一本いかが・上

 1

 ダークウッドの天井が目に入る。

 手を伸ばすと温かくて、咄嗟に自宅ではないと分かった。

――誘拐か。視線を左右に動かし、卓上のペイントナイフで相手の背中を狙う。

 しかし、空腹の痛みでうまく力が入らなかった。

「うおっ、おはよう。そろそろできるから焦らせないでくれ」

 犯人はニストだった。

 優しい彼を警戒する体力も無く、トマトとハーブの乗ったチキンが私の食欲を駆り立てる。

「有り物で作った。食べれそうか?」

 クルトンの乗ったサラダを眺めていると、ニストは野菜をフォークで刺して私の口元に寄せた。

――チキンも美味しい。

「お前さんちょっと疲れすぎだろ。フォークくらい自分でな……米落ちるぞ」

 思えば、彼の診察を終えた時に眠っていた気がする。

 ゴールドラッシュの末期患者を治療する術を探したり、ワクチンを作ろうと躍起になったり。

 気づけば、同僚がいなくなり始めたのもこの頃だったか。

「お前さんも子供みたいな面が、……。ティッシュあるぞ」

 食事に塩気が足された。机に丸い影をつけて、視界が少し歪む。

 どうやら部屋の暖かさに心が耐えきれなくなったらしく、見せたくもない相手に気を使わせた。

「おかわりあるぞ」

「ん……」

「……サラダ好きなんだな」

 ニストの目線を外し、家の様子を見る。

 一人暮らしの家らしい質素な家だが、私の自宅よりも家庭的で暖かい。

 が、部屋の奥にある作業台に少しの親近感を覚えて、安心した。

「美味しいか?」

「まぁ……」

「俺も食べようかな」


 彼はフォークを手に取り、それを私の胸元へと向けてきた。

 引きつりながら目を見張る私を気にも留めず、空気を掴むようにフォークを軽く動かす。

 そして、それを口元に運ぶと、何かを味わうように咀嚼を始める。

「今、何を食べたんですか」

 手放すように胸の重みが軽くなった気がして、思わず問い詰めた。

「俺なりの食事だよ、久々に食べれるからな……」

 ニストは喉を鳴らし、食事を楽しむように表情を浮かべた。瞳はゆっくりと私を捉えている。

 得体が知れないのに何故か神秘的で、いつの間にか疲労感がふわりと消えていた。

「美味しい、のですか」

 自分でも抑えきれない不安と戸惑いが滲んでいた。

「疲労や負の感情を食べてるだけだ。あぁ、にしても本当に美味しいな……ハハ……本当はもっと食べたいが、これで最後にしないとな」

 ニストはフォークを再び軽く振り、空気を刺す仕草をして見せるが、その手は力が入っていた。

 好奇心と恐怖心が私の胸に入り混じる。

 この男が何をしているのか知りたい欲求と、それを知ってしまっていいのかという懸念だ。


「ふぅ、ご馳走様」

 食事を終えた彼は慣れた手つきで煙草に火をつけた。軽く口に含んで、私を見る。

 珍しく客人を入れたのが新鮮だったのか、私が食事を取る姿を見るのが珍しいのか。

 思わず彼は問いかけた。

「お前さん、食事摂れてるか」

「気になるのですか」

「俺は母親ではないが、体が軽すぎて流石に心配だ」

「…………」

 2

 変な人だ。私にとっては、という話で。

 仕事に追われ、時々食事を抜いたり睡眠時間を削ったりすることは誰にでもある話だ。

『人に替えは効く』なんて合理的なことを言った人が?

 何をしたくてここまで連れてきたか、私は解りたくもない。

「――前にさ、人は特別ではないって話したよな」

「そうですね」

 怒りを含んだ返事にニストは反応しなかった。

「お前さんは俺の血が変わっても俺のままだって言ってたな」

 テセウスの船という問題が似ているだろう。

 ある船のパーツを交換していき、最終的に全てが入れ替わる。

 船は最初の船のままなのか、という問い。私は『変わらない』と答えた訳だ。

「俺は、変わるんじゃないかって思うんだ」

 予想はできていた。反論は出ない。

「煙草は吸い殻になっても俺の物だが、何か、信念や感情に拘りたがるのが人間だと思うぜ」

「それでも、変わってしまうのですか」

「まぁ、そうだな」

 彼の正直な本音なのだと、その言葉の意味を咀嚼する。

 皿の上は無くなった。

 

 3

「なぁ、ソレノイド。もう少し居てくれないか」

「…………」

 その言葉に心は安らぎを覚えた。同時に、これまでの辛さも。

 最早空白で埋まってしまう。


「あ、あぁ、泣かせる気はなかった、勿論断ってもいい」

「見ないでくださいっ、暫くすれば落ち着くので」

 彼の手を払い除け、裾で涙を拭う。あぁ、くそっ、彼のせいだ。いつも仕事をする時は辛くなかったのに、食事を取るときだけは付け入るように孤独が寄り添う。

「ここに居ると仕事が続けられなくなる気がします、帰ります」

「待ってくれ」

 ニストは私の腕を掴んで引き留める。

「帰して下さいっ、私が幸せを知らなかった頃まで、吐かせてください」

「好きな時に来てくれよ、二人分でよければ飯作っておくからさ」

「話聞いてるんですか」

 誰か、この支離滅裂な会話を止めてくれ。

<もう疲れた>

 ニストは倒れ込む体を支え、ベッドに寝かせる。

 久々の柔らかいベッドだ。

「どうとでも……なれ、だ」

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