優しき日々を共に

 初穂が床から離れる事に出来るようになって、少しした頃。

 その日、玖澄と白妙は山に住まう他のあやかしの元を訪れ、屋敷を空けていた。

 好機、と思った初穂はかねてよりの計画を実行するべく台所に忍び込んだ。

 

 屋敷に帰った玖澄達がまず目にしたのは、慌てふためく小霊達の姿だった。

 皆が皆、玖澄を見ると背中を押すようにして台所へ連れていこうとする。

 玖澄が怪訝に思う間もなく、台所へ近づくにつれて異変が明らかになっていく。

流れてくる湯気に交じる焦げ臭さに、視界を遮るような煙。何かが起きているのはあまりに明白だった。

 玖澄が慌てて飛び込んだ先。

 もうもうと煙が上がる中、途方にくれた様子で初穂が立ち尽くしていた――。


「初穂さん、一体どうしたんですか……⁉」


 玖澄に続いて飛び込んできた白妙も、台所の様子を目にして唖然としている。

 煙が立ち込めているし、何やら焦げ臭い。

 玖澄が帰ってきたことを知ってしまった初穂の肩が、大きく跳ね上がる。

 暫く振り返るのを躊躇していたが、知らぬ振りなど勿論できない。

 涙目になりそうになるのを堪えながら振り向き、消え入りそうなか細い声で呟いた。


「ご飯を、炊こうとしたのです……。あと、お汁を作りたくて……」


 初穂が立っていたのは竃の前であり、羽釜がかけられており、その隣には鍋が。煙は鍋から上がっている。

 目を瞬いて沈黙していた玖澄は、そっと羽釜の蓋を取る。

 中には炊けた白米がある。一見何事もないように見える。

 玖澄が中の飯を口に運んだのを見て、初穂は更に俯いてしまう。


「……芯があって、美味しくないでしょう?」


 暗くどんよりとした表情で、初穂は呻くように言う。

 初穂は米の水加減を間違えてしまったようだ。

 美味しそうに炊けたと安心したが、味見として一口食べて凍り付いてしまう。

 これではとても、と米の出来に茫然としている間に、汁が煮立ってしまって盛大な煙をあげて焦げ付いていた。

 初穂もどうすれば良いのか狼狽えるし、小霊達も慌てふためく。

 そんな中に、玖澄達が帰還したのである。

 初穂は、消え入りたいぐらいの気持ちだった。

 米を炊いて汁を作るのは、基本と言ってもいい事だ。

 それがこの有様とあっては、女性としてかなり情けない事態である。

 恥ずかしさに涙が滲みそうになってしまう。穴があったら入りたいとはこういう状態をいうのだろう。


「もしかして、ご自分でなさるのは初めてだったのですか……?」


 鍋の状態を確かめつつ、後片付けの為に采配し始めながら白妙が問いかけてくる。

 この屋敷にきてから初穂が台所にたったことはない。屋敷にくる前も、そうだった。

 それに頷きを返しながら、初穂は応える。


「私には必要のないことだから、って……。片づけるのも、手間をかけさせてしまうから……」


 お針や家事調理の一切は、妻の務め。出来る限りの習い事。

 他家に嫁ぐ予定のある妹達は、出来ないではすまされない。嘉川家の名誉にも関わる故に、幼い頃から特に念入りに教えられていた。

 だが、初穂には嫁ぐ予定がない。どうせ嫁げないのだから、出来ても出来なくても変わらない。

 故に、必要がないならわざわざ手間をかけるのは時間の無駄である、と教わる機会すら無かったのだ。

 初穂としては、女性として学んでおくべき事は、心得ておきたかった。

 しかし、言外に面倒だ、と告げている人達に無理を押し通してまで、教えてほしいと言えなかった。

 皆が当たり前のように出来る事すら、一人では出来ない。その事実に初穂は目に見えて分かる程に落ち込んでいた。


「昼までに帰るので、昼餉には間に合いますよとお伝えしたと思ったのですが……」


 そう、何時も初穂の食膳を整えてくれる玖澄は、昼までには戻るから昼餉の用意は心配するなと言って出ていった。

 帰りを待てない程に空腹だったのだろうか、と表情を曇らせる玖澄に、初穂は必死に首を左右に振って否定する。


 違うのだ、腹が減ったのではない。

 今日は、初穂が作りたいと思ったのだ。

 何故なら……。


「いつも、作ってもらってばかりだから。……たまにはお返ししたくて……」


 初穂の言葉を聞いて、玖澄がきょとんとした表情で言葉を失った。

 玖澄は何時も、初穂の為に手を尽くし、心を尽くして美味しく体に良い食事を整えてくれる。

 嫌な顔一つせずに、楽しそうに笑いすらして。

 身体に染み入る程に滋養があり美味しい食事を食べながら、ここの処初穂は思っていたのだ。

 してもらってばかりではなくて、たまには返したいと。

 だから玖澄達が出かけたのを見計らい、台所に忍び込んだ。

 小霊達に手を借りて火をおこして、米を研ぎ、釜を火にかけて。人がするのを見てかろうじて覚えていた手順をなぞって見様見真似で汁を作ろうとした。

 手間取りながら狼狽えながらだったが、何とかそれらしく出来たと思った。

 しかし、蓋を開けてみればこの始末だ。お返しどころではなく、後始末の面倒をかけてしまう。

 もう消えてしまいたい程に情けない。身を縮めてしまっている初穂に、しばし飯の状態などを確かめていた玖澄が告げる。


「……このお米は、山の菜を入れて粥にしましょう。調度土産として頂いてきました」


 見遣れば、確かに玖澄は山の菜が盛られた笊を手にしている。

 それを示しながら言う玖澄は、何時もと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。

 唇を噛みしめたままの初穂を見て、玖澄は首を傾げて更に続ける


「一緒に作りましょう。私が教えますから、一緒にこの飯をお粥にしませんか?」

「面倒ではないのですか……?」


 初穂は、過去を振り返りながら恐る恐る問いかけた。

 教えてもらおうとしても、やんわりと断られてきた。

 使用人達が「どうせ嫁げないくせに」「無駄な事をするのは本当に手間だ」と話していたのを思い出してしまう。

 人の手を借りなければ生きてこられず、人に迷惑を駆け続けた事への引け目があるが故に、相手に負担が生じる事は自分から遠慮する、と言わなければいかなかった。

 一緒に失敗を手直ししたい気持ちはある。だが、それにすぐに頷くには、初穂には過去が沁みすぎていた。

 怖々といった様子で問いかけた初穂に、玖澄が向けた笑みは優しいものだった。


「いいえ、全く。ご一緒してもらえるなら嬉しいです。初穂さんと一緒になら、楽しく作れそうですから」


 玖澄の言葉を、一瞬理解出来なかった。

 だが、玖澄が本当にそう思って言ってくれているのだと感じて、戸惑いに咄嗟に言葉が出なくなる。

 教えてもらいたい。教わりたい。思っても口に出せずにいた事を、玖澄は叶えてくれようとしている。

 しかも、それを初穂の心の負いとならないように配慮しながら。

 言葉から伝わる玖澄の優しさや慈しみに目頭が熱くなり、気付いた時には、初穂はこくりと一度頷いていた。

 初穂が頷いたのを見て笑みを深めた玖澄は、支度をはじめながら、更に言う。


「明日から、初穂さんがよろしければ、朝餉に支度も手伝って頂けますか……? 一緒に作ったご飯はきっと美味しいと思うので……」


 初穂がしてもらってばかり、と気にしていたのを気遣って。また、習い覚える機会を得たいと思っているのを慮って。

 機会を与える立場であるはずの優しい大蛇は、控えめな声音で、自身の願いの形で問いかけてくる。

 このひとは、どうしてこんなに。どこまで、優しいのだろう。

 今まで知らなかった、溢れるような優しさと慈しみ。自分の中に湧き上がってくる熱くて幸せな感情。

 様々な思いが綯交ぜとなり言葉にならない。だから、初穂は必死に、ただ何度も頷いて見せた。


 ――その日の昼餉は、今までで一番あたたかくて、美味しいと感じた。




 初穂は少しずつ床から離れる時間が増え、以前のように玖澄と過ごす時間を取り戻していった。

 玖澄は、折に触れては初穂に問いかけた。

 ある時は、一人では寂しいので縫物を一緒にしてもらってもいいですかと。

 ある時は、一人だと眠ってしまいそうなので、異国の言葉のおさらいに付き合ってもらっていいですかと。

 以前のように、拒否する事はなかった。初穂は、恥じらいつつも頷いた。

 玖澄の意図が、初穂が今まで習う事ができなかったものを覚えて欲しい、ということだとは気付いていた。

 だって、彼は一人で色々な事が自在に出来るのだから。初穂の介添えなど必要ないのというのに。

 玖澄はいつも初穂が言い出せずにいる願いを察し、自分から誘いかける形で叶えてくれるのだ。

 申し出る事で玖澄の手を煩わせてしまう、と初穂が気負いしないようにと配慮しながら。

 時折、その理由は苦しいのでは、と不器用な優しさに小さく苦笑いしてしまうこともある。

 だが、遠慮してなかなか頷けなかった初穂は、少しずつ頷けることが増えていった。

 その度に、玖澄は心から嬉しそうな笑顔を見せるのだった……。


 蒼穹が美しい、とある晴れた日。

 玖澄と初穂は約束していた苗木を植えることになった。

 今は小さく儚い苗木も、いずれは育ち樹となり枝葉を茂らせ、揺るがぬ大樹となるだろうか。

 その時に、初穂がそこに居るか分からない。

 居られないかもしれないと思う。だが、もう無駄な事、と初穂は口にしなかった。

 もし居なくても自分の代わりに歳月を重ねていってくれたなら。

 初穂と玖澄は、共に土を掘り、苗木を持ち根に土をかけて。

無事苗木を植え終えて、二人は揃って土だらけなことに気付いて、どちらからともなく笑ってしまった。

 二人は、共に過ごす事と、共に何かをする事が増えていった。

 他愛無い会話で笑みがこぼれ、向けた笑みに笑みが返ることが増えていく。

 関わりから恥じらいは消えず、夫婦として見たならばどこかぎこちないものではあったけれど、二人の距離は確かに近づいていく。

 それはとても穏やかで静かで、あたたかな日々だった。


 けれど。

 唯一つ、初穂の胸の中に翳りとなって残る棘があった――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る