翻訳騎士とおかしな聖女
最近
ヴィクター①
優しいふりが苦手だった。
なにせ環境が環境だ。手本がなければどうしようもない。
おかげで得意になったのは残酷なふりだけ。
悪人の真似をして人を殺める者は即ち悪人である。
自分がただ残酷なだけだということには、かなり早い段階で気が付いた。
「全ての敵を殺せ、ヴィクター。勝利だけがお前を形作る」
年齢を指で数えられるようになった時には既にそう言われていたし、名前を言えるようになった頃にはそれを実践できるようになっていた。
最初は小さなナイフで。次は短剣、それから長剣、槍、弓、槌、並行して素手や毒の扱いも。命を奪うことは勝利であり、それは誰もが必要とする正しいことだと教わった。
「お前たちは血に飢えた獣だ。あの忌まわしい影喰いどもを駆逐することを至上の喜びとする残酷な殺戮者だ」
聖伐院の教官の言葉は絶対だった。鞭は痛いから誰も異論は唱えない。そもそもわざわざ強調するということは『そういうことにしたい』という意図が込められた宣言なのだろう。子供だって馬鹿じゃないから、おとなしく頷いておくのが賢いやり方だとわかっている。
実際、とても合理的な考え方だった。
誰も苦痛など好まない。死を恐れぬ勇者は物語の中にしかいない。闘争の中に身を置けば疲弊せずにはいられない。だからこそ、己を騙す嘘はいっそ大胆な方がいい。
「俺は獣。血に飢えた獣だ」
己に言い聞かせるために、仲間たちと再確認するために。
弱いままでは生き残れない。何故ならこの世界は戦場だから。
人類の旗色は悪い。聖花都はもう持たないだろう。
天枝に残る星の果実もその多くは腐り落ち、根巡りの自由都市群は懸命な抵抗をかろうじて続けている。世界樹文明を成り立たせる多くの土台が、迫りくる影によって滅びの時を迎えようとしていた。
影の世界スキリシア。
それは人類文明圏とは決定的に隔絶した異次元の名だ。
輝ける世界樹に守られた聖花都と人類社会は、突如として現れた異次元の侵略者たちの手によって存亡の危機に瀕していた。
ヴィクターが生まれるより遥か昔から連綿と続いてきた血みどろの死闘は、今まさに人類の敗北と言う形で終焉を迎えようとしている。
「けして敗北を受け入れるな、ヴィクター。お前は勝利するために生まれてきた」
果たすべき使命があった。
理解不能な異形の悪魔。ガーランゼと呼ばれる侵略者の根絶。
そのために必要な条件はたったひとつ。
影世界の神。ガーランゼたちを統べる魂喰らいの王。世界樹を蝕む病巣。
全ての元凶を打ち倒し、影世界を滅ぼす他に道はない。
深く息を吸う。過去を振り返っていたのは瞬きの間だ。己の原点に立ち返り、ヴィクターという男の存在意義を確信する。既に迷いはない。
目を見開き、記憶回廊の呪縛を破壊する。眼前で架空触手を広げているのは不定形の黒い靄だ。光輪と後光現象から神秘体のガーランゼと断定。右手で握りしめた柄に念じた直後、対霊聖句を纏った刃を一息で振り抜く。
声にならない断末魔が響き、敵性個体が展開していた精神干渉波が消えていくのを確認。ヴィクターは剣を鞘に納め、腰のホルダーに下げられた聖典の表紙をなぞり再詠唱を実行させる。
青白く輝く石造りの通路を走り出す。隣を歩む仲間たちは既にどこにもいない。
ある者は死に、ある者は囮となり、ある者は強敵を食い止めるために今も戦っている。
パノティオン大遺構。ガーランゼの侵入経路とされる難攻不落の巨大遺跡に、これまで数多の勇者たちが挑み、散っていった。
ヴィクターたち決死隊は恐らく最後の希望だ。四方国家の連合軍はその勢いを失って久しく、名だたる英雄、賢者、聖人たちもガーランゼとの戦いで落命している。
自分がやらねばならない。
敵の城砦と化した遺跡を駆け抜け、立ちはだかる怪物たちを片端から斬って捨てた。
死の気配を恐れた身体は反射的に動く。迫りくる牙を、爪を、名状しがたい手足と触手を左手の盾を掲げてやり過ごし、雄叫びを上げながら突撃する。
鮮血が飛び散る。鎧を裂いて肉が抉れている。体内に突き刺さった牙が深く潜り込んだ。ガーランゼは人類の負の感情を糧とする。ヴィクターは怪物たちが啜る苦痛を意識して遮断した。魂喰らいの怪物が偽物の感情を振り撒く
毛むくじゃらの熊だか狼だかわからない怪物体のガーランゼはゆっくりと倒れた。
殺さなければ殺される。前に踏み出し、刃を振り下ろし続けることだけが生き延びる手段だった。人間はとても脆くて、怪物たちを前にすれば必死で足掻くしか道はない。
前を見れば、夥しい数の敵がいた。
勝たなければ死ぬ。生きているのだから勝利しなければならない。
惰性のように、そう定められている道具のように、彼は歩き続けてきた。
勝利だけが世界の全てだった。
敵に打ち勝つ。ヴィクターにとって世界とはひどく単純で、だからこそ彼は迷うことなく血みどろの戦場を駆け抜けることができた。
臆すれば仲間たちの死が無意味になる。迷えば弱き民が息絶える。
戦火に焼かれた無数の街を、積み上げられた同胞の屍を、無意味にしてはならない。
走る。斬る。吼える。殺す。勝利する。
繰り返しの果てに、巨大な迷路のように入り組んだ遺跡を踏破し、ヴィクターは遂に最深部に辿り着こうとしていた。
永劫回廊。異なる次元を繋ぐ大いなる門。
影世界との出入口は、そのまま敵の首魁の玉座となっているのだという。
予見の聖者から託された最後の希望。
ヴィクターは立ち止まり、巨大な扉の前で決意を固めた。
あと一歩。それだけで、人類の未来を左右する最後の決戦が始まる。
勝てるかどうかはわからない。それでも、彼にできるのは勝利を信じることだけだ。
意を決して扉を開く。
ぎい、と軋むような音。向こう側に広がる異質な空気が一気に解き放たれる。
その時ヴィクターは、深い森や山の奥、あるいは洞窟や暗がりの彼方に広がっているという異世界に迷い込んでしまったのではないかと本気で信じかけた。
「きゅー! きゅっきゅー!」
「まあ、王様ったらお目が高いです! そのマドレーヌを選ぶだなんて! さっきのチョコレートといい、やっぱりオレンジピールは正解でしたね。あ、大臣さんはマカロンもっと欲しいんですか? どうぞどうぞ」
「くう! くーくーくー! くるるー!」
最初は襲われているのかと思った。いや、そう思いたかったのだ。
異形の生命体が、黒い頭巾と修道服といういでたちの少女に群がっている。
数多の戦場で魂喰らいの異形を倒してきたヴィクターの勘が告げている。そこにいるのは、紛れもないガーランゼたちだと。
しかし、どうしたことだろう。
ガーランゼたちは、ヴィクターが見たことのない形態をしていた。既知の怪物体や神秘体ではない。何というべきか、『もこもこ』とか『ふわふわ』とかいう感じの擬音を使うのがしっくりくる、ゆるくてのんびりした丸っこい生き物に見えた。
「きゅー」「くう」「もぬぬ」「ぽふー」
おまけに気の抜けるような鳴き声までついてきた。
状況もおかしい。巨大な環のように見える装置、あれは恐らく異次元と繋がる門だろう。だがその前に置かれた場違いなテーブルと椅子、その上に並んだ茶器や三段のケーキスタンドは何だ。そして大量の菓子やら軽食やらを次々にバスケットから取り出し、にこにこしながら奇妙なガーランゼたちに話しかけている少女はいったい何者だ?
「わっ、みんな押さないで! 慌てなくても大丈夫ですよ。お茶もお菓子もたくさんありますからね。そのかわり約束です。仲良くみんなで分け合うこと。お茶会は笑顔で楽しく、ですよ! 約束してくれたら、今度は人間のみんなも連れて一緒にパーティをしましょう!」
花が咲くような笑顔だと、あらゆる戸惑いより先にヴィクターは思った。
きらきらした瞳、快活な笑顔、柔らかな声。
まるで悪い夢。少女の全ては、ヴィクターという存在をまるごと否定する毒だ。
「あっ、向こうから新しいお友達ですね! ちょっと行ってきます」
次元を繋ぐ門が遠雷のような音を響かせると、環の内にある景色が歪み、ゆっくりと異質な何かが現れる。それは人類の根源的恐怖を反映した怪物たち。
森の奥に潜む熊や狼といった猛獣を掛け合わせた恐るべき巨獣。あるいは超越的な神性として畏怖される天の使いや人に不吉をもたらす悪霊。
しかし、少女はそんな恐るべき怪物たちに臆することなく駆け寄り、両手でクッキーを差し出しながらこう語り掛けた。
「はじめまして! わたし、トルテって言います。よかったらお友達になりませんか、一緒に楽しいお茶会をしましょう! 美味しいお菓子がいっぱいですよ!」
愚かとしか思えなかった。
ガーランゼが現れてからというもの、意思疎通を試みる者は数限りなくいた。
しかし人の心を喰らう怪物たちはオウム返しに言葉を繰り返したり、取り込んだ記憶や知識を元に模倣することしかできなかった。
奴らに知性はない。それが人類社会の結論だ。
しかし、ヴィクターの目の前では信じがたいことが起きていた。
トルテと名乗った少女の『餌付け』は何の困難もなく成功し、お菓子を口にした怪物たちは次々と可愛いらしい『ふわふわ』『もこもこ』に変貌していったのだ。
異常、奇怪、あるいは奇跡。
いずれにせよ、この空間にはあらゆる常識が通用しない。
闘争も流血も勝利もない場所は、ヴィクターにとっては目の毒でしかない。
いや、違う。ヴィクターは呆然とその光景を見ながら確信を抱いた。
毒は自分の方だ。
優しい世界に、ヴィクターという異物は存在できない。
「ここに来るまで色々大変でしたけど、諦めなくて本当によかった。今までの子たちと一緒で、王様がちゃんと話せば分かってくれる方で嬉しいです。これでやっと、悲しい戦争をおしまいにできますね」
「きゅー! きゅっきゅー!」
「ええ、そうですね。これからは仲良くしましょうね。大丈夫、相手のことを考えてきちんと向き合えば、必ずわかりあえるんですから!」
影の世界を照らす光のような少女を見ながら、ヴィクターはただ立ち尽くす。
勝利だけが世界に平和をもたらすと信じていた。
だが違った。決定的に変容した全てを前に、少年はただ無力を噛みしめる。
輝くような平和、自分が勝ち取るはずだった世界は、血みどろの闘争ではなく優しく朗らかな少女の純心によってもたらされた。この光はじきに世界中に広がるだろう。
その日、ヴィクターは世界のジャンルが変わる瞬間を確かに目撃した。
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