レンズの彼方の世界より
馬村 ありん
前編
羽目板の壁の向こうからは、それとわかるほど
この文章を書き終わるころ私はすでにこの世にいないだろう。
この文章を最初に読むもの――それがこの屋敷の使用人になるのか、通報を受けて駆けつけたアーカム警察の捜査員になるのか、ミスカトニック大学で教鞭をとる我が甥っ子になるのかはわからないが――が一読し、私を狂人と見なすのは想像に難くない。
だが、私はこの世を去る前に、警告しなければならない。
決してこの眼鏡を手に取り、その向こう側をのぞきこもうなどという、好奇心に駆られた行動を取るようなことがあってはならないのだと。
では、なぜ私がこの眼鏡を地中深くに埋めたり、ダイナマイトで粉々に破壊することなく、いまもって後生大事にとっておいているのかといえば、この宇宙的な恐怖を秘めた創造物に取り憑かれてしまっているからにほかならない。
もはやどこにも逃げ場のない私は、レンズをのぞいて、やがて来るべきかの者たちがどのくらいまでせまっているのかを推しはかるためにこれを用いているのだ。
これは「断頭台の分厚く頑丈な刃が、いつその首に落ちようとしているのかを、まばたきすることなく見届けようとしている受刑者」の態度に等しく、自虐的な行為であるが、いまの私は死を受け入れることも、それから逃れようと必死にあがくことも、狂気に陥ってすべてを忘れようとするのも難しくなっている――すべての真実を知ってしまったからである。
その眼鏡を私にもたらしたのは、ある日のこと私が「アーカム・アドヴァタイザー」紙に寄稿した、無神論の信条に基づいて執筆した小論がきっかけになったことは間違えようがない。
この小論についての詳細ははぶくことにするが、宗教家やオカルティストが信じるものは何ひとつ証拠がないのだということを論じるものであり、もし超常現象を証明するものがあれば、我がもとに持って来るがいいと挑発を展開するものであった。
「アドヴァタイザー」の既知の編集者ゲイリー・ゴードンとともに、はたしてどのようなものが送られてくるか――噴飯ものの偽書にはじまり、南太平洋の部族が作り上げた土偶、ローマの遺跡から発掘された石灰石の破片といった
ふたを開けてみたところ、届いたのはたった一件の小包だけだった。両の手のひらに収まるサイズの木箱で、差出先はニューヨーク、差出人はエルマー・マルコスという名前だった。マルコスはそうやって、例の眼鏡を届けてきたのである。
小包には二通の封筒が同封されていた。片方のうちマルコスの署名のあるほうを開封して、タイピングされた便せんを手に取った。そこには、英語の筆記体で原稿数枚分にも及ぶ長文が書き連ねられていた。
――親愛なるウィリアム・ローソン殿
私は教養ある人間とは言えず、身分の高い家に生まれたとも言い難いのですが、学識豊かな方々の知見から学んで気づきを得ることをもっぱらの楽しみとし、新聞があればその隅から隅までを読み込むことを宗としております。
フィクションを読むことも趣味のひとつで、ローソン殿の近著『チャールズ・カーターの未知なる闇に
さて、この度このようなものをお送りしましたのは、先日「アーカム・アドヴァタイザー」紙に掲載されたローソン殿のご意見に異義を唱えるためでは毛頭ありません。
むしろ賛意を示すことにためらいのない私ではありますが、この眼鏡の存在については態度を明確にすることに忌避感を覚えてしまうのです。
ご覧になっていただければわかることですが、この眼鏡はブリッジで渡され、フレームのついたこの立派な作りになっております。フレームはよく磨かれた黄銅製で見た目も華やかで、貴殿のような高貴な方々が度々訪れる夜会といった華やかな場所でもひときわ人目を引くものであることは疑いようがありません。
……私は手紙から顔を上げると、小包のなかを探った。すると、梱包材に包まれて出てきたのは真鍮を思わせるプラチナ色の眼鏡ケースであり、そのフタを開けると、なるほど、そのなかに収められていたのは、文中にあった金色フレームの眼鏡であった。
その作りからは上品さと繊細さが感じられ、私はうっとりとそれをながめた。
私は手紙に目を戻した。
――この眼鏡の出どころは日本です。
先の戦争で、我が息子が東京に駐留した際に得たものとなります。なんでも東京の名士の邸宅が、アメリカ軍の空襲によって発生した小火災に遭い、この機に乗じて地元の夜盗が盗み出した数々の財宝のなかに、この眼鏡があったのだとか。
夜盗は、ジープに乗って街をパトロールしていた息子にこの眼鏡と引き換えに食料を要求したのです。
夜盗の男が、見返りに要求したのはパンひとつだけでしたから、日本を占領している進駐軍であるとはいえ、あまりに不公平な取引を持ちかけられたことに、息子は不信感を抱きました。なぜここまで安く見積もっているのかを、彼は日本語で問いただしました。
男がいうには、その眼鏡を持っていたところ、悪夢を見るようになったからだということでした。その悪夢というのが、あまりに奇妙であることから早く手放したいという気持ちが芽生えたようなのです。
興味をもった息子は男に、話を続けさせました。
男の夢は、都市にまつわるものでした。その都市は細長い摩天楼のような建物が林立し、その建物というのも上から下まで長さ十キロメートルはあるという、驚愕すべき高さを持つものでした。形状は幾何学的で、まるで黒曜石のようになめらかな質感のある素材でできていたということでした。
男はいつも決まってビルの頂上に立ち、下をながめてはこの光景に
さらに男を怯えさせるのは、その摩天楼の窓――あるいは出入口なのかもしれません――から垣間見える「都市住民」の姿です。
その姿を目にした時、男はきまって悲鳴とともに目が覚め、ベッドに半身を起こしたときには忘れてしまっているのだそうです。
ただ、思い出そうとすると本能的な恐怖がせり上がってきて、それ以上の探求が自制されてしまうといい、男はそれ以上その想像力を発揮することをしなかったようでした。
後半に続く
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