温もり

 初穂は昏睡状態にあったらしい。

 一時は駄目かと思われたが、玖澄はけして諦めずに枕元に付き添い続けたという。

 白妙が変わるから休んでくれと言っても、けして頷かず一睡もせずに初穂のそばにあったと、駆け付けた白妙は語った。

 余計な事をと窘めつつも、玖澄は少しばかりばつが悪そうであって。

 小霊達が喜びに宙を舞う中、初穂はほんの僅かに頬を緩ませた。

 峠を越した初穂は、そのまま快方に向かい始める。

 貴重な霊薬が功を奏したらしく、少しずつ水や食事も喉を通るようになってきた。

 小霊達が初穂の周りに居てあれこれ構いたがるのを、お説教をするように白妙が窘める。

 愛らしく微笑ましい光景に、初穂はようやく自分が温かな場所に戻ってきたのだと感じるようになっていた。

 玖澄は、集めた様々な幸にて、少しでも初穂が食べやすく滋養のある食事を作るかに熱心で。

 前にも増して、初穂の身の回りを整え、過ごしやすいようにと心を砕いていた。

 あまりに隅々まで行き届いていて、至れり尽くせりすぎて申し訳ない、と苦笑いしても「これが私の楽しみです」と満面の笑みを浮かべて言われてしまえば、断れない。


 そんなある日、初穂に差し出された美しい硝子の皿には、見た事もないものが乗っていた。


「あの。これは、何……?」

「アイスクリーム、という氷菓子です」


 聞いたこともない響きに、初穂は思わずきょとりとした顔で首を傾げてしまう。

 皿の上にもられた白いものからは、ひんやりとした空気を感じる。

 確かに氷ではあるようだが、固そうにも柔らかそうにも見える不思議な感じがする。

 添えられた匙と皿を交互に見つめている初穂を見て、玖澄が説明する。


「牛の乳と砂糖や卵を材料にして、氷で冷やしながら作るのです。海外から伝えられたものです」

「卵やお砂糖まで」


 初穂はまじまじと僅かに黄色がかってみえる白い氷菓子を凝視する。

 砂糖も卵も、瀬皓では中々手に入りにくい。

 地主の屋敷には備えられていたものの、それでもふんだんに使えるというわけではなかった。

 初穂はつい、何て贅沢な、と思わず裡にて呟いてしまう。

 玖澄は微笑んだまま、更に続ける。


「牛の乳は滋養がありますが、多分そのまま飲むのは慣れていないと思って。喉を通りやすいようにとも考えて、氷菓子に」


 言われて、一度は躊躇ったが、初穂は匙をとって氷菓子を掬う。

 牛の乳が使われていると聞いて、尻込みする気がないといえば嘘だ。

 だが、これは玖澄が初穂の身体の事を考えてわざわざ作ってくれたものだ。心遣いを無駄にしたくない。

 初穂は、少しの抵抗を伴う柔らかな感触で白いふわりとした一掬いを、口に運んだ。

 一呼吸おいてから初穂の口から零れたのは、吐息交じりの言葉だった。


「美味しい……」


 甘くて冷たくて、口に入ると忽ちに溶けてしまう。今まで味わった事のない美味しい甘さだった。

 身体に染みるような滋養を感じる甘味が溶けて、喉を通り過ぎていく。

 初穂は、気付かぬうちに目が輝いていた。

 初めて知る味であり、体験する美味しさだった。

 胸が踊るような感覚を覚えながら、また一匙、と味わっていると玖澄が口を開いた。


「ほら、大丈夫だったでしょう?」

「え……」


 問われて、初穂は首を傾げてしまう。

 何の事かと目を瞬いた初穂に、笑みと共に玖澄は答えを告げる。


「牛になんて、ならないでしょう?」


 あ、と初穂は小さく声をあげた。

 確かに、初穂は牛の乳についてそう思っていたのだ。

 長らく言い聞かされてきたから、それが正しいとけして疑うこともなく。

 でも、初穂がそうだと思ってきたことは、違ったのだ。今、身を以て体験した。

 初穂は、氷菓子をまたひと匙口に運びながら、頷いていた。

 言い伝えられてきたことが、信じていたことが。それこそ世界の理にも等しいと思っていたことが。

 本当に正しいかどうかは、確かめてみなければわからないものなのだ。

 牛の乳を食べても牛になんかならないように。

 この大蛇のあやかしが獰猛で恐ろしいなんて、嘘だったように。

 せっせと匙を動かしていたら、やがて氷菓子は皿から消えていた。

 気に入ったらしい初穂の様子を見て、玖澄はまた作りますと微笑んだ。

 しかし、その後皿を脇に片づけた玖澄は、何故か初穂の顔をじっと見つめているではないか。

 あまりに真剣な面もちで見つめられると、些か面映ゆい。

 どうしたのだろうと問いかけようとした時、先んじて玖澄が口を開いた。


「初穂さん、あの」


 神妙な面持ちで何かを告げようという玖澄に、初穂もまた真剣な面持ちとなる。

 思わず息を飲んで続きを待っていた初穂の耳に、次の瞬間、あまりに予想外な言葉が響いた。


「抱き締めても、いいですか……?」


 初穂は、言葉を失って呆然と玖澄を凝視してしまう。

 玖澄は、祝言を上げた以上、初穂の夫である。

 夫婦というならば、不思議はない。だが、まさかこのような状況で、と思ってしまう。湧き上がる戸惑いと恥じらいに、咄嗟に言葉を返せない。

 初穂の沈黙に抱く疑問を察したのか、慌てて玖澄は首を左右に振る。


「いえ、何もしません! ただ、その……初穂さんが、元気になってきたのを確かめたいだけです……」


 床を共にと言う事ではないらしい、とその言葉から知れた。

 初穂は快方に向かっているとはいえ、まだ顔色は青白く、頬のやつれはまだ戻らない。だから不安になる事がある、と玖澄は語った。

 初穂が確かに息をしていて鼓動を打っていて、温かい事を確かめたいという。

 玖澄はやはり迷惑ですよねと俯いてしまったけれど、初穂が返した答えは是だった。

 恥じらいつつも、俯きつつも、絞り出すようにして初穂が紡いだ答えに、一瞬茫然とした後。

 玖澄は静かに初穂を腕の中に迎えた。

 背に回される温かな腕を感じながら、恥じらいを見せまいというように俯く。

 頬を胸に摺り寄せるようにしながら、頼もしく広い腕の中にて、初穂は心に呟いた。

 蛇というのは、肌が冷たいものだと思っていた。

 けれども、この大蛇のあやかしはとても温かい。

 温かくて優しくて、胸に溢れて満ちていく感情がある。

 胸が痛い程に苦しいけれど、けして不快ではない。今まで知らなかった、不思議なこころ。

 玖澄の胸の鼓動を感じる。

 玖澄が確かに生きてそこに居る証の音は、何とも言えない優しい響きに感じる。

 緩やかに、穏やかに、暫し二人とも無言のままに時が流れて。


「初穂さん……?」


 玖澄が戸惑った風な声を上げた時には、

 優しい音に身をゆだねながら、何時しか初穂は健やかな寝息を立てていた――。


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