いつか、還る日まで ―贄嫁と大蛇のねがいごと―

響 蒼華

大蛇と花嫁

 月が中天に差し掛かる刻。

 森に分け入り程なくして辿り着く祠に一人の娘の姿があった。


 月の光を受けて哀しい程に輝いて見せる、精一杯に贅を尽くした装束は、本来であれば嫁ぐ女が纏うもの。

 土地において花嫁衣装と呼ばれる衣を纏って、娘は薄暗い森の祠に居た。

 おおよそ山歩きには不向きな衣装の娘をここまで導いてきた人間は、逃げるように立ち去った。

それぞれに、形ばかりの感謝を口にしながら、娘をその場に置きざりにして消えた。

 動物の鳴き声すら聞こえない暗い森の祠にて、娘は息を飲み、一人待ち続けていた。

 心の中にて嘆息しながら見送ったのは、もう随分前であるような気がする。

 だが今、その場居るのは娘だけではない。

 深く頭を垂れひれ伏す娘は、自分の前に佇む人影があるのを感じていた。

 いや、それを『人の影』と表していいものか。

 土に擦るような音を立てながら、周囲の地面を這いずる巨大な何かが居るがする。

 その場に居るもう一人の相手への畏れが作り出した、相手が何であるか知る故の、幻聴のようなものなのかもしれないが。

 娘は震えを必死に押し隠し、平伏している。

 その周囲に、風が激しい音をたてながら、風が吹きすさぶ。

 古く建付けの悪い祠など吹き飛んでしまうのではないかと思う程の風だ。

 寒い、と感じるのは気のせいではないだろう。

 不可思議の気配を感じる力などないはずなのに、風が触れた肌から温度が奪われていく。身体の芯にまで沁みとおり、骨の髄から熱が失せていく気がする。

 怖い、と思う。指先に至るまで恐怖が支配していく。

 叶うならば、動きにくい衣など脱ぎ捨ててでもこの場から去りたい。背を向けて逃げ出したい。

 しかし、それだけはしてはならない。

 何故にこの場に自分が居るのか、何のためにここに来たのかを忘れてはならない。

 平素、皆の役に立てずに生きて来た身でありながら、ようやく報いる事が出来る日が来たのだ。

 役目を思い出せと、心の中で己を叱咤していた時だった。


「あなたが、花嫁……か」


 冷たく固い雰囲気を持つ、淡々とした声音で紡がれた言葉が聞こえた。

 問われた娘の肩が目に見えて跳ねあがるが、震えて悲鳴をあげかけたのだけは必死に堪えた。

 相手の機嫌を損ねるわけにはいかない。少しでもそれに繋がる行動は絶対に出来ないのだ。

 応えぬままという訳にはいかないと、花嫁衣裳の娘は顔をあげて口を開こうとした。

 だが、目の前に立つ相手を映した瞬間に、目を見開いて凍り付いたように動きを止めてしまう。


 立っていたのは、這いずる何かではなく、一人の青年だった。

 すらりとした均整の取れた体つきの長身の青年は、感情を伺わせぬ眼差しを娘に向けている。

 ただ『普通』ではなかった。

 青年は、あまりに美しすぎた。

 魂を掴んで揺さぶる程に、畏れを呼び覚ます程に、尋常ではない美しかった。

 月の光を受けて煌めいて見える白銀の髪も、磨かれた玉のように美しい切れ長の瞳も、何もかもが。

 名工の手を思わせる絶妙な配置で一つ一つが配置された、怖い程に整った顔立ちの青年。


 ああ、このひとが、と娘は心の中に呻いた。

 青年は、どう見ても人間ではない。

 尋常ではない怜悧な美しさが。頬に存在する鱗が、紅い瞳の虹彩が、青年が人ならざる者であると告げている。

 心を掴み、魂を捉えて離さない程に美しい青年に、暫し見惚れるように言葉を失っていた娘が不意に顔色を無くす。

 不躾に見つめてしまった事に気づいて、娘は慌てて元の通りに平伏した。

 そして、幾度か息を吸って吐いてを繰り返し、意を決して言葉を紡いだ。


瀬皓せごうの長が娘、初穂はつほでございます」


 娘――初穂は、震えを必死に抑えながら、楚々とした仕草で手を付き、頭を垂れながら名乗る。

 土地の長の娘として相応しく。けして父祖の名を汚さぬように。

 身に望まれた役目を果たすため、必死に。精一杯淑やかに、それでいて毅然とした声音にて初穂は続ける。


「御身の元に、捧げ物として参りました。何卒、我が身を以て……」


 口上を述べる初穂は必死だった。

 頭を垂れたままの初穂には、今相手がどのような様子であるかは分からない。

 風は祠の中を過ぎゆき、吹き荒び続けている。

 少しでも相手の機嫌を損ねてしまえば、ここに初穂が来た意味が無くなってしまう。

 そればかりではない、瀬皓の村の人々に累が及ぶかもしれない。今よりも尚酷く性質の悪い災いが村を襲うかもしれない。

 失せていく血の気を感じながらも、それでも必死で初穂が次の言葉を口にしようとした瞬間、荒れ狂うようだった風が、ぴたりと止んだ。

 信じられない声音と内容の言葉が初穂の耳に届いたのは、初穂が止んだ風に息を飲みかけた時だった。


「ようこそ。待っていましたよ、私の花嫁さん!」

「……え……?」


 初穂は、すぐには理解出来なかった。

 花嫁さん、と言う声音があまりに穏やかで明るくて。先程の冷たさ感じる言葉とはあまりにかけ離れていすぎて。

 初穂は、弾かれたように身体を起こして顔をあげてしまう。

 見上げた眼差しの先には、先程と同じ様に佇む人ならざる美貌の青年の姿がある。

 だが、その端正な顔に浮かんでいるのは、喜びに溢れた嬉しそうな笑顔だった。

 何処か人の良い笑みを浮かべながら、優しく温かい眼差しを向ける鱗持つ青年を見て、初穂は唖然としてしまう。

 強張った顔で目を見開いてしまった初穂の眼差しを受けながら、青年は人の良さげな笑みを浮かべていた。

 花嫁さん、それは間違ってはいない。

 この青年が、瀬皓の山に住まう人ならざる者で間違いなければ、初穂は、確かにこの青年に『花嫁』として捧げられた身である。


 そう、怒りに狂い村に災いを起こしている恐ろしい山の大蛇に。

『花嫁』という名の『贄』として――。

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