忸怩
黒井ほむら
攻防の幕開け
男は忸怩たる思いであった。
一人暮らしの静かなリビング。ソファーに身を委ねるように腰掛け、数十分前の出来事を思い出しては真っ赤になる顔を手で覆いながらうなだれた。
「何であんな嘘をついてしまったのか」
その思いと後悔だけが頭の中を堂々巡りしていた。
男に趣味などなかった。休日となれば決まって自宅アパートのベランダから見えるショッピングセンターへ行き、店内をプラプラと散策していた。特段買いたいものがあるわけではない。だが生まれつきの性分なのだろう、お値打ち品に目がなかった。「割引」「セール」「半額」の文字を見れば元値はいくらだろうと関係ない、安く手に入ったという喜びだけが男をひそかに満足させていた。
そのくせ安値に目のない自分を誰にも見せたくないプライドだけは人一倍高かった。店内を歩く男の目はいつもまっすぐ遠くを見据えて歩いていた。視線をあちこち移す人たちとすれ違いながら、さも自分は目的のある店へ一直線で向かっているかのように。だが、実のところ良い品がないか尻目で探すのに必死だった。そんなつまらない小さなプライドだった。
ある休日の昼下がり、男がいつものように店内を歩いている時、「無料でプレゼント」の文字が目に飛び込んできた。男はおもちゃ屋の前で思わず足を止め、店内の少し奥にあるレジ下のポスターにぐっと目を凝らす。
「スペシャルトレカを無料でプレゼント!! 店員に『ウルトラライダー』と声を掛けてね!!」
この春にテレビ放送が始まった特撮ヒーローのキャンペーンらしい。先日三十路に足を踏み入れた男に興味などあるはずがない。が、男の足はレジの方へと進んでいた。もらえるものはもらっとく、そんな卑しさが染みついた体が勝手に動いていた。
男はレジ近くにいた恐らく大学生アルバイトだろう、かわいらしい黒髪ロングの女性店員に声を掛けた。
「ウルトラライダー」
「はい…?」
女性店員は書類を整理していた手を止めると、緑色エプロンの胸ポケットにペンを入れながら、確かに聞こえたが予期せぬ言葉に優しい声で聞き返した。
男は何食わぬ顔で繰り返す。
「ウルトラライダー」
些細でくだらない攻防が幕を開けた。
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