辿り着いた願い
山での騒ぎから、一夜明け。
初穂は、玖澄の部屋にて庭をぼんやり眺めていた。
昨日の出来事が現実であったと、どこか実感がない。
幸い火は大ごとになる前に消し止められ、村の人々は捕縛された村長を連れて速やかに山を下りた。
初穂は玖澄と共に屋敷へ帰ると、意識を失ってしまったのだという。
鳥の鳴き声で目がざめたら、そこは玖澄の腕の中だった。
手の色が変わる程に玖澄の着物を握りしめていたことに気付く。
多分、着物を握りしめて離さない初穂を起こすのを躊躇ううちに、共に眠ることになってしまったのだろう。
先に目が覚めていた玖澄と、おずおずと見上げた視線がぶつかる。
そして、どちらからともなく微笑みあった。
白妙は、昨日の騒ぎの場付近の小さな者達の様子を確かめてくる、と言って屋敷を出た。
自分も何かしなければならないのでは、と思う初穂だったが、玖澄達はまず休むようにという。
身体にとっても負担だったのは間違いないし、初穂が思っている以上に心にも負担だったはずだからと。
確かにそうかもしれない。
未だ現実なのかどうかとふわふわした感じがある。
衝撃だったのは間違いないのだ。
長らく瀬皓を苦しめ続けていた原因は、父の私欲だった。
父は初穂を利用する為に偽りを告げ、信じていたものが何処にもないものであったと知った。
衝撃だった。けれど初穂は今、不思議と静かな心持ちだった。
長く彷徨っていた闇の中から抜け出したような。暗い道を抜けて、明るい場所に一歩を記したような不思議な感覚がある。
縛るしがらみが全て消え、心が解放されたような感じすらある。
以前の初穂なら、衝撃に心が揺れ惑い、壊れていたかもしれない。
でも、今は。
初穂は寄り添って隣に座っている玖澄の顔を見上げる。
玖澄に出会い、自分を自分であるまま見てもらえることを知り、喜びを知った。
彼の願いに触れ、自分の願いを抱くことを取り戻した。
玖澄は先程から、庭の景色に目を遣りながら、何かを思案するような表情で黙している。
けれど、彼の手は寄り添う初穂の手を優しく握りしめていた。
手から伝わる温もりが、遠くを見つめているように見える玖澄の心が、確かにここにあるのだと教えてくれる。
初穂は言葉のないまま、静かに玖澄の横顔を見つめていた。
ややあって、初穂の眼差しに気付いた玖澄が初穂の方を向くと、ふわりと微笑んだ。
「どうしました?」
「何を考えているのかな、って……」
じっと見つめられて少し照れた風に笑いながら問いかける玖澄に、初穂は答える。
朝起きてから、玖澄はずっと何かを考え込んでいるのだ。
大切なことを、何度も何度も考えてはそれを為すべきか迷っている様子がある。
玖澄は僅かに逡巡していたが、初穂の眼差しを受け止めているうちに迷いが消えた。
初穂の手を握る手に力をこめて、やがて静かな声音でその決意を口にする。
「この山を、人から閉じようと思います」
「山を……?」
初穂は目を瞬き、問いながら玖澄を改めて見つめる。
玖澄の言う事がどういう意味なのかを、はっきりとは分かりかねている。
山を閉じるというのがどういうことなのか、何を考え悩み、その結論に至ったのか。
察することができるところはあるが、初穂は玖澄の口から聞きたかった。
玖澄は、初穂の眼差しから何かを読み取ったらしく、頷いてから語り始めた。
「元々、いつかはそうしなければならないだろう、と考えていた事です。今は閉ざされている瀬皓にも、何れは文明の波が訪れる日がやってくる」
初穂は黙ったまま、静かに玖澄の言葉を聞いている。
確かに、そうかもしれない。
瀬皓の村は今は閉ざされていても、何れ開かれる日が来ないとは言えない。
文明の波というものは、歴史の流れというものは、人の力では抗えないほど強いのだという。
ましてや、瀬皓を閉ざしていた原因である父は力を失った。
瀬皓がこの先どのような選択をするかは分からないが、今までのように閉じ続けていくことは無い気がする。
他の村々のように外からくるものに門戸を開き、受け入れ、変わっていくのだろうと思う。
頷きながら聞いている初穂を見つめて言葉を一度区切った玖澄だったが、すぐに再び口を開く。
その瞳には、僅かに悲しげな光が過っていた。
「人の作り出した灯りの元では。小霊達や、この山に住まうあやかし達は何れ追いやられ、死に絶えてしまう」
初穂ははっとして玖澄を見る。
人は文明を発展させ、夜をも圧倒する眩い光を手に入れたという。
今は瀬皓にないその光も、瀬皓が開かれたなら何れはこの地にやってくるだろう。
けれど、それはこの山に暮らす小さくて儚い者達にとってはつらいものなのだ。
人の生み出した明かりは、小さな者達をどんどん追いやり、小さな者達は住処を失い、消えていく。
そうして、人は何れ不思議の存在を必要としなくなり、その存在を忘れる日がくる――。
玖澄が寂しそうに語るのを聞いていた初穂は、やりきれない気持ちに胸が痛んだ。
人々を発展させ暮らしを便利にするものと、初穂が親しみを覚え慈しみを感じるようになった存在は何れ並び立たなくなる。
それがとても、悲しくて、寂しい。
「この山に住まう者達を守る為。そして、もう銀に惑わされる者が出ないように。この山を閉じます」
玖澄が山を閉じると決めるに至った理由は、人の生み出した明かりだけではない。
昨日、もう一つの理由に関わった騒ぎがあったばかりだ。
あの時の玖澄の言葉によるならば、銀の鉱脈はまだ幾つかこの山に存在しているという。
今は畏れでその気が起きなくても、落ち着いた頃に欲にとりつかれる人間が出ないとは言えない。
父のように、銀を求めて目が眩む人間が現れる可能性はあり得るのだ。
そして、そのような人間が山に押し入り切り開いた時、被害を受けるのは欲を出さなかった人間達と山に住まう生き物たちだ。
故に、玖澄は決めたのだ。山を、人から閉じると。
この山は、あやかしの世界となるのだ。
なら、と初穂の胸に生じた不安が急速に膨れ上がる。
それなら、人間の初穂はどうなるのだろう……。
初穂は浮かんだ懸念に顔を曇らせる。
どうすればよいのか、どうしたいのか。考えながら見つめていた時、玖澄は初穂を真っ直ぐ見つめた。
「もう、貴方を縛るものは何もありません」
静かで穏やかな声音で紡がれた言葉に、初穂の眼差しは揺れた。
元より、初穂が花嫁という名の贄として捧げられてきたのは、村を襲った災いを鎮める為。
その実は、父が山を更に開く為。新たな銀の鉱脈を探すのに、玖澄が邪魔だったが為。
元凶である父は捕らえられ、これから徐々に鉱毒による災いは鎮まり行くだろう。
それならば、初穂に課せられた役目はもう何もないのだ。
寄る辺ない子供のような表情になってしまっている気がする。
役目を終えたなら、初穂は。
「あなたは、どこにでも行けます。瀬皓に戻るのがつらいというなら、好きな場所に行けるように手配します」
初穂はやや呆然とした表情で、玖澄の言葉を聞いている。
もう瀬皓には戻れないだろう。
初穂に罪はないとしても、父の娘であることは変わらず、父の罪は親類縁者にも及ぶのは見えている。
家族にとって、恐らく初穂は自分達の暮らしを破壊した裏切り者だ。
いや、そうではない。そう思われていたとしても、いなくても、初穂が瀬皓に戻りたくないのだ。
もうあの場所には戻りたくない。
けれど、他の場所にも行きたくない。
だって、初穂は。
そんな初穂の心の裡には気付かない様子で、玖澄はあくまで静かに、穏やかに告げた。
「もう貴方は自由です、初穂さん」
「……嫌!」
――初穂の裡で、何かが弾けたのを感じた。
気が付いた時には、弾かれたように拒絶の意思を叫んでしまっていた。
目頭が熱くて痛い。
何故そのような事を言うのか、と顔を歪めた初穂は一度唇を噛みしめてから玖澄を改めて見た。
初穂の叫びに驚いた様子の玖澄は、戸惑うと同時にどこか悲しげに感じる。
「玖澄は、もう、私とは居たくないの……? もう、要らない……?」
「いいえ! そんな訳がありません! 私は……!」
真っ直ぐに玖澄を見つめながら、初穂は声が震えそうになるのを耐えながら必死に問いを紡いだ。
いやだ、と首を左右に振りながら、切れ切れになってしまっても伝えようとした。
玖澄は本当に、自分にここから去るようにと言いたいのだろうか。
交わした言葉や通ったと思う心は、初穂の中だけの錯覚だったのだろうか。
そんなはずがない。そうであって欲しくない。
様々な感情が綯交ぜになった初穂に対し玖澄が返した言葉は、揺れる否定の言の葉だった。
否定するのなら、何故。
そう思えば、もう内側から溢れてくるものを止められない。
「それなら、何でそんな風に私を手離そうとするの!」
玖澄が打たれたように、目を見張る。
初穂の瞳からは、次から次に透明な雫が零れ、頬を伝っていた。
抑えようと思っても、落ち着こうと思っても、全く効果がない。
玖澄が自分と離れようとしている事が、悲しくて苦しくて堪らない。
小さな子供が駄々をこねているようだと思う。みっともないし、情けないと思う。
でも、そんなことよりも、玖澄と居られなくなるかもしらないという事の方が耐えられない。
玖澄の顔には、戸惑いの色が濃く浮かんでいた。
何かに耐えながら、逡巡しながら。絞り出すようにして玖澄は初穂に告げた。
「人として生まれた初穂さんに。人の中で過ごせば得られた時間を。……人間としての幸せを、失くして欲しくないのです」
かつて人であった玖澄。
友をその手で討ち、その罪ゆえに人ならざる者となった悲しい過去を持つひと。
玖澄の言いたい事は分からないでもない。
初穂がこのまま玖澄と暮らすなら、初穂は人の身のままであってもあやあかしの世界の住人となる。
人の世とは違う場所で、違う理の中で暮らす事になる。
そうなれば、もう本当に戻れなくなる。
人の世界で暮らせばごく当たり前に得られるであろう幸せは、そこには無い。
人として生まれながら人としての幸せを享受できなかった。玖澄だからこその言葉かもしれない。
けれど、と初穂は零れ落ちる涙を拭うことも忘れて叫んだ。
「そんなの要らない! そんなの、私の幸せじゃない……!」
人の世に戻り、何処かで穏やかに落ち着いた日々を送る。
それは確かに人にとっては幸せなことかもしれない。
だが、初穂にとっては違うのだ。
悲痛なまでの叫びに、玖澄は愕然とした表情のまま言葉を失っている。
哀しそうであり、寂しそうであり。
視線を僅かに逸らしながら、秘めた何かを悟られまいとしている。
初穂は感じた。
玖澄は、何かを隠している。明らかに心の裡にある何かを我慢している……!
ぴたりと初穂は動きを止めて黙り込んだ。
訝しげに、恐る恐る自分を伺う玖澄を感じながら、やがて初穂は静かに口を開いた。
「聞かせて。……私がここを出ていって、人として暮らしていくことが貴方の願いなの」
「私の願いは、貴方が誰に遠慮することもなく願いを抱き、叶えて、幸せになってくれることです……」
努めて落ち着いてあろうとしているけれど、玖澄の表情には隠しきれない苦痛が滲んでいる。
玖澄は、この期に及んでまだ人の為にあろうとしている。
願いをいだくことを思い出したのに、人の事を慮って自分の願いを口にすることを躊躇している。
初穂の頬を伝う雫はもう止まらない。
初穂は彼の『願い』に触れて抱いた、ただ一つの願いを告げた。
「それが貴方の願いというなら。私を、貴方の側から離さないで」
以前の初穂なら、自分を思って言ってくれている言葉を拒絶することはなかった。
心の中にどれほど哀しみがあっても、それを押し隠して受け入れただろう。
けれど、今は違う。
今まで、耐えて受け入れて、沢山のものを手から取り零してきた。
本当はほしかった幸せを、叶えたかった願いを見送り続けてきた。
でも、これだけは。
玖澄と共に在りたいという願いだけは、失いたくない。譲れない――!
「私の願いは、玖澄と一緒じゃないと、叶わないの……!」
誰に憚ることなく願いを抱いて欲しいというのなら。願いを叶えて欲しいというのなら。 そして幸せになれというのなら。
どれも、玖澄が居なければ無理だ。
だって、初穂の願いはただ一つなのだから。
初穂を幸せにできるのも、ただ一人なのだから。
「あなたと、一緒に居たい! これからの時間を生きるなら、玖澄と一緒がいい! 私に幸せになれというなら、貴方が私の手を離さないで……!」
初穂は、涙を零しながら全身で必死に訴えた。
人の世から離れたとしても。人ならざる理共に生きることになったとしても。
玖澄が初穂と共に居てくれるなら、初穂は幸せになれる。
こんな激しいものが自分の中にあるとは思わなかった。
いや、今まで無かったのかもしれない。
玖澄に出会って知ったこころであり、彼という存在に触れて生まれた想い。
今、初穂を突き動かすのは、玖澄を失いたくないという思いだった。
他の何を失ったとしても、玖澄だけは失いたくないのだ……。
伝わっているだろうか、と心配になりもした。
子供のようで呆れられているかもしれないと思いもする。
でも、伝えきれずに後悔するのだけは嫌だった。
「私が、私の為に生きていいというなら、絶対、貴方を離したくない……」
言い終えると、初穂は俯いてしまう。
言葉の終わりは、嗚咽交じりで掠れてしまっていた。
でも、初穂は己の中にあるこころ全てを伝えきった。
玖澄が逡巡しているような空気が伝わってくる。何を思っているのだろうと思うけれど、顔をあげてそこにある感情の色を確かめるのが怖い。
初穂も玖澄も、どちらも口を開けぬまま少しの時間が過ぎた。
長時計の針が時を刻む音だけが、やけに大きく響いている。
揺蕩う沈黙は、ずっと続くかに思われた。
けれど。
「私は」
静寂を破り、玖澄が口を開いた。
初穂は息を飲んで言葉の続きを待つ。
玖澄の出した答えを聞くのが怖い心と、聞きたいと願う心が相反する方向に初穂の心を引く。
玖澄が続きを紡ぐために息を吸った気配を感じて、初穂は唇を噛みしめた。
だが、続いたのは思わぬことだった。
温かで頼もしい感触が初穂を捉えているのを全身で感じる。
玖澄に抱き締められているのだと、一呼吸おいてから気付いた。
「私は……貴方と共に生きたいです。貴方と共に、ずっと一緒に居たいです……!」
愛しい温もりに落ち着きかけた涙が再び零れそうになっていた初穂の耳に、玖澄の切ない声音で紡がれた言葉が降って来る。
本当は離れたくなんかない。離したくなんかない。
ずっと傍に居て欲しいのだと、玖澄は初穂を抱き締めながら、堰を切ったように叫び続けた。
偽る事無く、隠す事なく。
本当の願いを口にしてくれた玖澄に、初穂の胸を温かなものが満たしていく。
この思いこそ、幸せと呼ぶのだろう。
そんなことを考えていた初穂の身体を捉えていた玖澄の腕が、不意に少し緩んだ。
どうしたのだろうと思いながら見上げた先には、玖澄の少し照れたような表情がある。
その瞳に宿る光は、ひたすらに真摯なものだった。
「初穂さん」
玖澄の紅い瞳の中に、初穂は自分の姿を見た。
真っ直ぐに見つめる初穂を見て、玖澄は優しく微笑みながらその言葉を告げる。
「私の……お嫁さんになって下さいますか?」
初穂は思わず目を瞬いた。
初めてあったあの祠で、花嫁かと問われた時には頷くことすら出来なかった。
祝言をあげたけれども、これは仮のものだと、何れ終わるものだという思いがお互いの中にあった。
距離は近づいても、心が通じるようになっても、どこか自分達を夫婦とは呼べぬままだった。
けれど今、改めて玖澄は初穂に願ってくれている。
改めて、夫婦になって欲しいと、彼の願いを口にしてくれているのだ。
初穂の瞳から再び涙が溢れ、目にした玖澄は慌てた様子を見せる。
違うのだ、と伝えたくて初穂は首を左右に振る。
これは先程までの様々な感情が綯交ぜとなった悲しい涙ではない――うれし涙だ。
喜びが雫となって形となり、溢れて止まらない。
だから、初穂はすっかり涙声になってしまっていたけれど、確りと自分の答えを口にした。
「不束者ですが、どうぞ末永く宜しくお願い致します……!」
本当は、三つ指をついてしとやかに続く言葉を言いたかったのだが、それは出来なかった。
感極まった様子の玖澄が、初穂を息が詰まる程強く再び抱き締めたからだ。
ありがとう、と切れ切れに聞こえる声は少しだけ潤んでいて。
それは私の言葉、と玖澄の背に両腕を回しながら、初穂は幸せそうに笑った――。
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