眼鏡買い替えました

宮塚恵一

🕶️

 サウナから出て、眼鏡置き場にある眼鏡を手にとる。その時ふと、最後に眼鏡を買い替えたのはいつだったろう、と気になった。汚くなった柄部分を交換してもらったりはしているものの、眼鏡そのものを買い替えるってことはもうずっとしていないんじゃないか。今使っているこの眼鏡を買ったのは、確か大学を卒業する前に就職活動をしていた頃だから、記憶が間違っていなければもう十年は同じ眼鏡を使い続けていると思う。

 眼鏡のレンズの汚れやちょっとしたヒビを見て、買い替えたいなとは思うものの、そんな余裕もなくそのまま使い続けて来た。特段、不便を感じてはいないので普段は気にならないが。


 眼鏡は贅沢品だと思う。一つ買うのに数千円かかる。そんなものにお金を使うなら、明日の味噌汁に入れる具材を安く売っているスーパーに足を運んだ方が良い。


 そんなことを考えつつ水風呂に浸かり、外気浴をする。気持ちの良いふわりとした気分が脳内を支配する。サウナというのも贅沢品だが、こうして実際に体験してみるとその良さがわかる。以前、友人から無料券を数枚手に入れたものだから、何ヶ月かにいっぺんくらいの頻度で来ているが、この気持ち良さは癖になりそうだ。


 外気浴を終え、気持ちスッキリして脱衣所に戻り服を着る。スマホの通知を見て、少しだけ気分が落ち込んだ。


 弁護士からの、離婚調停の打ち合わせの日取りを伝える連絡だった。三連休の初日の夜をさっぱりした気分で終わりにしようとしていたのに、せっかくの気分の良さが台無しだ。


 俺が妻の不倫に気付いたのは、彼女がそれを始めてから既に三年が経っていた。夫婦生活が特段悪いものだったとは思っていない。会社の飲み会なんかは絶対に断り、二人の時間は大切にしていたつもりだし、不自由と言うほどの不自由も与えなかったと思う。ただ俺に甲斐性がなく彼女を幸せにしてやれなかったのは事実であったから、俺は彼女のそれを知ってもショックは受けなかった。ああ、やっぱりなとそう思っただけだ。俺よりも良い男を見つけて幸せを手に入れられるのならば、俺は身を引くことに躊躇はない。ただ、気分の落ち込みがゼロというわけには当然いかない。当たり前だと思っていた妻との生活がもうすぐ終わり、世界が変わるのは億劫だ。


 俺は弁護士のメッセージに用件だけ返信した。せめて帰るまでの間は一旦このことは忘れよう。

 そう思ってスマホをしまおうとしたら、着信があった。会社の後輩からだ。


「あ、先輩」

「悠司か、どうした」

「ちょっと今、こないだ先輩と行ったカラオケバーで飲んでるんですけど、先輩もどうかなって」

「悪いな、今は無理だ」

「そうでしたか。大丈夫です、ダメ元だったんで。先輩、今何やってるんですか?」

「サウナに行ってた」

「サウナ? へー、意外。先輩サウナ行くんですね」

「まあな」

「あ、じゃあ。サウナの方今度ご一緒しても?」

「別に構わないが」

「お、言いましたね。じゃあその辺はまた後で。それではー」


 一方的に電話を架けて一方的に切りやがった。

 悠司とは、離婚調停が始まるくらいの頃から少し仲良くしている。あまり職場の人間とプライベートでの付き合いがない俺だが、あの頃は流石に飲みに行きたい気分だったので、たまたま暇そうだった悠司に声をかけたら滅法嬉しそうについてきてくれた。それからランチを毎日一緒に食べるくらいの仲にはなり、こうしてたまにプライベートでも連絡をしてくる。正直な話、今の俺にとって悠司はかなりの癒しだった。

 であるのに、バーへの誘いを断ったのは、行ってはみたは良いものの、やはりあの手の店の食事単価は高く、あんな贅沢品に手を出すのはあの日のような、ちょっと特別な日だけで良いと思ったからだ。


 帰り道、スマホでGLAYの曲を自分の車内で流しながら家に向かう。ガソリンが後少ししかないことが気になったが、今はクーポンを持っていない。家までは全然持ちそうだし、補給はまた明日以降で良いだろう。


「ただいま」


 家に着き、そう言葉にしても返事はない。妻は彼女の実家に帰っているし、妻がデパートで一目惚れした愛犬ポメラニアンのおちょこも彼女が連れて行った。


 誰もいない、一人の生活。誰に煩わされることもないような生活を全く夢想していなかったかと言うと嘘になる。一人の時間が欲しいとは確かに思ってはいた。だが、俺が望んでいたのは、こういうことじゃなかったはずだ。

 テレビをつけると、若手のお笑い芸人がネタを披露する番組をやっていた。芸人達は声を張って、自らの面白さをアピールしているが、彼らの声は俺のがらんどうを吹き抜けていくばかりで何も響かない。

 時計を見ると、まだ午後九時だった。夜というにはまだ浅い。俺はコーヒーメイカーでコーヒーを淹れる。このコーヒーメイカーも、そういえば妻に誕生日プレゼントで買ったものであったことを思い出す。

 コーヒーができるまでの間、手持ち無沙汰になった俺は悠司に電話した。


「お、先輩どうしました?」

 ワンコールで出た。


「お前まだ飲んでるのか?」

「飲んでますよー。今は煙草休憩で外です。どうしました? やっぱり来ます」

「そうしようかと思ってな」

「マジっすか!? 何時頃着きます?」

「前に行ったあの店だろ? 三十分もかかんないかな」

「了解です。あ、なんか先に頼んどきましょうか?」

「じゃあ、生を一杯頼む」

「承りましたー」


 俺は電話を切り、さっき玄関に置いたままの車のキーを握って外に出ようとして、酒を飲むのだから車はダメなことに思い至る。歩いて行ける距離ではあるが、三十分で着くと行った手前、あまり待たせるのも悪い。

 俺は最寄りの駅まで向かい、タクシーを拾った。思わぬところで無駄な出費だ。少しだけ心に苛々が募る。だが、これでやっぱりやめておくというのも良くない。俺は無心を心がける。仕方ない。明日の昼飯でも抜けば良い。無心になれない。この時間タクシーだとどのくらいかかるんだったか。邪念が消えない。

 気付けばバーに到着する。十分もかからなかった。思っていたより近い。


 店に入ると、悠司が俺に気付いて手招きした。


「早かったですね。まだ俺、ビール頼んでませんけど」

「別に良い」

「あ、先輩なんか歌います?」

「そうだな」


 俺はさっきまで聞いていたGLAYの曲をリクエストして、ビールを頼んだ。他の客が楽しそうに歌っているのをぼんやりと見ていると、注文したビールがマスターから手渡された。


「乾杯」

「かんぱーい」


 俺は悠司とグラスを鳴らし、ごくりとビールを飲む。久しぶりの生ビールは冷やりとして、しかし胸を温めた。

 しばらくしたら自分の番が来て、俺はマイクを前の客から受け取った。咳払いをし、大声で熱唱する。悠司やマスター、他の客の盛り上がりに応えるように俺は腕を振り上げて歌う。

 ひとしきり歌った頃にはもう、零時を跨いでいた。


「あー、ミスった。電車ないや」


 悠司がポツリと後悔の声を漏らす。


「ウチ来るか? 歩いてそう遠くないが」

 酒が入って上機嫌な俺は、悠司に提案した。

「良いんですか? 家族に悪くないです?」

「誰もいない」

「あれ? 先輩、奥さんは?」

「今はいない。実家に帰省中だ」

「あ、そうなんですね? じゃあお言葉に甘えちゃおうかなあ」


 俺と悠司は、酒で少しフラフラになりながらも俺の家に歩いて向かった。玄関の戸を開けて、ただいまの声をかける。


「お邪魔しまーす」

 隣にいた悠司がおずおずと、部屋に入るのを見て俺は笑った。いつもズケズケとしているくせに、変に神妙になる時がある。


 出かける前にコーヒーメイカーで淹れたコーヒーを温め直して、悠司と俺の分を注いだ。

 コーヒーを飲んでいる間に睡魔が襲い、瞼が落ちる。ソファでは気付けば、さっきまでおずおずとしていた癖に悠司が横になっている。俺は寝室から毛布を持って来て悠司に掛けてやる。悠司の眠る横で座って、サウナには行ったが一度外出したんだからシャワーは浴びるか、などと考えていたら、俺もいつの間にか眠っていたらしい。次に目を開けた時には既に朝日が昇っていた。


「あ、先輩おはようございます」


 俺が目を覚ましたのに気付いた悠司が、バツの悪そうな様子でそう言った。


「おはよう。よく寝れたか?」

「はい、それはもう。あのう、それでですね。これなんですけどもお」


 悠司が背中からゆっくりと何かを俺に差し出した。何を持っているのかよく見えない。視界がぼんやりしている。そこで改めて、昨夜眼鏡をしたまま眠ったことを思い出した。


「あれ、それ」


 その眼鏡を悠司が持っていた。しかし、見慣れた眼鏡の形からは変形し、レンズが割れて縁もひしゃげている。


「すみません、先輩!」

 悠司は勢いよく頭を下げた。

「起きた時に足元に落ちてたの踏んでしまいました! 弁償しますので、この通り!」

「あー、いいよ。掛けたまま寝ちゃった俺も悪いし」

「替えとかってあります?」

「ない。これしか持ってなかったから」

「ま、マジですかあ。この近く、眼鏡屋さんありますか?」

「どうだったかな」

「ちょっと待ってください」


 悠司はスマホを取り出して、何やら検索し始めた。


「あった。先輩の家から歩いて五分くらいのとこに眼鏡屋、ありますよ」

「そうなんだ」


 あまり気にしたことはなかった。でも確かに、デカデカと眼鏡をアピールした看板を見かけたことがあるような気がする。

「あのう、お付き合いいただいても?」

「わかった。俺もこれないと困るし」


 今にも泣きそうな顔をしていた悠司の顔が、ぱあと晴れやかになる。全くもって、見ていて飽きない若者だと思う。

 悠司と一緒に眼鏡屋まで来て、久しぶりに眼鏡選びをした。実に十年ぶり。新卒の時以来の眼鏡選びに少しあたふたとした気持ちにはなったが、後輩の手前あまり無様な姿を見せたくもなかったので、平気なフリをして一つ気に入った眼鏡を選んだ。


「ほんと、すみません」


 新しい眼鏡ができるまでの間、近くのカフェでコーヒーを飲んだ。自分が悪いのでここも奢らせてくださいと悠司は言ったが、そこは割り勘にさせてもらった。

 眼鏡が出来上がり、俺は十年ぶりの新しい眼鏡を装着する。

 いかがですか、という店員の声に、俺は「ああ」と短く答えた。


 こんなにも。


 世界はこんなにも開けていたか? 毎年の定期検診で視力は確認していたから、そこまで眼鏡の度がズレていたわけではなかったものの、今回眼鏡を作るにあたって改めて検査をしてもらい、自分にしっかりあった度数で作ってもらった。

 思えば、度が合う合わない以前に、十年使い古した眼鏡は傷だらけであったのだから、まっさらに綺麗なレンズを掛けた時に、見え方が違うのは当然だった。


「悠司、今日の予定は?」

「今日ですか。特には決めてなかったです」

「ならせっかくだし、今日もどっか飲みにいくか」

「い、良いんですか?」

「ああ」


 俺は思わず笑みをこぼした。


「今度は俺の奢りだ」

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眼鏡買い替えました 宮塚恵一 @miyaduka3rd

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