第12話 挨拶です
【抱きとめられたとき、汗の混じった涼やかな香りが鼻孔をくすぐった】
ふと、脳裏に過ぎったのはゲームの一文だ。
(なるほど、これがルーカスの香り……)
思わず嗅ぎそうになり、はっとリシェリアは正気に戻る。
「あの、そろそろ離してくださいませんか?」
「まだ暴れてるみたいだから、待って」
ルーカスから離れたいのに、思ったよりも腕の力が強くて逃れられない。
「その、く、苦しいです」
「ごめん」
ルーカスの力が緩んだのを見逃さず、リシェリアは腕から逃れた。
競技場ではまだケツァールが暴れているみたいだ。魔塔の関係者が応戦しているけれど、結界のおかげかどちらも怪我ひとつ負っていない。
爆風で乱れた髪を整える。三つ編みは片方ほどけてしまっていた。
「リシェリア、大丈夫?」
「は、はい。問題ありません。……助けてくださり、ありがとうございます」
心配そうなルーカスにお礼を言う。ふと視線を感じて振り返ると、アリナが口に手を当ててこちらを見ていた。爆風で髪が乱れているのに直すことなく、瞳をキラキラとさせている。なぜ。
ほとんどの生徒たちが逃げるか突然の爆風に動くことができずに蹲っている。運のいいことに、ルーカスに抱きとめられたのはアリナ以外に見られていないみたいだ。
(もし見られていたら、やっかみを受けていたわ)
リシェリアみたいな地味な格好をしている令嬢が、王太子の婚約者であることを快く思わない人は多い。
六歳の頃にルーカスの婚約者になってから約九年。お茶会や社交の場に参加しては、陰口を叩いてきた令嬢たちを思い出す。公爵令嬢だから面と向かって行ってくる人こそいないけれど、それでもうら若い令嬢たちはリシェリアに少なからず妬みや嫉みがあるのだろう。
(このまま死刑ルートに近づいたら、どうしよう)
思わず体が震える。
「震えているの?」
「え?」
「怖いなら……抱きしめた方がいい?」
「いいえ、大丈夫です。これは武者震いですから!」
「武者震い? なんで?」
困惑したようなルーカスの顔。リシェリアは愛想笑いをして誤魔化した。
「あ、終わったようですね」
アリナの声に会場に視線を戻すと、魔塔の魔術師と思われる数人に追われたケツァールが不利を悟って逃げるところだった。
火と風の魔法を駆使して、どうにか逃げられたようだ。ケツァールは四つの属性の魔法を使うことができるが、特に得意としているのがその二つだ。
魔塔の寵児にして、問題児。彼は、魔塔のやり方が気に食わなくて、魔塔から抜け出して王立学園に入学している。だから常に魔塔から狙われる立場なのだ。
(ケツァールのルートは、いちばん攻略が難しいのよね)
悲惨な裏ルートが多いのもケツァールだ。好感度が足りないと、彼は魔塔に捕まってしまい、逃げられないように両足を切断されて、そのまま魔塔の地下に閉じ込められて一生を終えることになる。
(だから、ケツァールのルートはどうにかしないと)
その為には魔塔の闇を暴く必要があるけれど、悪役令嬢であるリシェリアにできることはあるのだろうか。
ケツァールが去った後の会場内は、地面が抉れていて、とてもじゃないけれど競技を続行するのは不可能だと判断された。だから三年生の魔術部門は後日別の形で行うと会場内にアナウンスが響く。残っていた生徒たちも帰り始めたので、リシェリアもその流れに乗ることにした。
「私たちも帰ろう、アリナ」
「え、うん。……いや、私は先に帰るね! ……影から覗かなきゃっ」
リシェリアの呼びかけに頷きかけたアリナだったが、ふと視線をリシェリアの背後にやってから、慌てたように言い変えて去って行く。呼び止める暇もなかった。
「リシェリア」
呼びかけられて、アッと思い出す。
「ルカース、様」
「一緒に、帰ってくれる?」
「……はい」
上目づかいで言われたら、さすがのリシェリアも断れない。
リシェリアはルーカスと一緒の馬車で帰ることになった。
リシェリアは馬車に揺られていた。いつも乗っているオゼリエ家の馬車ではない。王族専用の馬車だ。前にはもちろん、ルーカスが腰かけている。
(き、気まずい)
もともとルーカスは口数が多いほうではない。それはゲームでも顕著に表れていて、淡々と喋るキャラだった。
逆にゲームのリシェリはよく喋っていた。
(無反応の相手に、リシェリアもよく喋りかけられたわよね)
実際のルーカスは無反応というわけではなかったが、それでもこうやって二人っきりの空間だと無言の時間が長くなってしまう。
ルーカスは何か言いたいことでもあるのか、じーとリシェリアのことを見ていたかと思うと、やっと口を開いた。
「……リシェリア。図書室での約束、憶えている?」
胸がドキリとする。もう一カ月も経っていて、そろそろ記憶から消したい出来事だったけれど、忘れられるわけがなかった。
「な、なんのことでしょう?」
「リシェリアは、まだおれと、婚約解消したいと思っているの?」
「……それは」
「やっぱり、おれのこと、信じられない?」
「そんなことは……」
ないとは言い切れない。だって、悪役令嬢であるリシェリアは、ルーカスから婚約破棄される運命なのだ。ヒロインが別ルートに行ったところで、リシェリアに待っているのは心を狂わせるほど慕う人からの婚約破棄や、国外追放だけなのだから。
たとえ、リシェリアがルーカスのことを想っていても、結ばれることはありえない。
「……リシェリアは、どうしてそんなに、おれのことが信じられないんだ」
どこか悲し気に揺れるルーカスのエメラルドの瞳を見ていると、胸の奥がギュッと苦しくなる。
「あの時の口づけ……」
「え、なんのことでしょう」
思わず食い気味に答えてしまった。
ルーカスの眉間に皺が寄る。
「あれで、おれの気持ちを、伝えられたと思ったのだけれど……違うみたいだ」
「あ、あれはその……」
何とか言葉を探す。どうしてルーカスに口づけをされたのかはわからないけれど、ここで動揺するわけにはいかない。
「あれは……そう、挨拶ですよね?」
「挨拶?」
「恋人……じゃなくって、家族や親しい人と挨拶をするときに、キスをしますよね。だから、あれは挨拶なんですよ」
(そうだ。挨拶。日本では珍しいけれど、海外ではよくあるらしいから)
「挨拶、ね」
ルーカスの眉の間の皺が、さらに増える。
「でも、そうか。……挨拶なら、いいのか」
「え?」
「君は、おれの婚約者だ。親しい人だと思う。だったら、いまから挨拶をしても、許されるよね?」
「あ、あれ?」
困惑していると、身を乗りだしたルーカスの顔が目の前にあった。
少しの間だったけれど、唇と唇が重なる感触が……。
「!?!?!?!?!?」
混乱していると、顔を離したルーカスが、少し悪戯っぽい笑みを浮かべたような気がした。若干の表情の変化だったので気のせいだったかもしれない。
「いまのは挨拶だよ、また学園でね、リシェリア」
いつの間にか馬車はオゼリエ家のタウンハウスに着いていた。
馬車の扉が開き、わけもわからないまま馬車から降りる。馬車に乗ったままのルーカスに、わけもわからないまま手を振って見送る。まるでロボットのような動作を使用人に心配されながらも、自室のベッドに倒れ込み。
そして、リシェリアは呻き声を上げた。
もしかしたら、自分は何か、間違えたのかもしれない。
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