第15話 復讐よりも大事だったもの

 これは、夢の中。随分前の記憶だろうか。

 小高い丘の上。吹雪が氷を纏って、渦巻いていた。

 尖った氷が雪を纏い、つんざく風と共に叩きつける。

 氷が肉体に突き刺さり。低温を体内へ運び込む。――八柳の、秘奥の術であった。

 丘の上にある、紋章が刻まれた岩の麓。そこには、心臓を貫かれ倒れ伏す老女の武人の姿と。吹雪に当てられながらも必死に岩の紋章より己が身を転移させた隻腕の老剣士の姿があった。

 吹雪は、死体となった老女を氷漬けにし。辺り一辺の悉くを凍り付かせていた。 

 白鷹は、その術の最中に足を踏み入れていた。

 風に巻かれた氷が身体に突き刺さる。傷口から冷気が運び込まれ、四肢の感覚は一瞬で奪い去られる。

 流血すら許されぬ冷気の風の中――白鷹は、渦巻く風の中の中心にいる八柳の下へ。

 そして――。


「――ご無礼を、お許しください八柳様」

「....白鷹」


 白鷹は、八柳を抱きしめていた。

 座り込む八柳の頭を膝立ちで抱え込み。氷塊の如く冷え切ったその身体に、己が身体で包む。

 かつて八柳は、己が母より抱きしめられその力を継承したという。それと同じ事をする。身に余る力がその身に溢れるとあらば。己が身体にて封じ込めてくれよう。

 ――死んででも、八柳を救い出さねばならない。

 ここで己が死ねば、復讐の本願を見届ける事は出来ない。その事実から――恐らくこの時、己は目を逸らしていた。確か――どうせ、八柳がここで死んでしまえば、魔王の軍勢に勝つ事など出来はしない、などと心中で言い訳をしていたような気がする。

 ただ、今思えば。――ただ純粋に、この少女を見捨てる事を、己が許せなかっただけだったようにも思う。

 眼前の少女の命の対価ならば。己が復讐などどうでもいいと――そう思えていたのだろうか。

「身に余る分の力は、俺に背負わせて下さい」


 己が肉体が凍り付き、全身の感覚が失われ、意識が朦朧としていく。

 凍り付くのはいい。感覚なんてものくれてやる。命だってどうだっていい。――だが意識は保たせろ。一秒でも長く、八柳を支えろ。

 意識を保たせろ。その為に、少しでも己が肉体に熱を運び込め。

 白鷹は、寒さに震える手で懐に手を伸ばし――符を取り出す。

 凍り付き固まったそれは、触れるだけで激痛が走るほどに冷たい。

 符に籠められた力は、爆炎。

 指先に力を籠め、符に内在する力を引き出す。熱が灯り、符に纏った氷は解けていく。

 ――力加減を間違えれば、俺の頭が吹き飛ぶな。

 倉峰源太郎が作り上げし、魔道符。そこに宿りし爆炎の力を――ほんの少し。微弱な炎として顕現させる。

 白鷹は、燃え上がりしそれを。何の躊躇いもなく、己が顔面に押し付けた。

 凍り付く風の中。己が顔面より激痛を対価に、熱を運び込み、意識を覚醒させる。

「――白鷹」


 ――ああ。この日の事は、よく覚えている。

 色んな苦痛を味わわされてきた人生だったが、アレが一番堪えた。

 普段と何も変わらぬ声だというのに。恐らく涙も流していないであろうに。それでも理解できていた。

 泣いていた女の子が傍にいたからであろう。

 復讐が遂げられぬ事などより。泣いている少女を見捨てる事の方が、余程耐えられなかった――。



 意識に、何かが弾ける音がした。その瞬間に、目が覚めた。

「.....」


 久方ぶりの感覚であった。自身の肉体に熱が灯り、所謂”温かい”と認識する感覚。

 目を開けると、暖炉が焚かれた部屋の中にいた。

 ぱち、ぱち、と時折火が弾ける音が響き渡る。二重に掛けられた布団をどかし、上体を起こす。

 ――どれくらい時間が経ったのだろう。

「やあ、ハクヨウ君」

 横手から声が掛けられ、振り返ると――燕尾服の、中性的な女性の姿があった。

 その女性は、白鷹の意識が戻った事を察し、声をかけてはいるものの。その視線を彼に向ける事はなく。己が正面を常に見据えていた。

「……ローウェンさん」

 彼女の名は、ローウェン・アイシクル。玲瓏へ招かれた連合国からの客人であったはずだが。何故彼女がここにいるのだろう――。

「身体の調子はどうだい?」

「大丈夫です」

 白鷹は軽く己の身体を捻ったり動かしたりして、調子を見る。

 長く眠っていた代償か多少節々の動きは鈍いが。痛みや倦怠感はない。


「それは重畳。とはいえ七日間も寝たきりだったのだ。暫しの間は安静にしておくといい」

「そうします。――で」

「ん?」

「ローウェンさん。貴方、何やっているんですか?」

 ローウェン・アイシクルは、澄み切った眼をしていた。その碧眼に歪みや濁りの一片もなく、あどけなさすら感じるほどの純真な色に輝いている。

 彼女はその綺麗な目を細め。何もない眼前にゆっくり両手を前に出し。その指先を第二関節から指を動かしていた。うねうねと動くその指先は、不思議なほどに繊細であった。

「何をやっているか、か。結論から言えば、暇潰しだハクヨウ君」

「暇潰し....?」

「そう。人生というのは、待つことの連続だ。未来に向けて生きていくという事は、常ならぬ現在の空白を耐え忍ぶことを要請される。待つ事は嫌いではないが、そこに付随する空白を埋める作業というのもまた人生において重要だと思うんだ。解ってくれるかい?」

「重要かどうかはともかく、まあ、はい。言っている事は理解できますが......」

「とはいえ空白を埋めるというのも中々に難しい話じゃないか。何もないからこその空白がそこに在るのであって、キャンパスを彩る絵の具すらない現実を前に我々は常に無力を感じなければならない。しかし。こういう無力を前に立ち向かう事もまた、我ら魔道士にとって、解決すべき愛しき課題なのかもしれない」


 滔々と語るその言葉には、その行為に内在する目的のみが語られ続け。その行為そのものの説明は行われていない。未だにローウェンの両腕は伸ばされ、指は蠢き、その目は真剣に細められている。その先にはただ虚空だけが存在するというのに。聞きたいのは何故暇潰しを行っているかではなく、その暇潰しの内容そのものなんだよこの馬鹿が――。

「ここだけの話。私は――女性が持つ柔らかさの象徴。要はおっぱいが好きでね」

「知っていますが....」

 お前がはじめて入鹿の屋敷に来た時散々叫んでいたの、もう忘れてくれているものだとでも思うたか?

「見るのも好きだし、実際に触れてその感触を確かめる行為も好きだ」

「さいですか」

「私は、いついかなる時であろうともその光景を。その感触を。思い出すことが出来る。――今まで私は。待つ間その記憶を再起する事で、空白を埋めようとしていたんだ」

「.....」

「つまり。過去に揉んだおっぱいの感触を思い出し、その時感じた幸福を己自身で再現しようとしていたんだ。己が記憶と想像力と積み重ねてきた魔道の経験によってね――」

「.....」


 もし神仏がいるのなら、本当に褒めてほしい。今、己の中に浮かび上がった悪罵の数々を喉奥から引っ込めた己の理性というやつを。危ない危ない。この女はこの様でも客人なのだ。それでいて思うのだが何だこの変態は――?

「イメージだよハクヨウ君。我々は五感を通してこの世界を認識しているが。眼前にない代物を眼前に想起し、耳朶に入っていない音に耳を澄ませ、嗅いでいない香りを楽しむ機能が人間にはある。それは今、五感を通したものではなく。かつて通ったものだ。かつて、を。今に持ってくる機能。――召喚魔道はこの機能の延長線上にある」


 そう言うと。ローウェンはにぎにぎと指先に這わせる先の空間に、一つ詠唱。

 すると。ほんの一瞬――その指先に沈む柔肌の膨らみが、白鷹の目に止まった。詠唱により空間に刻み込まれた文字列が彼女の指先に集まると共に。ローウェンは女性の胸部を召喚し、それを己が指先から沈みこませていた――。

 その瞬間。ローウェンの細められた目は恍惚を噛み締めるかの如く閉じられ、馳走を嚥下するように生唾を飲み込む音を響かせていた。

「....」

 凄まじい絶技である事は、同じ魔道士として理解できる。理解できるが、感心も関心も持てなかった。至極悲しい事に。ああ、馬鹿がそこにいるとなぁ、としか思えなかった――。

「記憶に強く強く焼き付いた代物。忘れようとすれど忘れられぬ。強い感情や執着をもって、己が全身に刻み込まれた代物。――そういうものが、召喚魔道を行使するにあたって最も強力な力となる」


 そう言うと。ローウェンは伸ばした両腕を戻し、己が懐に忍ばせ――白鷹に何かを手渡す。

「....これは」

「先日の任務にて君が手にした戦利品だ。――メイブン様は、これは君にやると言っていた」

 それは、藍坂牛太郎の『書』であった。

「メイブン様から伝言が一つ。”折角手にしたのなら、使いこなせるようになれ”と」

「.....」

「君と、この『書』に刻み込まれた者との関係については少しだけ聞いている。――たとえそれが憎悪であれ。強い感情と結びついた記憶や経験は、召喚魔道において何より得難い武器となる。しがない魔道士の、せめてものアドバイスだ」


 さて、とローウェンは呟くと。実にすっきりとした様相で、八重歯を覗かせる爽やかな笑みと共に目配せを一つ。先程まで女の胸を召喚し揉んで気持ちよさそうにしていた女だったくせに、やけに様になっていた。

「ではさらばだ。麗しの姫が君を待っているからね」

 彼女は――奇行と笑みのみを残し、部屋から出ていく。

 入れ替わりに、

「――目覚めたのですね、白鷹」


 入鹿八柳が、眼前に現れた。

 表情も佇まいも、特段の変わりなし。以前のように盆の上に茶を持って、静かに佇んでいた。

 ただ――少しだけ体が震えているのは、見えた。

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