騎士との再会

 空が本当に美しく青い。

 街並みの風景が眼鏡なしではっきり見える開放感に、ダリヤはうれしさをかみしめる。

 今、自分が着ているオリーブグリーンのロングパンツとホワイトリリーのセーター、その色合いの微妙な美しさもよく見えた。

 ダリヤは、今朝早くから乗合馬車で神殿に行った。視力を戻し、眼鏡を外せるかどうかの確認である。

 神殿は王都の北東、王城の近くにある。前世の教会とフォルムが似ているが、白い水晶のような素材が使われ、陽光がきらきらと跳ねる美しい建物だった。

 治療に関しては、神殿ではなく、その隣の『治療館』と呼ばれる建物で行われた。病院を思わせるような白く四角い建物の中、や病気の内容、程度により、案内される場所が変わる。

 寄付については、両目で金貨一枚と最初に言われたので、金貨一枚に数枚の銀貨を足してお願いした。

 かなり緊張したが、治療館の案内人には、眼鏡からの視力を戻すのは簡単だと笑顔で言われた。

 実際、待ち時間は二時間半と長めだったが、神官の施術は両目わずか五分で済んだ。

 それ以降、子供の頃以来のすっきりした視界である。

 帰りは乗合馬車に乗らず、風景を楽しみながら、ゆっくりと中央区まで歩いてきた。


 今日は商会の開設記念に、一人でおいしいご飯を食べに行く──ダリヤはそう決めていた。

 ここ数日、婚約破棄だの、血だらけの騎士との遭遇だの、自分の商会起こしだのと、ダリヤの平和的日常は崩れまくりである。

 今日はおいしいご飯を食べ、帰りに面白そうな魔導具関連の本と甘めの赤ワインを買って、家に帰る。そして、長風呂をしてからごろごろと本を読んですごし、明日からは魔導具制作に全力を注ぐ──ダリヤはそんな完璧なプランを心に描いていた。


 入る店で迷ったが、昨日ガブリエラとの話にあった、大通りの少しおしゃれな店を選んだ。

 こういったお店は初めてなので少しばかりドキドキしたが、気合いを入れて入る。

 ダリヤに明るく挨拶をしてくれた店員は、笑顔でテラス席へ案内してくれた。

 外のテラス席は、テーブルの横に大きな麻色のパラソルが設置されている。

 午後の陽光を柔らかくするパラソルの下、初夏のさわやかな風が吹くのは、とても気持ちがいい。

 店員から渡されたメニュー表を上機嫌で見つつ、どれにするか迷っていると、奇妙な感じがあった。

 少し離れたテーブルの人々の視線が、ひきずられるように道側へずれていく。それはその場の者達に次々と連鎖していった。

 不思議に思って道側へ視線を向けると、こちらに歩いてくる背の高い青年と目があった。

「……あ!」

 こういった偶然は、一体どのぐらいの確率か。

 ダリヤは相手が自分に気づかないであろうことを予想し、失礼にならぬように視線を外した。

 しかし、黒髪の青年は一切の迷いなく、まっすぐ隣にやってきた。

 相変わらず人目をひく美しい顔に、シルクタフタの白いシャツと、黒のトラウザースが嫌みなく似合っている。

「おくつろぎのところ失礼致します。もしかして、ダリさんのご家族の方……じゃなくて……本人?」

「……はい」

 先日、森で出会ったヴォルフだった。その黄金の目をうれしげに細め、自分を見つめている。

「よかった、本人で。あのときは、目がかすんでいて、よくわからなかったから」

「すみません。森で女一人はあまりよくないので、あの格好にしてました」

「いや、こちらこそ、いろいろと気を使わせて申し訳なかった。あの日は本当にありがとう」

 ヴォルフはダリヤが性別を隠していたことを怒らなかった。それどころか、会釈して丁寧に礼をのべてきた。

「あの……森でもわかっていました?」

「よくわからなかった。声は完全に男だったし。でも、帰りの馬車で、匂いが女性のようにも思えたから」

 匂い──身体強化魔法で嗅覚は強化できるのですか、そう聞きたくなるのをとりあえず我慢する。

「声は魔導具で変えていましたので。でも、ここでよくわかりましたね、私だと」

「目があったときのそらし方が不自然だった。あと目の色と気配かな。ぼやけてたけどそのすい色は同じだし、気配が似ていた。それで、もしかしてと思って近づいたら、匂いが一緒だったから、本人かなと」

「嗅覚、いいんですね……」

 香水もつけておらず、毎日お風呂に入っているのに、自分はそんなに匂うのだろうか。これについて、ダリヤは本気で不安になってきた。

「でも、ダリさんが女の人で、一応よかったかもしれない」

「なぜですか?」

「あの姿でも、ちょっとかわいいと思えたから、俺はもしかして、今までと違う方向に進みはじめたのかと」

「どの方向ですか!?」

 思わずつっこみを入れてしまったダリヤに、ヴォルフはにっこりと笑った。

「にぎやかな立ち話もなんだから、相席させてもらってもいいかい? 恋人と待ち合わせなら、日を改めるけれど」

 周囲の女性の視線がちくちくどころか、ぐさりぐさり痛い。知り合いに見られたら何か言われそうで面倒だが、これだけ視線を集めた時点で、もう手遅れな気がする。

「……どうぞ。一人で来ていますので」

 ダリヤはいろいろとあきらめてうなずいた。

「ありがとう。これから商業ギルドに行くところだったから、ちょうどよかった」

「騎士団のお買い物ですか?」

「いや、ダリさんを探しに」

「私ですか?」

「商業ギルドで該当する人がいないか、聞いてみるつもりだった。この前のお礼を言いたくて。やっぱりポーションの代金も支払いたいし、借りたコートも返したかったから。隊長に紹介状を書いてもらったんだ」

 危なかった。

 一人で森に行ったことへの注意から始まり、なぜ偽名を使ったのかと聞かれたかもしれない。ギルドの女性からヴォルフについて、根掘り葉掘り聞きまくられる可能性もかなり高そうである。

「この前のお礼に、今日は俺におごらせて。あと、ポーションの代金も支払いたい」

「ええと……」

「ああ、ナンパではないから安心して。『街で見かけたら声かけて。そうしたら、しっかりおごってもらうから』って、約束だからね。お礼をしたいのと、できれば前の続きで、魔剣とか魔導具の話ができればうれしい」

「……わかりました。じゃあ、遠慮なしでおごって頂きます」

「うん、そうして」

 騎士というものは、仕事的に義理堅いのかもしれない。ダリヤはそう思いつつ、シーフードスパゲッティとトマトの冷製スープを選んだ。

 ヴォルフは、鶏肉の香草パン粉焼きに、チーズとハムの盛り合わせ、スープはビシソワーズ、それに加え、少し高めの白ワインとグラスを二つ頼んでいた。

「ワイン、白でよかった? 苦手なら赤を追加するよ」

「いえ、白も好きです」


 ありがたいことに、この王都の食文化はかなり恵まれている。

 他国からは「食の都」と呼ばれているそうなので、この世界の中でもとりわけおいしいものがそろっている場所なのだろう。

 穀物は小麦がメインで、料理は前世の洋食系に近い。ほかにも和食そのものはないが、近いものならばある。また、魔物の肉なども出回っているので、ダリヤの知らない料理も多い。

 小さい頃から、父と月二回の外食に行くのが楽しみだった。二人で新しいメニューに果敢に挑戦し、敗北したときは、家で食べ直した。

 思えば、父が亡くなってからあまり外食に行く気になれず、新しい店を探すこともしなかった。

 今日がちょうどいい機会かもしれない。

 これからは誰に遠慮することなく、新しい店を探し、おいしい物を食べ、おいしいお酒を飲むのだ。


「森で会ったときは、こんなに美しい人だとは思わなかった」

「初回の会話前ご挨拶をありがとうございます。で、森が素顔です。今は化粧で作ってますので」

 父が男爵だったため、これは聞かされている。貴族男子というのは、原則、初めて話す女性に対し、本格的な会話前に一度はほめなければならないそうだ。

 ちなみに父は、貴族関係の集まり前後によく胃を痛め、胃薬を飲んでいた。

「……もしかして、ダリさんも貴族?」

「いいえ、庶民です。父が名誉男爵でしたので、社交辞令の挨拶は聞きました。会話前によく知らない女性をほめるって、大変そうですね」

「そうだね。ほめ忘れても、下手にほめても大変なことではあるね」

 雰囲気が少しばかりよどんだヴォルフに、なんとなく想像ができた。

 これだけの美形だ。誤解と曲解に巻き込まれたことも十回や二十回ではないだろう。


 話を切り替えようとしたとき、白ワインとチーズとハムの盛り合わせが届いた。

「まずは乾杯を。あと、チーズの皿はシェアしよう」

 グラスにはヴォルフがついでくれる。限りなく薄い金色の白ワインだった。

「では、再会を祝して」

「再会を祝して」

 カツンとグラスを合わせた。

 前世ではワインで乾杯というとき、グラスをぶつけてはいけなかったが、こちらでは、『魔をはらう』ということでグラスを必ずぶつける。ワインでもエールでも、他の酒でもだ。

 ちなみに、一人で飲むときは酒の瓶にグラスを合わせる。

 ガラス屋の策略ではないかと真面目に考えたが、農家の木のコップや、貴族の銀のグラスでも必ずやるそうである。

「どう?」

「おいしいです」

 飲んだ白ワインは少し辛いが、渋みはなく、しっかりとブドウの風味がある。ダリヤの好みの味だった。

「よかった。森で飲んでいるとき、なんだか赤ワインの方が好きそうだったから」

「普段は赤の方です。甘い方が好きなので」

「じゃあ、次は赤の甘いのを頼もう」

 昼間から、一本目のワインを開けたばかりで二本目の話をしている。

 早すぎないかと思う心とは裏腹に、飲み心地のいいワインはついと喉を過ぎていく。

 その後に料理が運ばれてきたので、食べながら話すことにした。

「目の方は、もういいんですか?」

「おかげさまで、はっきり見えるよ。念のため、しばらく大人しくしていることになったけど」

「あの、もしかして始末書の件が……?」

「いや、純粋に休暇。ありがたいことに、始末書も出さなくてすんだよ」

「それはよかったです」

「でも、隊の仲間が二日間ほど探し回ってくれてたから、復帰したら酒をおごらなきゃと思ってる」

「やっぱり、今日は割り勘にしませんか?」

「それに関しては全力でお断りするよ。討伐隊ってそれなりに給与は出ているから大丈夫」

 話しながら、シーフードスパゲッティを口にする。小さめに切られたシーフードに、塩と香辛料で強めに味がついている。汗ばむ季節によさそうな味だ。

 王都は海が近いので魚介類はそれなりに入ってくる。

 ただし、前世と違い、似た種類でも様々な大きさがある。つるされたイカが二メートルほどあったり、拳大のエビ、三十センチ近いホタテがあったりするので、実物を見ないで注文するときにはかなり気をつけなければいけない。

 トマトの冷製スープの方は思ったより甘めだった。それでもバジルの風味も効いていて、さっぱりとしたいい感じだ。こちらも夏にあう味である。

 ヴォルフは、鶏肉の香草パン粉焼きをきれいに切りわけ、ワインと交互に口に運んでいる。満足げな表情を見る限り、おいしいようだ。

「よかったらこちらもどうぞ」

「ありがとうございます」

 ワインと共にチーズとハムの盛り合わせの皿をすすめられた。

 皿の上、なんだか妙に赤に近いチーズが二つある。カットされた面も赤いので、コーティングされたものではなさそうだ。前世でもここまで赤いチーズは見たことがない。

「この赤いチーズ、初めて見ました」

紅牛クリムゾンキャトルだね」

紅牛クリムゾンキャトル、ですか?」

「ああ。隣国で、牛の魔物を家畜化させたものだよ。赤と白のまだらの牛で、牛乳もピンクらしい。最近人気があるらしいよ」

「一つ頂きます」

 食べてみると、意外に硬めだ。味はミモレットチーズに似ているが、一段甘くて味が濃い。

 これは白ワインより赤に合いそうな味だ。

「このチーズに追加で頼むなら、やっぱり赤かな……」

 ヴォルフが同じことを考えていたので、つい笑ってしまった。


「借りたコートだけど、お父さんに怒られなかった?」

「大丈夫です。父はもう亡くなってますから」

「申し訳ない、形見を貸してもらっていたなんて」

「いえ、今は私が時々雨よけにしているくらいなので。飾っておいても仕方がないですから」

「洗いの業者に出してから返すよ。その、砂蜥蜴サンドリザードじゃなくて、裏がワイバーンだとは思わなくて」

「クリーニングなら家でできるので気にしないでください。あと、ワイバーン素材の余ったのを貼り合わせて、定着させただけですよ。よく父がひっかけてくるので、補強に貼っただけなので」

「補強でワイバーン……」

 ヴォルフが口を少し開けてこちらを見ている。

 ワイバーンといっても、廃棄用素材をさらに細切れにし、ブルースライムの粉を少し混ぜ、薬剤と魔法を使って定着魔法をかけただけである。大きいワイバーン皮を貼るのでは高すぎるからだ。

「ええ、ワイバーンでもほとんど廃棄用の素材です。肘の裏とかは定着が甘くてぼろぼろなんですけど」

「ダリさんて、もしかして服飾か素材関係のお仕事?」

「すみません、きちんと自己紹介していませんでしたね。ダリヤ・ロセッティと言います。駆け出しの魔導具師です」

「魔導具師か。道理で魔導具に詳しいわけだ。俺は防水布の話を本職にしてしまっていたのか……恥ずかしいな」

 青年は片手で顔半分を隠す。そんな仕草までもいちいち絵になるのに感心してしまう。

「実際に使っているお話が聞けてうれしかったです。防水布を制作したのが自分ですから」

「防水布を、ダリヤさんが?」

「はい。お話を伺ったので、次にもっと風通しがいい、軽いものを作れたらと思ってます」

「ありがたい。そうなったら野営が楽になる……神よ、ダリヤ・ロセッティとの出会いに心よりの感謝を」

「やめて」

 突然、両手を組み、目を閉じて祈りはじめたヴォルフに、思わず素でつっこみを入れてしまった。

 本日二度目である。

 目の前では、悪戯いたずらが成功した子供のように笑っている青年がいる。見た目と行動がまったく合っていない。一緒にいて、ペースが乱されているのか巻き込まれているのかがわからない。

 それともワインが思いのほか回っているだけなのだろうか。


「そろそろワインがカラだね。追加で頼もうか」

 店が少し混んできたせいだろうか、店員がなかなかテラス側に来ない。

「ちょっと追加を頼んでくるよ」

 自分が行くとダリヤが言う前に、ヴォルフが立ち上がっていた。

 騎士団の上下関係で慣れているのか、女性に関して慣れているのかは、あえて考えないことにする。

 おいしいご飯とお酒。テンポよく話せる相手。

 ゆるりと吹いていく風がなんとも気持ちよかった。


 ・・・・・・・


「……ダリヤ?」

 残念ながら覚えのある声がした。

 気分のいい自分の名を呼び捨てたのは、会いたくない男ランキング第一位だった。目を見開き、あきれたようにこちらを見ている。

 ダリヤは気がつかなかったことにして、ついと視線をずらした。

「ダリヤさん!」

 声と共に駆け寄ってきたのは、トビアスではなく、まさに小動物のような少女だ。

 明るい蜂蜜色のふわりとした髪、少し下がり気味のやわらかな茶色の目。背は低めで、細身の肢体がより欲をかきたてそうである。

 化粧をほどこされた、少しあどけなさの残る顔は、男達の視線をひく程度にはかわいい。

「ごめんなさい! あなたを傷つけてしまって。私、ずっと謝りたくて……」

「エミリヤが悪いわけじゃない! 俺が悪いんだ」

 周囲の視線が一斉にこちらに向く。ダリヤの気分的不快指数が一気に上がった。

 なぜ、知らぬふりで素通りしない?

 なぜ、わざわざここでそれをやる?

 目をうるませて謝る少女に、気持ちがまったく動かない。興味もわかない。

「私のせいでダリヤさんに婚約破棄をさせてしまって、本当にごめんなさい!」

「終わったことですから」

 謝罪はしているが、これはむしろ言葉に出して周囲に説明と宣伝を行い、傷口をえぐってくるというスタイルではなかろうか。真面目にそう思える。

「本当にごめんなさい……どうか、許して……」

「ダリヤ、エミリヤを責めないでやってくれ」

 ダリヤが答えた『終わったことですから』の一文十文字。

 このどこに責める部分があったのかを、ぜひ教えてほしい。

 なんなら高等学院の頃の論文専用用紙に書いて、詳しく解説してもらってもかまわない。


 自分がこの二人に時間をとられる意味も必要性もなさそうだが、ヴォルフに迷惑がかかるのは困る。げんなりしながらそう考えたとき、彼が戻ってきたのがわかった。

 トビアスとエミリヤだけではなく、周囲の視線が、ダリヤの後ろから歩いてくる彼に向かって、すうっとずれる。

 視線をひく程度ではなく、視線も声も奪っていくほどの美形なのだから仕方がない。

 その持ち主が、背後から、ダリヤだけに聞こえるささやきで問いかけた。

「未練は?」

「全然」

 短く、最小限の声で返した。


「……ダリヤ嬢。婚約破棄をなさっているなら、今はお一人ということですね」

 ヴォルフはダリヤの真横に立ち、急に口調を変えた。

 売られている絵画のような笑みを浮かべると、雰囲気が一気にさん臭い芝居の王子になった。

「幸運の女神に心より感謝を。ダリヤ嬢には以前からお食事をご一緒にとお願いしていたのですが、一度も受けて頂けなくて残念に思っておりました。今日、お一人になったときに再会できたことを、心よりうれしく思います」

 独特の言い回し、砂糖菓子のその上に、たっぷりと蜂蜜をかけたような甘すぎる声。

 ダリヤの顔は引きつり、背筋は思いきり冷える。

「ダリヤ、そっちは?」

 トビアスが眉をよせて尋ねてきた。もう、名を呼び捨てにされる覚えも、同席者を聞かれる筋合いもないだろうと思ったが、自分が答える前にヴォルフが答えた。

「王城騎士団所属のヴォルフレード・スカルファロットと申します。そちらは?」

「っ」

 ダリヤの方が驚きに声を飲み込んだ。

 何が下位貴族だ。

 スカルファロット伯爵家の名を、王都で知らぬ者はない。

 二十数年前、王家による「水の大改革」において、スカルファロット家は、水の魔石の大量生産体制を自分たち一族のみの力で確立した。それにより、子爵から伯爵へと上がったという。

 初等学院の歴史の教科書にまで載っている、輝かしい功績だ。

 スカルファロット家は、現在も、水の魔石の安定供給から下水の浄水までを担っている。

 水魔法に関しては王都随一、次世代では伯爵から侯爵に上がるとうわさされているほどだ。


 トビアスもエミリヤも、表情が完全に固まった。

「た、大変失礼しました! トビアス・オルランドと申します。オルランド商会の者です」

「わ、私は、エミリヤ・タリーニと申します。オルランド商会の受付です」

「そうですか」

 ヴォルフは一言返しただけで、あとは二人に言葉をかけず、視界にも入れなかった。

 ただ優雅にダリヤに歩みよると、その手のひらを差し出す。

「ダリヤ嬢。空気も変えたいですし、おすすめのお店にご一緒しては頂けないでしょうか? お話ししたいことがたくさんあるのです」

 食事は三分の二ぐらいしか終わっていないが、せっかくの茶番脱出のお誘いである。

 完璧な動作で差し出された手に、ダリヤは迷いなく手を重ねた。

「ええ、喜んで」

 ヴォルフの手は、あたたかだった。


 ・・・・・・・


「先ほどはありがとうございました」

 店を出て少しだけ歩いたところで、ダリヤはヴォルフに礼を言った。

「いや、礼はいらない。あの場を切り上げたかっただけだから。ただ、さっきの俺の対応で、君の仕事や生活で不利になることはある? もしあれば──」

「いえ、まったくありません。ただ、あまりにすらすら言われたので、驚きました」

「でも、うそは言ってないよ。城門で飲みに誘ったけど流されたし。馬車が来たとき『また話したい』とも言ったんだけど」

 後ろから馬車が来たとき、聞き取れなかった青年の言葉は『また話したい』だったらしい。

 同じ事を考えていたダリヤとしては、それがとてもうれしかった。

「すみません、雨で聞こえなかったんです。あと、男のふりでだますことになったのが申し訳なかったので……」

「その罪悪感は全部なしでお願いしたい。あのとき君が女性だとわかっていたら、俺は水浴びをせず、よけい目を痛めていただろうし、食事を味わうこともできなかっただろうし、白ワインも飲めなかったわけだから」

 ヴォルフは立ち止まり、少し眉をよせてダリヤを見た。

「ただ、その……一人でいたいときに、俺が無理に付き合わせてしまっただろうか?」

「いえ、ただの食事でしたから。婚約破棄といっても、父親同士が決めたもので、結婚前に、彼が『真実の愛』を見つけたそうなので」

「『真実の愛』……それ、俺にはまったく理解できそうにない」

「私もです」

 ヴォルフの呆れを隠さない声に、一度だけうなずく。

 世の中、こういった形で主張される『真実の愛』というものは、おおむね不評らしい。

「道理で、未練も全然ないわけだ」

「ええ、まったく」

「婚姻届を出さないうちでよかったと思うよ」

「はい、すでに心から思っています」

 ダリヤはうなずきつつ、本心から笑って言えた。


「正直、さっきのでおいしい酒が邪魔された気分なんだ。まだ話し足りないし、飲み足りないから、もしよかったら、もう一軒付き合ってくれないだろうか?」

 親しくもない男性、しかも貴族。

 今までのダリヤなら、婚約をしていなくとも、おそらく断っていただろう。

 わずかにうつむきそうになったとき、もっと話したいという気持ちが背中を蹴り上げた。

 顔をしっかり上げ、ヴォルフに答える。

「ええ、私も食べ足りなかったところです」

 二人は再度歩みはじめ、思い出したように、つないでいた手を離した。


 ・・・・・・・


 ダリヤとヴォルフは少しばかり長く歩き、中央区の南へ進む。

 ヴォルフのすすめで、庶民向けで酒の種類が多く、重めの料理も出るという店に向かった。

 赤い屋根の店に入ると、ヴォルフは店員に一番奥の個室を頼んだ。

 個室といっても三面は壁で、一面はついたてが立っているタイプだ。

「さて、今度こそしっかり食べよう。お酒はどれがいい? 赤ワインもいろいろあるよ。さすがにワインだるは勘弁してほしいけど」

 渡されたメニュー表がひどく厚い。この半分が酒だというから驚いた。

「ワイン樽……ありますね」

 メニューの一番後ろに、赤・白・ロゼと三種類のワイン樽があった。

「大人数のお祝い向けだね」

 こちらの世界では、庶民がドレスを着て結婚式をするという風習はない。

 親戚や友人と集まって、家や店で食事をして飲む、そういったパーティが、婚姻届を出してしばらくした頃の休みに行われることが多い。

 まあ、自分はそのイベントを体験することなく終わったわけだが。

「では、白エールでお願いします」

「じゃ、俺は黒エールで。食事はどうする? もしよかったらだけど、いくつか頼んで分けない?」

「そうですね、いろいろ食べられますし」

 店員が注文を取りに来たので、メニューを広げながら答える。

「エールの白と黒を一つずつ、魚介焼きの串セット二つと、豚肉と野菜のフリッターセット、蒸し鶏を。ダリヤさんは?」

「ポテトの黒コショウ揚げと、焼きそら豆をお願いします」


 店員が去っていくと、ヴォルフが一度椅子に座り直した。

「すまない。盗聴防止にこれをかけさせてもらっていいかな?」

 ポケットから取り出されたのは銀色の小さなさんかくすい。貴族や大きい商人が使う、盗聴防止の魔導具だ。

「どうぞ。ただ秘密にするような話は別にしないと思いますが」

「俺の場合、秘密の話をするとかじゃなくて、隊の友達と気軽にしゃべりたいときに使ってる」

 ヴォルフが手をふれると、銀色の三角錐が淡く青く光った。

「先にお願いがある。俺が万が一つぶれたら、王城の兵舎に着払いで送り馬車を頼んでほしい」

「わかりました。私がもし動けなくなったら、西区の緑の塔に送り馬車をお願いします」

 つぶれること前提かと言いたくなりそうな話だが、親しい仲ではないのでこれは必須だ。

 家がわからなければどこに送り届けていいかもわからない。商店街や繁華街の近くにはタクシーのような仕組みの『送り馬車』があるので、それで家に送ってもらった方がいい。

「俺、酒でつぶれた経験はまだないんだけど。ダリヤさんは?」

「つぶれたことはありませんが、度を超して飲んだこともありません」

「どの程度まで飲んだことがある?」

「とりあえず、赤ワイン四本飲んで普通に仕事はできました」

「それ、一般的には十分、王蛇キングスネークじゃないかな?」

 王蛇キングスネークとは、前世で言う、ウワバミのたとえである。

 王蛇キングスネークは砂漠の魔物の一種で、アルコールの匂いでおびき出せ、しかもいけるクチらしい。大きなつぼに酒を入れておくと飲み出すので、泥酔したところを捕まえると聞いたことがある。

「それを超えて飲んだことはあまりないので。ヴォルフさんはどのぐらいですか?」

「とりあえず、白ワインで桁上がりまで平気なのは経験済み」

「桁上がり……完全に大海蛇シーサーペントですね」

 桁上がりというのは、十本以上。

 大海蛇シーサーペントはウワバミより上。『基本、酔わない』人達を指す言葉だ。

 この世界、体質的なものの差なのか、魔法のせいなのかわからないが、アルコールにとても強い人が多い。ダリヤ自身も前世よりずっとアルコールが飲めるようになってはいるが、この世界においては酒に強いとはとても言えない。

「騎士団は大海蛇シーサーペントが、うようよいるから」

「その方達におごるのは大変ですよ。やっぱりこの店は割り勘にしましょう」

「なんだかやぶから蛇が出てきたようだけど戻させてもらうよ。ああ、もし君が樽酒を飲むなら割り勘にしよう」

 なんとしてでも今日はおごってくれる気らしい。ダリヤは素直にお願いすることにした。


「では、改めて再会を祝して」

「再会を祝して」

 酒と料理が届きはじめたので、最初にエールで乾杯する。

 冷えたエールの白は味が薄めだった。それでも、ホップの香りがとてもよく、わずかな苦みとともに、喉にさわやかな流れを残して過ぎていく。炭酸は少なめだが、それもこの酒の味にちょうどいい気がする。

 黒エールを飲んだヴォルフの方は、乾杯で一杯目のコップをすでにカラにしている。瓶の中身もすぐなくなりそうだった。

「さて、遠慮なしで話してほしいっていうのは難しい? 盗聴防止をかけておけば、周りに聞かれる心配もないし」

「伯爵家の方を相手に、さすがにまずいのではないかと……」

「俺、スカルファロット家に名前だけはあるけど、一番末の子供で、家から護衛も尾行もつかないくらいには放任されてる。母は身分なしの第三夫人で俺は別邸育ち、今は兵舎暮らし。だから、かしこまったのは苦手なんだ。ダメかな?」

 黄金の目が、わずかにうるんでこちらを見ている。

 これだけの美青年を前にして、前世で飼っていた中型犬を思い出すのはなぜだろうか。

「……わかりました。私は庶民で貴族的な礼儀はわかりませんし、それなりに楽に話させてもらいます。で、この盗聴防止の魔導具って、どういう作りです?」

「城の魔導師は、音に音をかぶせて相殺させるって言っていた。会話全部じゃないけど、不規則に音がなくなるから、離れていれば聞き取れないって。さすがに隣のテーブルとくっついている場所とかじゃ不自然で使えないけど」

「なるほど。読唇術にも対応できないわけですね」

 完璧な盗聴防止ではなく、あくまで自然に聞きづらくするだけのようだ。

「あれ、ダリヤさん、もしかしてそっちの仕事もあるの?」

「そっちがどっちかわかりませんが、私は商業ギルドで生活関係の魔導具だけですね。ドライヤーとか、防水布とか。盗聴防止の魔導具というと、おそらく魔導具師より魔導師のはんちゅうなので」

「そういうものなんだ。こういう魔導具は、ほとんど魔導具師なのかと思っていたよ」

 できたての焼きそら豆を半分ずつ分け、エールを飲みながらつまむ。熱くてむくのは少し手間がかかるが、ほくほくと香ばしく、後味はふわりと甘い。焦げ目があり、塩を多めにふられた焼きそら豆は、前世と共通の味だった。


「ヴォルフさん、さっきとても雰囲気が変わったので、驚きました」

「話を打ち切るのに多少使えるかなと思って。あれが貴族らしくしているとき。もしかして、ああやって話す方がいい?」

「やめてほしいです。私としてはこう……全力で遠ざかりたくなります」

「よかった。地がこれだから続けていると疲れるんだ。見た目ももっとこう、性格に合った大雑把な感じになりたかったのだけど」

 一般男性が聞いたら、全力で抗議されそうな台詞である。

 だが、美形には美形の悩みがあるのは本当だろう。

 ダリヤが学院の頃によく一緒にいた友人も、美しい容姿のおかげでなにかと苦労していた。

「声をかけられることは多そうですね」

「今日、兵舎からあそこまでで三回つかまった」

「歩くのも大変ですね……」

「一人で歩くときはフード付きマントを着ているか、眼鏡をかけてる。今日は、その……もしかしたら、君が見つけてくれないだろうかと思って、わざと目立つつもりで歩いていた」

「すみません……少なくともきちんと名乗って、商業ギルド経由で連絡がつくようにしておくべきでした」

「こっちこそ情けない話ですまない。君を責めてはいないし、本当にもう一度話したかっただけなんだ……」

 ヴォルフは片手で頭をかいた。

「せっかくの再会なんだ、切り替えて、食べよう」

「ええ、そうですね」

 魚介焼きの串セットを半分渡されたので、順に食べていくことにする。

 大きめのエビ、小魚、ホタテ、そしてクラーケンだった。どれも塩焼きである。

 くるりと丸いエビは、身がぷりぷりとしており、拳ぐらいの大きさで、かなり食べ応えがあった。

 魚は丸ごとでシシャモと少し似ているが、色は真っ赤である。魚の白身の甘さと、内臓のほろ苦さがなんともいえない。もしかするとこれも魔物系なのかもしれない。

 ホタテはそれなりの大きさだが、焼いても甘みが強く、柔らかかった。

 不思議なのはクラーケンだった。

 魔物であるクラーケンは、定期的に漁師とようへいが大型船団で捕獲するので、安く大量に出回る食料であり、素材である。

 食べやすく切られているのであくまで部分だが、見た感じ片面に少し赤茶色があり、タコっぽい。しかし、食べてみると歯ごたえがあり、香ばしいイカという感じだ。

 クラーケンは臭みがあると言われるが、ここのは処理がいいのか調理がいいのか、まったく気にならない。

「クラーケンってタコとイカ、どっちに近いのかと悩んだことはありませんか?」

「ああ、見た目はタコ、味からするとイカに近いかな。これだけ食べているとわからないけど、一匹で何人前あるかを想像すると、すごいよね」

「そうですね。この季節ですし、氷魔術の魔導師さんを全力で応援したいです」

 クラーケンの大きさにもよるが、倉庫数個分にはなるだろう。海でもある程度は解体するが、市場に流すためにはさらに細かくしなければならない。

 真冬以外は氷魔術の使える魔導師が倉庫に氷を出しまくり、冷蔵庫状態にして解体する。高等学院にいた頃は、氷魔術の使える学生がそれをいいバイトにしていた。

 続けて、フリッターのセット、ポテトの黒コショウ揚げを食べつつ、追加のエールを頼む。今度は二人そろって赤エールにした。

「……本当に赤い」

「赤大麦を使っているからだね」

 ルビーのようなその美しい色合いを、ついグラスの角度を変えて眺めてしまう。

 飲んでみるとかなりフルーティーで、炭酸が強めだった。油物にはとてもよく合う味だ。

 特に、ざく切りにしたポテトを揚げ、塩とたっぷりの黒コショウをかけたものは、とにかく止まらなくなる組み合わせだった。

 そろそろ腰のベルト穴を気にした方がいいかもしれない。


「そういえば、魔導具の魔法付与は、通常一つまで?」

「ええ。普通、一個体に一つが基本です。重ねがけができるとしたら、腕のいい魔導師や錬金術師の領域です」

「高位の魔導師が複数かけるときにはどうするんだろう? ダリヤさんは聞いたことある?」

 ヴォルフは、頭のない丸ごとの蒸し鶏を、ついてきたナイフで縦に真っ二つにし、皿に取り分けながら言った。内臓は抜かれているが、なかなか豪快な料理である。

「たぶん、その魔導師や錬金術師ごとの秘密のやり方があると思うんですが、一度魔法付与した後に、魔法をはじかれない処理をして、その上からかけるとかになるんじゃないかと。その処理が魔法なのか、薬品なのかはわかりませんが」

「そうか。やっぱり簡単にはいかないんだろうな。この前の包丁の話を聞いて、討伐隊の剣に、硬質強化と洗浄がつけられればと思ったんだけど。あと、持ち運び時の軽量化とか」

「……ん?」

 ダリヤはじっと蒸し鶏をカットし終えたナイフを見た。

 しばらく額に手を当て、剣の形状を考えつつ、ヴォルフに尋ねる。

「ヴォルフさん、部隊で使っている剣の、つばと、さやって、交換するものですか?」

「ああ、普通にするよ。割れることもあるからね」

「思ったんですが、交換できるってことは、別個体扱いでは? 可能かどうかわからないですし、もうすでにやってダメだったのかもしれませんけど……分解して、刃に硬質強化かけて、つばに水魔法か風魔法で浄化機能つけて、刃をしまうときにきれいにして、さやに軽量化をつけてから組み立てるといったことはできないでしょうか?」

「それ……」

 黄金の目が大きく見開かれた後、その口元がきれいにUの字を描いた。

「できたらすごくいい。うちの部隊も楽になるし、完全に人工魔剣だよね!」

 どうやら、一番後が本音らしい。声が大きくなって、慌てて口を押さえている。

 魔剣を語るとき、彼は時々、子供のような表情になる。その目は好奇心と冒険の色に強く染まって、見ているとなんとも面白い。

「すまない、つい一人で盛り上がってしまった……」

「ヴォルフさん、魔剣が本当に好きなんですね」

「うん、魔剣とか、魔法付与した武器は夢があるから。自分では付与できないけど、考えていること自体が楽しい……」

「私も魔導具が好きで、新しいものを考えること自体が楽しいので、よくわかります……」


 この男と自分はこれに関してだけは似ている──ダリヤは理解した。

 そして、おそらくは目の前の男も理解したのだろう。黄金の目がひどく楽しげに笑っている。


「今日、まだ時間はいい?」

「ええ、大丈夫です」

「つくづく酒がうまくなりそうだ」

 ヴォルフはグラスの酒の残りを一気に空けた。

「とりあえず、蒸し鶏を食べながら話しましょう」

 二人そろって、話しながら蒸し鶏を食べはじめる。

 冷めてしまったが、身はしっとり柔らかく、口の中でのほぐれる感触もいい。臭みはまったくなく、そのままでも、タマネギと香辛料で作ったソースをかけてもおいしかった。

「お酒の追加をしようか。俺はアクアビットに氷で頼むけど、何にする?」

「アクアビットって、どんなお酒ですか?」

「ジャガイモの蒸留酒だよ。キャラウェイとかで香りが少しついてて、飲みやすい」

「じゃあ、同じでお願いします」

 ヴォルフが注文しに行き、店員がすぐに瓶とグラス、アイスペールいっぱいの氷を持ってきてくれた。


「じゃあ、新しい酒でも乾杯を。ありきたりだけれど、明日の幸運を祈って」

「明日の幸運を祈って」

 よくある乾杯の言葉をかけあい、本日三度目の乾杯をする。

 氷を入れて冷やしたアクアビットは、マイルドで飲みやすい。味もいいが、喉に流す瞬間、キャラウェイの緑の香りがすうと抜けるのがたまらない。

 しかし、これは飲みすぎるといきなり膝にきそうな強さである。

「……失礼を覚悟で言うんだけど、ダリヤと呼ばせてもらってもいいだろうか? 俺はヴォルフと呼んでもらいたいのだけど」

「呼ばれるのはかまいませんが、呼ぶのは難しいです。私は庶民なので」

「わかった。『市井で対等なる友人として扱うために』とかで、何を言っても不敬にしないという内容の書類を、公証人を入れて書くよ」

 なんという恐ろしい冗談を言うのだ。

 こんなことに貴重な公証人を使えるわけがないし、ついでに問題の意味合いが微妙に違う。

 主に女性、次に伯爵家などの貴族、次に仕事に影響するのが怖いのだ。

「しかしですね」

「俺は、四男末っ子で母は男爵家出身。母はもういないし、母の実家も平民に下がって後ろ盾なし。スカルファロット家なのに水魔法どころか、五要素魔法も使えない。いずれは貴族籍を抜けて市井に出る予定。だからその準備とでも言えば通るよ」

 五要素魔力とは火魔法・水魔法・風魔法・土魔法・治癒魔法のことである。

 貴族では基本的に重要視されやすい魔法だ。

「どこかの貴族の家に、お婿さんとして入るんじゃないんですか?」

「子爵以上の貴族で五要素魔力がないのは、決定的にダメだね。結婚そのものはいいけど、後継には養子か、別の男の子供が必要。五要素魔力がないと家が継げないところが多いから。婿に行っても飾り物にしておかれるのが目に見えている。ああ、中には娘が生まれるのに期待するっていうのもいるね、次世代にたま輿こしを狙わせるとか」

「私の知らない世界でした……」


 それからヴォルフに話を聞いたが、貴族籍から離れるということはそれなりに多いのだそうだ。

 高位貴族では、長男か優秀なものが跡取りとなり、スペアとして一人は残される。それ以外は、基本、婿に行くか庶民に下る。

 女性は玉の輿のケースもあるが、やはり貴族に嫁に行くか、裕福な商人や、役職のある市民に嫁ぐことがほとんど。貴族の全体数は増えるわけではないので、そうするのが基本だという。

 父は名誉男爵だったが、一代限りであり、自身は庶民のダリヤには知らないことばかりだった。

「貴族の方も大変なんですね」

「気楽でいたいから、既婚婦人の愛人という人もいるね。うちの国は一夫多妻も一妻多夫もあるけど、旦那さんの方と違って、夫人が第二夫、第三夫というのは少ないから、ツバメという形の方がはるかに多い」


 ちなみに、今世で驚いたことの一つに結婚の制度……この場合は婚姻届だが、その違いがある。

 この国では、役所に出す婚姻届は、一夫多妻・一妻多夫・同性婚などが普通に認められている。

 もっとも、庶民は一夫一婦が最も多く、裕福な商家などで一夫多妻が次に多い。

 貴族で、一夫多妻の他、一妻多夫があるのは、希少魔力の受け継ぎのためや、後継者、あるいは領地や財産を守るといった意味合いからくるものらしい。

 貴族は一見、華やかだが、実情はなかなか大変そうだ。


「話がおかしい方にそれてすまない……」

 二人のグラスにアクアビットをなみなみとぎ足しながら、ヴォルフが苦笑した。

「ねえ、ダリヤ。もし隊の剣を持っていったら、さっきの魔法付与を試せる? もちろん、かかる費用も手間賃も言い値で払うよ」

 いつの間にか自然に呼び捨てにされているが、不思議と不快感はなかった。

「名前の方は……とりあえず、二人でいるときだけならいいです。で、魔法付与は失敗すると使い物にならなくなるので、まずは安い短剣あたりからこっそりやりましょうか、ヴォルフ」

 ダリヤの返事に青年は一度だけ黄金の目を見開き、そして、光がこぼれるように笑った。

「ああ。どうぞよろしく、魔導具師ダリヤ」


 ・・・・・・・


 アクアビットの瓶を完全に空にし、二人は店を後にした。

 ちょうど夕暮れから夜へと変わりつつある時間だ。

「送り馬車を呼ぶよ」

「いえ、酔い覚ましに歩いて帰ります」

 初夏のこの時期、夕食の時間帯であれば、のんびり歩いて帰るのもよさそうだ。幸い、今日のダリヤはパンツスタイルなので、歩くのも楽である。

「じゃあ、家近くまで送らせて。家に入れろとかは言わないから」

「西の城壁に近いので距離がありますし、王城とは方角が別ですよ?」

「この時間でも、女性の一人歩きは危ないよ」

 ヴォルフは真面目に心配してくれているようである。ダリヤはごそごそとバッグをあさった。

「お気遣いありがとうございます。で、この腕輪、護身用の氷結フリージングリングです。これをつけていくので大丈夫です」

「それって、氷の魔導具?」

「ええ。市販で出回っているタイプだと、人の手足くらいが凍ります。私のはちょっと強度をあげているので、二、三人ぐらいならほどほどに凍ります」

 氷結フリージングリングは、魔導具師仲間が作ったので、本人の許可をとって自分用に作り変えてみた。

 結果、引き出し一段が凍るくらいの出力が、軽く大型冷蔵庫一台ぐらいまで出せるようになった。

 基本、魔導具の能力として、最大値と限界値を一度は確認したいダリヤである。

 ドライヤーを作るつもりで、火炎放射器を作ってしまった過去を思い出し、己に納得したのは内緒だ。

「なるほど。氷で足止めして、その間に逃げるっていうことか」

「衛兵を呼ぶか、ご近所に駆け込むか、氷が溶けるまでには時間がかかりますからね。ちなみに、凍ったところを殴ると砕けます。襲われかけた女性では、二度と痴漢ができないようにバリッといった人が何人かいると聞きました」

「うわぁ……」

 思いきり笑顔で言ってみたら、何かいろいろと想像したらしいヴォルフが顔をふるふると横に振っていた。

 以前の彼の『春のコート発言』のお返しができた気がして、ダリヤはさらに笑う。


 この王都は、かなり治安がいい。

 それでも、女性が夜の一人歩きをするのはさすがに危ないので、送り馬車を使うことがほとんどだ。

 他にも、氷結フリージングリングを持ったり、護衛術を習ったりする者もいる。

 魔導師の女性を丸腰だと思って襲い、犯人が半焦げにされたなども聞く話だ。

 なお、この国では、強盗や痴漢で捕まった犯人は、怪我があれば簡易治療を受けた後、犯罪奴隷として荒野開拓や鉱山へ回される。厳しい場所で死ぬまで働かせられる、貴重な労働力だそうだ。


「ダリヤを送るのではなくて、歩きながら話したいという理由ではダメだろうか?」

「こちらはいいのですが、ヴォルフはすごく遠回りになりますよね?」

「休暇で鍛錬してないからなまりそうで……このまま戻っても少しは動くつもりだったから」

 夕焼けがようやく赤を一筋残す道を、話しながら歩きはじめる。

 ところどころに設置された魔導具の街灯はまだついておらず、行き交う人の顔ははっきりと見えない。

「魔物討伐部隊の鍛錬って、やっぱりかなり厳しいんですか?」

「それなりじゃないかな。ひたすら走って、腹筋とか腕立てとか一通りして、剣ややりで打ち合いしての繰り返し。時々、魔導師にふっとばされる」

「最後に不穏な言葉が聞こえてきたんですが……」

 走るのも打ち合うのも訓練だろう。が、魔導師にふっとばされるというのは何なのか。

「魔物で炎を吐いたり、風を起こしたりするのも多いから、その想定訓練。魔導師数人がかりで大きい魔法を当ててもらって、回避したり、向かってみたりだね。そのまま医務室送りになったりするのもいるけど。でも前もって練習できるのはありがたいよ」

「想定訓練でしたか。ちなみに、今までの討伐で、一番大変な魔物ってなんでした?」

「やっぱりワイバーンかな。とにかく、翼のあるヤツは厄介だね。飛ばれるとそうそう追いかけられないから」

「大きい魔物も、大変じゃないですか?」

「ほどほどなら大きさはあまり気にならないよ。むしろ当たる面積も大きいし」

 なんだか、恐ろしい魔物が良いまと扱いされているのは気のせいだろうか。

 そして、その『ほどほど』とは、どのぐらいの大きさなのか、知りたいような知りたくないような微妙な気持ちになる。

「ああ、大変だと言えば、おお百足むかでとか足の数が多い魔物、あれはどう進むか、どこから来るかわからないから嫌だ」

「それ、見るだけでも私は避けたいですね……」

一つ目巨人サイクロプスなんかは、腕二本足二本は固定だから、追いかけられてもければそんなに危険じゃないし」

 ヴォルフは簡単そうに話しているが、それは普通の人には絶対に勝ち目のない鬼ごっこである。

 本当に魔物討伐部隊の人達はすごいとしか思えない。

「今日は全部おごってもらいましたし、やっぱりポーションの分はいいです。魔物討伐部隊って本気で大変そうですから」

「また藪から蛇を出してしまったみたいだけど、戻しておく。剣の付与もお願いしたいから、むしろ『全力で貢ぐがよい』ぐらい、言っていいよ」

「そんな縁のない言葉は言いません!」

 本日何度目のつっこみになるのか。

 この先の会話でも続きそうなそれに、ダリヤは数えるのをあきらめることにした。


 ・・・・・・・


 結局、いろいろと話しながら一時間近くかけ、塔の前まで送ってもらった。

 すでに白い月がはっきり見えるほど暗くなっている。

「ここなんだ。遠征で西門から出るとき、遠目で見たことがある。魔法使いが住んでいるのかと思ったら、ダリヤの家だったんだね」

 塔を目にしたヴォルフが、不思議そうにまばたきをした。

「ええ、『緑の塔』って言われています」

「なんだか、魔導具師らしい家だよね」

「そうですね。昔、このあたりが王都の外壁だった頃があって、それを壊すときに祖父が石をもらって造ったそうなので」

「研究のためとか?」

「いえ、祖父が魔導ランタンで火の魔石を大量に扱っていたことがありまして、市井でも安全に研究をするために造ったのが、この塔らしいです」

「そうか。火の魔導具を作るのに、木造はまずいよね」

「ええ、火事が怖いですから」

 実際は火事が怖いだけではない。

 そもそも、炎の魔石をちょっとまとめて加工するだけで、爆弾に似たものができる出力である。うっかり作り間違えると、ドライヤーが火炎放射器になるくらいだ。

 ただ、魔導具が兵器方面に進むということは、あまりないと父には教わった。

 その理由は『魔導師』の存在である。

 魔導師はその力の種類も威力も様々だ。たとえば、水魔法といっても、風呂いっぱいの水を出す者から、プールほどの水を出す者、氷を出す者、風魔法と複合してブリザードを起こせる者までいる。

 力のある上級魔導師は、ある意味では兵器のような存在だ。

 王国のパレードで、たった一人の魔導師が炎を打ち上げたのを見たときには本当に驚いた。巨大な炎のりゅうが空いっぱいに描かれるほどの威力なのだ。

 今が戦時ではなくて本当によかったとダリヤは思っている。


「ここだね」

 門の近くまで来ると、ヴォルフは足を止めた。

 その場で、持っていた革袋を渡される。中身には、ポーション分の大銀貨五枚に加え、さらに五枚入っていた。

「多いです」

「いや、それは食事代と馬車代。本当に助けられたんだから、お願いだから受けとって。でないと俺が隊からしかられる」

「……わかりました」

「ああ、忘れるところだった。もしよければ、明後日にコートを届けてもいいだろうか?」

「あ、はい」

「昼前に届けに来てもいいかな? もし時間がもらえるようならなんだけど、北区の魔導具屋を見に行くから、一緒に行かないかい?」

 北区といえば貴族向けのお店が並ぶところである。

 そちらの魔導具屋は父と数回しか行ったことがない。ここ一年は一度もない。

 もしかすると見たことのない魔導具が出ているかもしれない、そう思うとダリヤの胸が高鳴った。

 返事は反射的に声に出ていた。

「ぜひ、ご一緒させてください。お待ちしています」

「じゃあ、また明後日に」

 軽く会釈をし、ヴォルフは来た道を戻ろうとする。


「あ、少し早いですが、おやすみなさい、よい夢を」

 おやすみなさい、よい夢を──それはこの国で家族や友人に寝る前に言う、当たり前の言葉。

 ダリヤにそれを言われたことが意外だったのか、振り返った彼は、少しはにかむように笑った。

「……ダリヤも、おやすみなさい、よい夢を」

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