氷雪姫の恋
第20話 これはただの、老いぼれの昔話
――戦はいつか終わるのだろうか、と。かつて彼女が言った。
確かその時。自分は、終わったら終わったらで、どう生きればいいのかと答えた気がした。
己は、隻腕の身の上。出来る事は限られていて、その出来る事をただ剣と魔道に捧げてきた人間だ。
戦が無くなれば。きっと己の存在価値もまた無くなる。それはそれで複雑かもしれない――と。そう思っていた。
――そうだな。ただ、私にとっては価値ある事だ。戦が無くなれば、こんなものがなくとも貴公と共にいれるのであろう。
玲瓏の外れにある小高い丘の上にある、大岩。
そこには泉生の『竜』の紋章が刻み込まれていた。
玲瓏と泉生。かつてこの二つの所領は同盟関係にあった。とはいえ別々の所領同士、頻繁に会う事は叶わぬ。故に――『竜』の紋章をもって、己を転移させていた。
人を転移させるは、恐ろしく難度が高く負担も大きい。極めるに辺り、これまでにない程の労苦を味わわされた。
ただ――その労苦に値するだけの幸福はあった。
はじめて、強くなるという目的以外で魔道を鍛えたように思う。
ならば、戦が終われど。同じように在れるのではないだろうか。戦がなくとも。この者と
――また以前のように。銘文殿も交えて、語らう事が出来たならば。他にはもう、何も要らぬよ。
そうして笑みを浮かべた彼女の顔を見るのは、これで最後であった。
泉生は魔王側につき。玲瓏は魔王と対立した。同盟は打ち切られ、泉生は魔王の軍勢の拠点の一つとなった。
道は、分かたれた。分かたれた道が再び交差する、その日。――最愛の人を、その手に掛けた。
●
雪原の最中。
洞窟の中、二人の男が火を囲んでいる。
火を囲むは、隻腕の老爺と年若い男であった。
双方とも、白色の外套を着込み。黙々と火に枝をくべていた。
着込んだ頭巾の下、年輪を刻んだ樹木のように深い皺がその顔に刻まれた老爺と、生気や気力といったものが見えない垂れ目の男。
双方は何をするでもなく。ただそこにいて。
その傍らには、地面に刻まれた『竜』の紋章がある。
ここは顎砲山の深部。以前までは、極寒の氷晶結界にて覆われた場所であったが、既に結界は解除されている。
現在。二人はこれ幸いと結界が解除された場所に潜伏している次第である。
「――儂にはお主が付くか、ルブルス」
「そっすね、リュウゲンドウ様。不服ですか?」
「いいや。――むしろ、アランも儂の我儘に中々協力的だの、と思っただけだ」
「へぇ。この任務、ゲンリュウドウ様の我儘なんですかい」
「ああ。――教団が叡へ進出するという話があった時。入鹿家当主の暗殺と、奴等が保有する『書』を簒奪することをアランに提案したのは儂だ」
「へぇ。何か因縁でもあるんですかい?」
「そうじゃのぉ。――見ての通り、儂は隻腕だが」
「はい」
「この左腕を落としたのは、現在の入鹿の当主――入鹿銘文よ」
老爺――龍源道はそう言った。
左腕を落とされた、と。ただその言葉には、恨みや憎しみの一片も含んでいなかった。
むしろ、それを懐かしんでいる風情さえある。
「それにしては、あんまり恨んでいる感じはないっすね」
「ああ。むしろこれに関しては感謝している。――隻腕でなければ、儂はこうはなれなかった」
「....?」
「まあ、老いぼれの昔話じゃ。暇つぶし程度に聞けばよい。――若い頃の儂はどうにもならん狼藉者でな。泉生の領主の次男坊。家督の相続権もなく、親父殿の関心を得る為暴れ呆けていた」
「昔は、尖っていたんですなぁ」
「その果て。儂を叱りつけに来た兄と、父に無断で決闘を行ってな。その時、儂は兄を殺しかけたのだ」
「ありゃりゃ」
「当然、親父殿は大激怒。儂は勘当され、家から放逐された」
「見事な転落人生ですな」
「だの。そうして――剣の腕のみしか頼る術が無くなった儂は、名のある剣士と決闘を仕掛けた。剣客として名を上げんとな。当時、若くして入鹿の師範となった入鹿銘文に挑み――結果、この左腕は落ちた」
くく、と。龍源道は笑った。
本当に。在りし日を懐かしむ――楽しくも、寂し気な笑みであった。
「左腕が落ちてから。片腕で戦う方法を追求し始めた。如何にすれば片腕の不足を補える。如何なる魔道を仕込むべきか。考え、修練を重ね、戦いに赴いた。叡は屍の国。屍を作る賊共は山ほどおり、人を斬る事に困る事はなかった。その果て――儂は、五体満足の時より、遥かに高い腕を持つに至った」
「不思議なもんですねぇ。片腕を斬り落とされてから、より強くなれたのですか」
「人は、どうにもならない不足を抱えた時、思考を要請される。はじめから思考する能力を持つ者もいるがな。儂はそうではなかった。不足を抱えねば、考える事が出来なんだ」
「――リュウゲンドウ様は、泉生の将だったんですよね?勘当は解いてもらったんですか?」
「解かれなかったがな。親父殿が病で身罷って、家督を継いだ兄に呼び戻された。――兄自身は、決闘を受けた自分も罰されるべきであると考え儂の勘当に納得いっていなかったらしい」
それから、色々あったのだと。そう龍源道は話す。
「北方からの脅威が高まり。泉生は玲瓏と手を組む事となった。軍事的な同盟のみならず、互いの武術や魔道に関する情報交換まで始めてな。――儂は、絶えず玲瓏へ行った。己が左腕を落とした入鹿銘文を超えたかった」
「....超えられたんです?」
「それがの。――もう奴を超えたかどうかなぞどうでもよくなった。あの時は、恐らく儂の人生の絶頂だったのだろうな。終生の好敵手がおり。将来を誓った恋人も出来た。玲瓏は、生まれ故郷の泉生にも勝る場所であったよ」
「でも、やるんですね」
「でも、ではない。だから、やるのだ。――儂はもう、生まれ故郷の為に玲瓏を捨てたのだからな」
「捨てた?」
「泉生は魔王に恭順し。玲瓏はそうしなかった。そうして魔王軍は泉生を拠点とし、玲瓏の喉元まで攻め込んだ。そうして魔王は滅び、泉生も滅び、儂だけがおめおめと生き残った。――道は、分かたれたのだ。儂には、もう....」
その先を、龍源道は語らなかった。語るべき言葉に迷ったのか。語る事に耐えられなかったのか。それとも、その双方か。
その辺りの機微を読み取りたくとも――ルブルスには、全く理解できない代物であった。
「何というか....羨ましいっすね」
「....羨むのか」
「俺、”ホムンクルス”なんで。――過去の記憶に対して、感情を持つ事ってないんですよね」
「.....ホムンクルス。他者の記憶を植え付けられた人間であると、そう聞いているが」
「まあその認識であっていますよ。もっと正確な言い方が出来ますけどね」
「ならば、より正しい認識とは何だ?」
「他者の記憶だけ持っている人間ですね」
ルブルスの声には、そこはかとない諦念の色を感じる。自分自身を何処か突き放しているような、客観性が存在している。
「ホムンクルスってのは。外的刺激から遮断して、人格形成をさせなかった赤子とか。魔道で記憶を抹消して人格崩壊させた人間とか。そうして作った器に、召喚魔道で使う『書』の中に宿っている人格を移したモノなんですよね」
「.....」
今まで仔細を知らなかったのか。ルブルスの”ホムンクルス”の説明を聞き――龍源道は少々面食らったようであった。
「要は。自分が経験した事のない記憶だけがあるんですよね。他人事の記憶だけで作られたのが俺です。――その過去に対して特別な感慨みたいなのは得られないんです」
「.....」
「だから、他人の話を聞くのが好きなんですよね。そのエピソードそのものよりも、そこに付随する感情に興味がある。今の話の中にも、そういうものを感じました」
「そうか....」
「どうせ使い潰される人生ですから。色んなものを見て、感じて、他人事の人生でも、最後の最後くらいは...何かを感じる事があるのかなぁ、と。そんな事を思う訳です」
己の中にあるものは、ただの他人事。
それ故に。己すらも客観の対象でしかない。あらゆる事が他人事という感覚のみが存在している。
「今回のお仕事も――何か楽しい事が起こる事を期待しています」
そう、何一つ期待していない声で。そんな事を言った。
その言葉と共に――傍らの紋章が、輝き出す。
「――お待たせ二人とも」
紋章より、二人の人物が現れる。
――アラン・クスフントと、ルイスであった。
「仕事の時間よ」
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