#2

 気分を新たにしてデスクに戻ると、時計の針は就業時間を10分程通り過ぎていた。


 人も疎らになった空間に佇んだ僕は、変に吹っ切れた頭で残った仕事に向き合う事なく退勤の準備を始める。こんなにも気分が塞いでしまう厄日なら、いっそのこと悉く「じゃない方」を選んでやろうじゃないか──。


 いつになく捻くれたお陰でテンションが上がった僕を不思議そうに見つめる残業組の視線を無視してパソコンの電源を落とすと、遠くから様子を窺うように「吉岡?」と上司の声が響く。


「はい?」

「今日は……その、早いんだな」

「えぇ」


 口の端を態とらしく吊り上げて笑った僕の心情を探るみたいに、「そう……か」と顎に手を当てながら首を傾げる彼が唸ると、周りの連中も目を瞬いてヒソヒソと言葉を交わし出す。


「まぁ、たまには休むのも大切だからな。特に最近は仕事に対して少しのめり込んでいるようだったから、残業しないなんて珍しいと思っただけだ……あんまり無理をするなよ」


 かなり気を遣った表現に悪態をつきたくなるのを抑えつつ上司を見据えた僕は、気不味さも相俟って彼の瞳を直視出来ないまま鼻のあたりに視線を彷徨わせる。


「お気遣い、ありがとうございます……」


 綯い交ぜになった感情が心のパレットに黒く塗り広がってゆくのを自嘲した僕は、表情を隠すように恭しく頭を下げて会社を出ると、日の沈んだ街並みは人工的な明かりで彩られていた。いつもなら自宅への最短ルートとなる、終電ギリギリで駆け込む駅を通り越し、酒と人の匂いが溢れたアーケードを潜る。


 本当は自分で作る食事の方が薄味で好みだが、今日はどうしても体の中の全てを『自分らしくない』で満たしてしまいたかった。


「ねぇお兄さん」


 軒を連ねる数々の居酒屋に迷う僕の背から掛けられたその声は、不純な夜の街に溶け込むことなく儚げに透き通る。まるで金縛りにでも遭ったようにぎこちない体でゆっくりと振り返った僕の視線の先には、見覚えのない1人の女性がガードレールに背を預けて立っていた。


「お兄さんってば」


 小柄で華奢な彼女は、小さな顔に不釣り合いな程ツバの広い帽子の隙間から印象的な垂れ目にクリクリの大きな瞳を覗かせると、片腕を抱くようにしなを作って微笑む。


「……僕、ですか?」


 ゴクリと音を立てた喉が、声の出し方を忘れたように上擦る。その様子が余程面白かったのか、彼女は肩に掛かる長さの茶髪を揺らしてケタケタと笑うと、「『お兄さん』って言ったら、お兄さんの事でしょ、フツー」と憎まれ口を叩いてみせた。


 オーバーサイズのTシャツにジーンズ生地のネイビーが鮮やかなホットパンツを着こなした彼女は、夜の喧騒を纏って僕の前に躍り出ると、しっとりとした双眸を輝かせて擦り寄る。


「お兄さんってさ……今、幸せ?」


 鼻先が触れ合う数センチを埋めるみたく背伸びをした彼女は、婀娜っぽさを強調するような艶ぼくろと赤く滑らかな唇で、秘密を分け合うようにそっと囁いた。

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