第8話 小さい黒犬
「うっ!」
もう一生這い上がれないと思えるほどに暗く深い泥沼にいた僕の意識を、腹部に伸し掛かる重さが引きずり起こした。
最悪の目覚めという程ではないが、出来る事ならカーテンの隙間から差し込む暖かな日差しで目覚めたかったものだ。
そんな事を思いつつ、物理的に重い身体を起き上がらせる。重さの原因になっていた黒犬は、腹部が縦になった事により足の付け根に移動していた。そこからくりっとした目で見上げてくる何とも可愛らしい黒犬の頭を撫で、掛け布団を外そうとして、動きが止まった。
「あれ? 僕、犬なんか飼ってたっけ?」
猛スピードで思考を巡らす。過去の記憶を遡り、必死に黒犬を探してみるが、そんな存在は刻まれていなかった。つまりそれは、黒犬がこの家の住人ではない事を表していて。
「どこかから迷い込んじゃったのかな。首輪も付いてないし、誰かの飼い犬って訳じゃないと思うけど。お前、どこから入って来たんだ?」
そう聞いても、返ってくるのはアンッという返事だけ。当然、会話が出来るなど思ってもいなかったため、落胆などはしなかったが、それにしても可愛い。世の人がペットを飼いたがる気持ちが少し分かったような気がした。
しかし、いつまでもここに置いておく訳にもいかない。飼いたい気持ちも多少はあるが、何せペット用品が不足しすぎている。それを買い揃えるお金も当然ない。そんな環境で暮らさせるよりは、保護施設に預けて可愛がってくれる里親を探させる方が良いだろう。
「よし。そうと決まれば即行動だな」
『お待ちください、ご主人様』
思い立ったが吉日と言わんばかりに準備に取り掛かろうとしていた僕を、シエラが少々焦った様子で止めてくる。
「どうしたの、シエラ。何かあった?」
『何かあったという程ではないのですが、その黒犬を保護施設に預けるのは止めた方が良いかと』
「どうして?」
『詳しくは、机の上に置いてある手紙を読んだ方が早いかと思います』
「手紙?」
まだ起きて数分。ポストも見に行っていない状況で手紙などあるはずがないと思いながらも、シエラの言葉に従い机へと向かう。
男の机ながらも綺麗に整頓されていたそこには、あるはずのない手紙が我が物顔で堂々と鎮座していた。
「本当にあった。でも、どうして」
『その理由は、手紙を読んでみれば分かると思いますよ』
確かにシエラの言う通りだ。しかし、誰も入ることが出来ない状況で置かれていた手紙というだけで不気味なのに、その見た目は何故かラブレターを模していた。それが読む気力を、勇気をより削いでくる。
それでも読まない訳にはいかない。僕は出来るだけ心を落ち着かせ、冷静な面持ちで手紙を開いた。そこには、記憶にない筆跡と物凄く身に覚えのある口語体が記されていた。
『由生よ、身体はゆっくり休められたかの?
儂じゃよ、儂。原初のダンジョンの主じゃよ。流石に忘れてはいないと思うが、この件、一度やってみたかったんじゃ。手紙越しだが実現できて嬉しいぞ。
さて、儂の個人的な願いも果たせて満足したところで、早速本題じゃ。儂としたことが、由生に伝え忘れていたことがいくつかあっての。それを伝えるために手紙を書いたんじゃ。
まず一つ目じゃが、儂と由生の間にパスを繋いでおいた。これでいつでも原初のダンジョンに戻って来れるし、儂から一方的にはなってしまうが、贈り物も出来る。しかしな、直接会話はできないんじゃ。じゃからこうして手紙を書いているというのもある。
二つ目は、もう既に居るであろう黒犬についてじゃ。結論から言ってしまえば、その黒犬はケルベロスじゃ。お主が倒した後復活させて、今朝方転移させておいた。由生からすれば不安に思うこともあるかもしれないが、まあ安心せい。ケルベロスは一度自分が強いと認めた者には良く懐くし、危害も加えん。言う事もしっかり聞く。今回だってケルベロスが由生の下へ行きたいと言うから行かせたんじゃ。だからまあ、危ないと思わず可愛がってやってくれ。因みにレベルやステータスは元のままじゃぞ。ケルベロスの任意で大きさも変えられる。便利じゃろ。儂がそうしておいた。
とまあ、伝えることはこれ位かの。それじゃあ、また手紙を書く故、それまで元気にしておるのじゃぞ。また会える日を楽しみにしておる』
相変わらずの適当さと、そこから少しだけ垣間見える真面目さに、自然と笑みが零れる。手紙から感じ取れる、何年経っても変わらないだろうと思わせてくれる安心感が僕は好きだった。
それにしても主は、手紙を書くのは初めてなのだろうか。伝えるべき内容はしっかり書かれていたが、所々文の繋ぎが怪しいところがあった。でも、そうまでして手紙を書いてくれたことが堪らなく嬉しく、僕は読み終えた手紙を綺麗に折り畳むと、元通りの状態に戻し、机の引き出しに丁寧に仕舞い込んだ。
そして、現在僕の脚にその柔らかい頬を擦り付けている黒犬を抱き上げると、目線が合う高さまで持ってくる。
主の手紙を読んだ今でも、本当にケルベロスかと疑ってしまうほど小さいその身体からは、あの時のような威圧感は全く感じ取れず、その瞳には敵意の欠片も存在していなかった。
「ねえ、シエラ。この子、本当にケルベロスなのかな。主の言葉を疑う訳じゃないけど、どうにも信じられなくて」
『お気持ちは分かります。私も最初知った時は驚きましたから。もし、しっかりと確認を取りたいのでしたら、鑑定をしてみてはどうでしょうか』
シエラの一言で、今の今まで忘れていた鑑定スキルを思い出す。絶望と共に、ケルベロス攻略の手掛かりをくれたそのスキルを、何故忘れていたのだろうか。恐らく、それほどまでに気が抜けていたせいだろうが。
そんな事を思いながら、早速黒犬へ鑑定を使用する。その結果は……紛れもなくケルベロスだった。主の言っていた通り、レベルもステータスもあの時のままに、姿だけが小さくなっていた。
「本当にケルベロスだったんだな。でも、主が言うには僕に危害は加えないみたいだし、それなら僕が飼っても良いのかな」
『むしろ、ご主人様が飼った方が良いでしょうね。逆にご主人様以外が飼うとなると、ケルベロスがどのような危害を加えるか分かりませんから』
「確かにそうだよね」
シエラと話し合い、黒犬の方向性を決めた僕は、改めて黒犬と目を合わせる。そして僕自身の口から、しっかりとこれからを告げた。
「君はこれから僕の家族だ。何があっても大事にするし、絶対見捨てたりなんかしない。だから、君が嫌になるまで、僕の側にいてね。えっと、クロ!」
その言葉に、クロは嬉しそうにアンッと吠えると抱えていた腕から飛び降り、尻尾をブンブン振りながら僕の周りを走り回った。その姿は普通の犬となんら変わらず、とても愛おしい光景だった。
『因みにご主人様、先ほどのクロと言うのは、ケルベロスの名前ですか』
「そうだけど、やっぱり安直だったかな」
『いえ、可愛らしい名前だと思いますよ』
「ありがとう。そう言えば、シエラは最初からクロがケルベロスだって分かってる感じだったよね。どうして気づけたの」
『クロに直接話しかけられたんです。ほら私、会話スキルですから』
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