瀬皓の災い
初穂の脳裏に巡るのは、過ぎし日の光景である。
瀬皓の村は、帝都から遠く離れた場所に位置する、山間の村だった。
周囲を切り立つ山々と渓谷に囲まれ、半ば隔絶された、陸の孤島とも呼べる土地である。
外界と村を繋ぐ唯一の道は谷沿いの厳しい細い道の一本だけ。
そこには常に見張りが立ち、物の出入りを管理しており、とりわけ人の出入りを厳しく監視している。
村の長であり瀬皓一帯の土地を有する地主である初穂の父の命によるものだ。
初穂の父は、村に人の出入りがある事を極度に嫌う。
その所為か、瀬皓の村は時の流れから取り残されている趣がある。
時折、外から嫁入りがあったり、逆に嫁いでいく事はあるが、それも多いわけではない。
村の人間にとっては、帝都と呼ばれる場所にて政が行われて居る事も、新しき事物も思考の何もかも、何処かおとぎ話のような現実味のないもの。
ただ肩を寄せ合って助け合い、畑を耕し、細々と暮らしていく。それが村に暮らす人々にとっての世界の全てだった。
その日は、村の有力者たちが長の屋敷にて会合を開いていた。
広間にて男達が深刻な面持ちで話し合う中、初穂は次の間に控えていた。
初穂は、地主である
流れるような艶やかな黒髪を結って櫛をさし、瞳は宵の空を思わせる漆黒である。
些か青白く見える肌に纏う着物は、帝都の令嬢達に比べれば貧相であろうが、村の女達が望んだとて得られないような上質なもの。
絵から抜け出てきたのではと錯覚させるような、鄙の地には稀な美しい娘と人々は囁きあう。
しかし、とうに嫁いでいておかしくない年まわりであるというのに、初穂は未だ嫁がずに居た。
理由としては単純だった。初穂が、酷く病弱に生まれついたからだ。
これは、二十歳までは生きられないだろうと医者に告げられていた。
だが、事あるごとに病を患い、此度はもう駄目だろう、と言われながら辛うじて生を繋ぎ続け。気付けば行き遅れと言われる年頃までは生き延びてしまっていた。
如何に美しくあろうと、嫁した女は一人でも多く子を為すのが美徳とされる土地において蒲柳の性質は倦厭される。故に、嫁にと望む者が現れないのである。
初穂の妹達は既に嫁ぎ母となっているが、初穂には未だ一つの縁談もない。
父も無理に初穂を嫁がせる事を諦めた様子であり、屋敷にてひっそりと暮らすように申し付けた。
何時か終わる日がそう遠く無いのを感じながら、初穂はただ父の言いつけに従い暮らしていた。
女中に新たな茶の采配を指示すると、初穂は再び先程までと同じ様に控える。
襖の向こう側で重々しく交わされる言葉は、まだ終わる気配がない。
だが、それも無理はない、と初穂は思う。
村が現在抱える問題を話し合うために集まったのだ。
瀬皓が置かれている状況を思えば、そうそう簡単に解決の術など見つかるまい。
近年、瀬皓の村は相次ぐ災いに見舞われていた。
ある日、沢山の川魚が腹を上にして浮いているのが見つかった。
それを皮切りに、異変は起きた。
次に、畑の作物や村周辺の植物が枯れ始めていった。
恐れる人々に追い打ちをかけるように村を襲ったのは、謎の疫病だった。
手足が震えるようになり、立っていられなくなる。そして言葉を失い、錯乱し、死に至る者もあった。
しかも、災いはそこで終わらない。
一人、また一人、と村人の姿が消息を絶つ者達が現れ始めたのだ。
村外に出たとは考えられない。見張り達は見ていないと口を揃えた。
ある日、本当に何の前触れもなく消えてしまうのだ。それこそ、神隠しにでもあったように。
相次ぐ災いに人々は震えあがり、怯えた眼差しをある方角へと向けるのである。
それは、言い伝えにより立ち入りが禁じられた山だった。
何故に禁足地であるのか。それは……
『山の大蛇の怒りだろう……』
『山のあやかしが、村を祟っておるのだ……』
古くから、その山には強大な力を持つあやかしが住んでいる、と言われているのだ。
獰猛な大蛇であるあやかしは、山へ人が立ち入ると怒って暴れ回り、人を喰らって回るのだという。
それ故に山への立ち入りは禁じられ、破ったものは罰を受けていた。
人々は畏れをこめてあやかしの住まう山を見ながら、此度の災いの数々はあやかしの仕業であると震えていた。
山の大蛇が何かの理由にて怒り、村を滅ぼそうとしているのだと。大蛇が、喰う為に人を攫って隠しているのだと……。
重苦しい空気が立ち込める中、上座に座っていた長……初穂の父が大きく嘆息すると、口を開いた。
『贄を捧げて、許しを請うしかあるまい』
居並ぶ人々がどよめく。
しかし、否定の気配はない。恐らく居並ぶ者達も同様の考えだったのだから。
村人たちの間でも、密かに囁かれるようになっていた事だ。
山の大蛇の怒りを鎮める為に、贄を捧げるべしと。
明らかな言葉にせずとも、村の人々の意思は一つに定まりつつあった。
しかし、誰も異を唱える者など無いと思われていた中、父の傍らに控えていた若い男が驚愕の叫びを上げた。
『この明治の世に生贄など……! 本気でそのような迷信に従うつもりですか……!』
叫んだのは、父に仕える下男で、
山根は、この村おいてほぼ唯一といっていい『外の世界の感覚を持つ人間』である。
元は帝都に暮らしており、帝大に学ぶ学生であったという。
しかし父親の事業が傾いた為に一家離散の憂き目にあい、老いた母と共に血縁を頼って瀬皓にやってきた。
初穂の父の元で下男として働くようになったが、未だに村人からは余所者と敬遠されており、父からは酷い扱いを受けている。
父からの扱いには、余所者である以外にも理由があるのだが……。
山根は、生贄を捧げる事の無意味を必死に説くために言葉を尽くそうとした。
あまりに非科学的であり、何の解決にもならないと必死に訴えた。
だが、次の瞬間、鈍い音が響いたかと思えば、続いて何かが倒れるような大きな音がした。
『うるさい! 黙れ! この帝都かぶれめ!』
父の怒号が響き渡り驚いて視線をそちらに向けたなら、立ち上がり杖を手にした父と、倒れ伏した山根の姿がある。
恐らく、あの杖で山根を打ち据えたのだろう。
これは驚く事ではない。日常で見受けられる光景の一つなのだ。
『開化だの何だのと浮ついた、帝都の汚らわしい考えをそれ以上口に出してみろ! 親族ごと村から追い出すからな!』
暫くの間、呻き声と鈍い音だけが場に響いていた。
父は怒りに顔を真っ赤に染めながら、尚も山根に向かって杖を振り下ろした。
苦痛の呻きが徐々に弱弱しくなるまで打ち据えると、相手からの反論が返らない事を確認してからもう一度座につく。
黙したまま場を見つめていた者達が、再び口を開く。
『しかし、贄を捧げると言っても……。誰を……』
相応の値ある贄でなければ、更なる怒りを買うかもしれない、とある者が言う。
生贄は乙女である必要があるが、相応しい娘は里に居ただろうか、とある者が首を傾げる。
一同は、難しい顔をしたまま揃って黙り込んでしまった。
新たな茶を供した女中達も、平素の顔を崩さぬようにしながら、俯きがちに何かを思案している。
ああ、と初穂は心に呻く。
背に、肩に、感じる。
重くのしかかるようものを。言葉によらない、明確に訴える意思を。
答えなどもう決まっているのだ。
そして、それを彼らに言わせてはならないことを知っている。
告げるのは、他ならぬ初穂でなくてはならない。だって、初穂は生かされてきた身なのだから。
皆のように働く事もできない。
そればかりか、折に触れては病を得て床につく。その度に、人の手を煩わせる。
人の助けと情けがなければ、今の時まで生きて来られなかった身である。
自分がそれを告げる事で、皆の憂いが少しでも晴れるというならば。
それが、初穂の『正しい』選択なのだ……。
村の有力者たちが揃って口を閉ざす重苦しい沈黙の中。
初穂は決意の表情で、楚々とした仕草を以て進み出た。
皆に注視される中、初穂は畳に指を付いて頭を垂れ、口を開いた。
『私が参ります』
『初穂⁉』
娘の申し出に、上座の父が目を見張った気配を感じた。
その場にいる面々も、一際大きなどよめきをあげる。
けれどその声は、何処か予定されていた事が恙無く行われたような、不思議な雰囲気も帯びていた。
『長の血筋に生まれながら、嫁ぐ事も出来ず、お父様のお役に立てずにおりました。この身がお父様、ひいては村の皆様のお役に立つというならば』
思いもよらぬほど、すらすらと淀みない声音による言葉が、初穂の口から紡がれる。
まるで何度も考えぬいた口上を述べているような感覚がある。
いや、実際このところ考え抜いていた。如何なる言い方をすれば、不自然なく響くだろうかと。
……陳腐な茶番とならぬようにする為には、如何したら良いだろうかと。徐々に喉元が締まり行くような感覚を覚えながら。
迷いなく告げられた言葉に、動揺した様子を見せていた有力者たちは、感嘆の息をあげる。
『さすが初穂様……』
『恐ろしいだろうに。自ら贄に名乗り出るなど、なんと健気な……』
次々とあがる声を、初穂は慎ましく沈黙したまま聞いていた。
恐ろしくないわけがない。
けれど、それ以外を初穂は『選べない』のだ。
どうやって生きてきたか考えたなら、これ以外に選択肢がない。否、与えられない。
決意を告げたまま言葉を待つ娘へと、父は大仰に嘆息して見せたかと思えば、苦い声音で問いかけた。
『初穂……良いのだな……?』
『はい。どうせ先の短い身でございます。皆様に受けた御恩を返す事が出来るのなら、私は喜んでお山に参ります』
父の低く呻くような言葉に、初穂は確りとした声音で返す。
居並ぶ男達は、迷いのない初穂の言葉を聞くと再び感嘆の息を零した。
父は長らく思案していた様子だった。その後も、集まった者達と暫し話し合いを続けていた。
だが、初穂の『申し出』は、拒絶されることなく受け入れられた。
そして、初穂は胸に悲痛な決意とある使命を抱いて、山の大蛇に捧げられる贄となることとなった。
『村の為に身をもって尽くして下さるとは……』
『地主様も名誉に思っているだろう。孝行娘の鑑だな』
やがて贄を捧げる宵がやってきて、村の者達は初穂を見つめつつ呟いていた。
山の祠に『花嫁を捧げたい』と文を捧げると、受諾するという意向があり、贄を送り出す日が定まった。
初穂には、自ら犠牲となりに行く者への手向けとでもいうように、精一杯の贅を尽くした美しい花嫁衣裳が用意された。
別れを惜しむように取り囲む者達に、初穂はそっと淡い笑みを返すのみ。
美しいと目を細める者達の中には、そっと目頭を押さえる者達もあった。
嘆き悲しむ人々に見送られながら、初穂は生まれ育った村を後にする。
初穂は気付いていた。
駕籠に乗せられ出立する初穂を見て「おいたわしい」と呟く者達の表情に安堵と共に、何処か『当然』と言わんばかりの醒めた色があった事に――。
そして、初穂は山の祠に置き去りにされ、大蛇が現れるのを待つ事となる。
震えそうになる身体を、自分には使命があるのだと必死に落ち着けようとしながら。
もしも喰われるとしてもそれだけは、と唇を噛みしめながら、やがて来る時を待ち続けた。
だが、そんな初穂の悲痛な覚悟とは裏腹に。
現れた大蛇は、初穂を見て嬉しそうに『花嫁さん』と満面の笑みを浮かべたのである……。
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