季節に別れを告げる
楸
春一番
◇
冬という存在を忘れさせてなるものか、そんな風が一体に吹いていた。時候については春であるはずなのに、どうにもこの風は人を殺すような冷たさを孕んでいる気がする。乾いた感触、鳥肌が立つ感覚、そのすべてがまだ冬なのでは、と考える原因としては十分だった。
一週間ほど前までは春の気配を感じることができていた。今の天候と比べれば、冬というものを忘れさせてくれるような、そんな温い空気が周囲を支配してくれていた。あまりにも温暖だったせいで、着るものを間違えてしまったのではないか。週末に思い立って出かけてみたら、そんな気持ちを抱いてしまうことになった。
そんな戸惑いを当時は覚えていたけれど、やはり服装について、現在の環境を考えれば間違っていないような気がする。季節は確かにまだ春ではなかった。
いつもしたばかりを向く悪癖がついて回る。幼いころと比較して、上を見る回数は少なくなってしまった。どこか暗い気持ちを抱えたままで地面のほうに向いてしまっている。枯れた木の葉に交じり合うように、つぶれた桜の葉っぱが視界に入った。こんなものを視界に入れるくらいならば、きっと上を向いていたほうが心地のいい時間をだいぶと過ごせるはずだ。
そんなことを思って、上のほうを向く。先ほどまで曇天に飾られていた空は、風に流されているせいか、青色だけを映えさせている。
ほら、やっぱりそうだ。上を向いていたほうが、きっと生きやすいのだ。
◇
梓 桃李という男は名前で呼ばれることを嫌う男だった。
梓、と彼を苗字で呼べば「女のような苗字で嫌なんだ。やめてくれ」と返してくるし、それならばと下のほうの名前で呼べば「俺とお前はそこまで親しくないだろ」とイラついたような表情でそう言われた。
「それならどんな風に呼べばいいんだよ」
僕が彼に対してそういうと「好きに呼びなよ」と言葉を返す。
「結局、呼ぶも呼ばないもお前の自由だろうに。俺の意思なんかに左右されていちゃ意味がない」
へえ、と僕は感心したように息を吐く。
「それなら梓ちゃんって呼ぶわ」
「ぶっ飛ばすぞ」
そんな軽口から、彼との関係は始まった。
◇
屋上にいても楽しいことはないはずなのに、それでも高い場所に来てしまうのは、自分が煙と同じような存在だからだろうか。そんなことを梓に吐いてみると、彼は「単純にバカだからだろ」と返してくる。
「それなら梓がここに来るのは?」
「俺もバカだからだろうな」
へえ、と興味もないように言葉を返す。それから会話はなかった。
三月の中旬。もうすぐで僕たちは卒業をすることになる。
屋上に昇った回数はいくらほどだろう。それを考えてみようと思ったけれど、少しばかり途方もないような気がして、すぐにその思考を止める。
空は一点の雲も存在しない青色だというのに、それでも寒い空気で環境を支配している。太陽はそこにあるはずなのに、夏のような人を殺す日射を僕たちに注ぐことはない。夏ほどの熱気を望んでいるわけではないが、もうそろそろで季節が変わるというのならば、太陽という存在が働いてくれてもいいように思う。
そんなどうでもいい思考を働かせていると、不意に梓が「なあ」と口を開いた。
「俺たち、本当に卒業するのかな」
「まあ、卒業するだろうさ。あと三日もすれば確実に」
卒業式は三日後。週末を控えた金曜日に行われる。
僕たちは卒業する。でも、そこに何か感慨を抱けるような気がしない。
感慨を抱けないのはなんでなんだろう。それほどまで高校生活というものを楽しんでいなかっただろうか。真面目に高校生活というものを過ごしていれば、そんな感慨を抱けるというのだろうか。
「僕たちは何を卒業するっていうんだろうね」
「そんな歌詞聞いたことあるな。チェッカーズだっけ」
「そうなの? 知らない」
僕がそういうと、梓は制服のポケットに手を突っ込んで、携帯を取り出す。携帯を取り出して、タップを刻んで、何かを調べて「あったぞ」と動画を再生した。
昔聞いたことがあるような曲調、というか昔の曲だった。不良ソング、という感じかもわからない。
「それはさておき、高校生っていうのを卒業するんじゃないのか? 知らんけど」
「そのまんまだね。ほかになんかないの?」
「んー。お前は進学だろ? 俺は就職だから、学生という身分を卒業するかな」
「僕はどうだろう?」
「知らねーよ、自分で考えな」
彼はぶっきらぼうにそう返す。彼がそういうのならば仕方がない。僕は冷たい風に触れながら、静かに考えることにした。
◇
卒業式が間近だった。でも、何を卒業するのかはやはりわからないままだ。答えは見つかりそうもないし、別に見つけたところで何かが変わるというわけでもないだろう。
卒業、卒業ってなんだろう。よくわからないまま卒業というものを迎えようとしている。
小学生の時の卒業式はなぜか泣いてしまったな。小学生の時は三年間担任をしていた先生が泣き崩れて、つられて泣いてしまったんだっけ。中学生の時はどうだろう。特に泣かなかったような気がする。中学生の時の友人とは関係性が永続すると思っていたから、別れを惜しむ必要はない。だから悲しむことはなかった。でも、今では関係が希薄だ。
あの時も、あの時も、僕は卒業することができたのだろうか。よくわからない。こんなことに悩むなんて、本当に子供っぽいような気がする。だいたいの人間がそんなことを考えることなく、呆然と卒業を迎えるだろうに、どうしてこんな思考にとらわれてしまっているのだろう。
僕は高校生活に何かを求めていたのだろうか。高校生活でやり残したことがあるのだろうか。
そんなことを考えても、特に思いつくものもない。
◇
心地のいい香りが鼻腔をくすぐった。その心地よさは花の香りだと思う。だが、その花がどういった品種なのかを知ることはない。
外の温度は温い空気だ。来ている制服が少しばかり暑く感じてしまう。でも、これは季節が冬を卒業しようとしているのだと思う。だから、文句をつぶやくつもりにはならなかった。
みんなで整列して、静かな空気。誰かがしゃべることはなく、沈黙のまま体育館のほうに移動。
足音だけが響く。体育館への道は遠くないはずなのに、どこか遠くに感じてしまう。一歩一歩が億劫になるような、そんな感じ。背中が空に引っ張られているような緊張感と、力を抜きたくなる気持ち。でも、背筋を張ることをやめられない。
閉じた体育館のほうから聞こえてくる拍手の音、それっぽい音楽の重なり。近づくたびに大きくなって、そうして扉は軋みながらゆっくり開く。
卒業、卒業、卒業。
それでも、やはり卒業というものはわからないのだけど。
◇
「終わっちまったな、高校生活」
解散の運びになって、僕たちは屋上に集まった。
屋上に集まるという約束をしていたわけではない。でも、自然といつものように集まってしまった。
彼は外の世界をぼんやりと見つめている。その視線を追いかけるように、屋上から下の世界を見やれば、僕と同じように卒業する同級生のみんなや、その家族らしき人の群れが見れる。グループがそれぞれに分かれていたり、泣きそうになっている教師を発見したりして楽しくなる。
「そういやお前の母ちゃんとかは来ないの?」
梓は僕にそう聞いてくる。僕はそれに首を振った。そっか、と彼は苦笑した。俺も同じなんだ、と言葉を付け加えながら。
「結局、何を卒業するかなんてわからないままだったな」
「別に気にしなくてもいいんじゃね? 卒業した、っていうなら卒業したでいいんだろ」
僕は彼の言葉に静かにうなずいた。そうなんだろうね、と意味深長な言葉を吐いた。
今日の卒業式には、かなしさも、うれしさも、なにも抱ける気はしない。
それは僕がまだ子供だから。子供でいたいから。なんとなく、そんな感じがする。
「ま、これでお前とは最後になるかもしれないな」
「そんなひどいこと言う?」
「……えっ? だって、会えるかどうかなんてわからないだろ?」
彼はあきらめたような顔で苦笑する。太陽にあてられた黒髪が、少しだけ茶色になっているように感じた。
「こういうときに会う約束をするようなやつ、それまでの関係性でしかないと思うんだよ、俺。縁がこの後にもあるようなやつは自然な形で出会うだろうし、無理に強制するような関係性は俺が望むことではない。俺はすべてが自然であってほしい。だから、ここで別れを告げて、また会うことができれば、それって嬉しいことにつながるだろ」
「……そんなもん?」
「ああ、そんなもんだよ」
彼はそんなことを呟いた。
それが、彼なりの卒業に対する見方なのだろう。僕は彼の言葉をそう受け取ることにした。
卒業とは。卒業とは。卒業とは。卒業とは。卒業とは。
その思考に結末がつくことはない。
一つ見出せそうなことがある。人間関係というものについて。でも、彼の言葉をその通りだと思ってしまったから、それが卒業という括りであっているのか、疑問を抱いてしまう。
終わってしまっても、どこかで始まる縁がある。
卒業をしてしまっても、どこかで何かにつながるかもしれない。
厳密にいえば、卒業なんて言うものは言葉だけで、その本質は存在しないのかもしれない。
わからない、わからないけれど、そんなもんだろうと思う。
ははっ、と僕は空を見上げながら笑ってしまう。
こんなことに気づくまで、結構な時間がかかってしまった。
世界の温もりが僕たちを閉ざすような感覚を覚えた。冬という季節は卒業を迎えた。春というものを感じさせる温いだけの空気がそこにある。
ひとつ、そこに吹いてくる風。雲を流す強い風。
きっと春の始まりを告げてくれる風だ。そんな感慨を、僕はこの風に抱くことができた。
季節に別れを告げる 楸 @Hisagi1037
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