ひいては作品を批判的な目で見ることが多かった。
もう一つ言うと、作品内のA君の扱いは当時の自分の目にはかなりぞんざいに見えた(正直言うと、今でもぞんざいに見える)。
必然的に私は、「A君は大好きだが作品は大嫌い」という、あまりに矛盾した状態を抱えることになる。
さらに言えば、その作品を取り巻く当時のネットは、主人公やその周囲を擁護したら即座に叩かれるという、かなり異常な風潮でもあった。
逆に主人公と対立しがちだったキャラやA君は、そういういわゆる『アンチ』層には相当人気があり、批判的な意見はほぼ見なかったように記憶している。恐らく判官贔屓もかなりあったのだろうと思う。
要するに、批判的な意見を呈していた層は自分も含め、結構な『色眼鏡』で作品やキャラを見ていたのだろう。
そんな時に私が書き始めたのが、A君を中心とした二次創作である。
A君への愛と、作品への憎悪(と表現してもいいほどの複雑な感情)。
それが色々とないまぜになって書き始めたものだ。
当時はA君に関する二次創作も溢れており、A君が非常にカッコよく書かれたものも多く、見ていても読んでいても楽しかった。
だから自分の作品は、それらの作品のA君と比べるとどうしても埋もれるなぁ……カッコよくないなぁ……というか自分の作品自体がダメダメだ!!と感じることも多かったものだ。
私はこの、カッコ悪さも情けなさもあるA君が好きだからいいけど!と開き直ってはいたが。
ところが、当時から時代は流れ。
かつては作品アンチが大多数をしめたネット上でも、次第に主人公や作品を改めて見直そうという動きが活発になってきた。
当時の視聴者層でまだネットを満足に使えなかった若い人たちが、積極的にネットでも発言できるようになったり。
また、再放送や配信が頻繁になされ新規層をどんどん取り込んだことで、作品やキャラの見方がかなり多様化したり。
恐らくそういった公式内外の動きも大きかったのだろう。
気がつけば当時と今とでは、「作品もキャラも普通に大好き!」という層と、いわゆる「アンチ」層は完全に逆転。
私自身もそれらの意見を多く目にするに至り、当時主人公がA君と対立せざるを得なかった状況や、A君の言動や行動にも非があったからこそ主人公といがみ合う結果になったと改めて気づかされた。
当時も勿論そういったA君の行動も言葉も見ていたはずだが、多分当時はろくに見えていなかったか、認識してはいても「その後主人公がやらかした行為に比べればどうということはない!」というフィルターがかかっていたように思う。
つまり、「A君大好き」と「主人公と作品嫌い!」の二重の色眼鏡で作品を見ていたと言っても過言ではない。その点については大いに反省しなければならないと思う。
しかし。
「主人公&作品大好き!」層が大半を占め、逆に作品批判が容易に出来なくなっているのが今、その作品を取り巻く風潮でもある。
当時多くのファンが「作品嫌い!」の色眼鏡で作品を見ていたとするならば、今は「作品大好き!」の色眼鏡が過剰になりすぎている感もある。
この作品に限らずだが、今はSNSやネット自体が批判的意見を嫌う風潮があるし、少しでも批判的意見を言えば『お気持ち』とされ忌避される傾向にある。
そんな時代的背景も作用しているのか、かつて過激なアンチ層がファンを叩いていたように、今は過激なファンが批判的意見を叩いているような気がしてならない。
つまり色眼鏡の色は逆転していても、結果的に同じことが起こっている……気がしている。
そして私が今公開しているA君の二次創作についても現在、興味深い現象が起こっている。
ありがたいことに非常に好意的な感想をいただくこともあるのだが、「こんなカッコイイA君初めてです!」「この熱いA君、本編で見たかった!」「A君カッコ良すぎる! 惚れる!!」といった感想が多い。
(いやもう、本当にありがたいです感謝です!)
自分はA君をそこまで過剰にカッコよく書いたつもりはなく、あくまで原作の延長線上のA君のつもりで彼を書いた。情けない部分も弱い部分も含めて。
しかし第三者の目からはそう見えてしまうということは、自分は未だに非常に色濃い「A君大好き」色眼鏡をかけてしまっているのだろう。
これに関してはどうしようもない。最早外すことは不可能だしそのつもりもない。
(だけどこれだけは確実に言える。
もっともっとカッコイイA君なら、昔は山ほどあったんだ! ホントだ!!)
だがその一方で、「原作アンチ作品でしかない」という評価をいただいたこともある。
作品や主人公、そしてA君に対する好意的な意見も批判的な意見も両方見た上で、自分の書いている作品に逐次修正を加え、出来うる限り一方に偏った描写にならないようにはしているのだが……
(ちなみに「アンチ・ヘイト描写はしていないつもりですが、そう受け取られても仕方がない描写があります」という旨の注意書きは最初にしている)
それでもやはり、「アンチ二次創作」であるという評価は受けてしまった。
私自身が長年かけてしまっている「アンチ」に近い色眼鏡。その色はそう簡単には消えないということか。
それとも、主人公と対立関係にあるA君を好意的に熱烈に書くこと自体が「アンチ」と見做されたのだろうか。
後者だとしたら絶対に直しようがないし、前者だとしても今以上の修正は難しい。
じゃあどうすればいいのかというと、どうしようもないというのが結論だ。
少なくとも「A君大好き!」という色眼鏡は外せないし外すつもりもない以上、私は決して、原作を曇りなき眼で見ることは出来ない。
さらに言うならば、完璧に純度100%混じりっけなしの曇りなき眼で作品を見られる人間は、どれほどいるというのか? 多分原作者でも無理だろう。
だから自分に出来ることは、A君を好きでありつつも彼の厄介な部分や欠点も出来るだけ認識し、A君だけでなく主人公の立場に立ってその言葉や行動を見直すことぐらいだろうと思っている。
要は『相手の立場に立ってものを考える』という、ごくごく基本的なことだ。
たとえ外せない色眼鏡をかけていたとしても、それが出来れば眼鏡の色は少しでも薄くなるはず。
主人公にもA君にも、双方に落ち度はあり。
同時に原作自体、美点も多いが欠点も数多い作品である。
当時のアンチが重箱の隅をとことんひっくり返す勢いで作品を執拗に叩き続けたのは事実だが、叩かれても文句が言えない面も多かった作品だとは今でも思う。
作品ファンかアンチか問わず、どちらかを一方的に過剰に叩いたり全面的に否定することなく、「そういう欠点も確かにあるね、でも私はこの〇〇が好き!」「私はこの作品が好きだけど、こういう欠点はどうにか直してほしい」などと平和的に意見をかわせると一番いいのだが……
今のネットの性質上、それがなかなか難しいのが現状なのかも知れない。
カプ論争とかになるとまた色々話が違ってくるけど、それはまた別の話ということで。
その色眼鏡は、外せない。 kayako @kayako001
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