プロローグ①

「クッフッフ、いい月ですねえ」

 ほう建築スレスレのプレハブが立ち並ぶせまい路地裏を、サングラスをかけた長身の男がカランコロンと下駄を鳴らしてかつする。うすい雲がヴェールのようにかったおぼろづき。こんな月が出ている夜はのんびりと散歩するのにふさわしい。

 とはいえ本当に散歩しているわけではなく、彼には見回りという重要な役目があるのだが。

 血のように真っ赤なシャツに、黒いベスト。かたにかけたジャケットをひるがえすと、蜘蛛くもを模したしゆうほどこされた裏地があらわになる。

 さらに蜘蛛を想起させるかみがたに、こめかみからり上げ部分にかけてられた蜘蛛のを模した刺青いれずみ。シャツのそでぐちやズボンのすそにも、蜘蛛の模様が入っている。どこをとっても蜘蛛ずくめのこの男の名は、いとめぐりりん蜘蛛くもぬいぐみの若頭を務めている。

 シマの見回りなど若衆に任せておけばいいのだが、たまには自分が出るのもいいだろうと、役目を買って出たのだ。

 しかしあくびが出るほどに平和だ。これも、このたままゆ地区一帯を仕切っている蜘蛛縫組組長、蜘蛛縫しようろうしゆわんがあってこそ。

 若頭を務める輪廻の立場としてはこのへいおんを喜ぶべきなのだが、どうにも退たいくつで仕方がない。

「このままでは立ったままてしまいそうです。何かドカンと目が覚めるような事件は起きませんかねえ」

 ぶつそうにつぶやきながら、路地裏からはんがいへ出ようとする。その時だった。

 色白でせ型、くろかみの気弱そうな青年が、いかにもといった風体の男たちに囲まれて歩いているのが見えた。長い前髪のすきから、落ち着きなく視線をさまよわせている。まるでだれかに助けを求めているようだ。

(おやおや)

 思わず輪廻のくちびるに苦笑がかぶ。青年の様子から察するに、おそらくこれから男たちに言いがかりをつけられて、何かしらのきようはくを受けるのだろう。

 ここが蜘蛛縫組のシマと知ってのろうぜきだろうか。これはきっちりとしつけをせねばなるまい。さぁどんな躾をしようかと考えているだけでこうようし、胸が熱くなる。

 しかし、今出ていくのは時期しようそうだ。100%とまでは言わずとも99・9999%くらいは相手に非がある状態で出て行き、てつついを下さなくては意味がない。その方がかん無きまでにたたきのめすだいが増すというもの。ああ、ぎやく心がうずいて仕方ない。

 輪廻は舌なめずりをし、はめている黒い手袋を整えて静かに時が満ちるのを待つ。

 一メートルもないほどのきんきよで輪廻が必死にたかぶりをおさえているなどと知る由もないチンピラどもは、近くにめていたワンボックスカーに青年を押し込めてドアを閉めた。

 しばらく様子をうかがっていると、チンピラどもが青年をはさんで代わる代わるねこなで声で何かをさとしているようだ。彼らに距離をめられ、青年はどんどん背中を丸めて身をすくめる。そろそろころいだろうか。

 輪廻はすかさず車へ近づき、コツコツと窓を叩いた。

「すみません、路上ちゆうしやはごえんりよ願えませんか?」

 サイドウィンドウがゆっくりと開き、手前に座っているスキンヘッドの男がにらみをかせる。

「あんだ? テメェは」

「玉繭地区じよう委員会のものです。こちらに停められますと、通行のさまたげになってしまいますので、そつこく移動をお願いいたします」

「知るか、そんなモン」

「まぁ、そうおっしゃらずに。私も仕事なので、こんなことは言いたくないのですが。注意に従わない場合、強制退去手続きに移らせていただきます」

 愛想笑いを浮かべる輪廻の胸ぐらを、スキンヘッドの男が手をばしてひっつかむ。

「だーれが浄化委員会だって? ふざけた格好してるくせにホラいてんじゃねーよ。顔に蜘蛛の刺青なんか入れやがって」

「やれやれ……人を見た目で判断するのはよくありませんね。こう見えて、私はじんちくがいいつぱん市民かもしれませんよ?」

 輪廻が肩をすくめてため息をつくと、スキンヘッドの男が額がつくほどに顔を近づけ、低い声ですごんでみせた。

「こっちは大事な商売の話してんだよ。一般市民はすっこんでろ」

「ああ、こわい怖い! アヤをつけないでくださいよ」

 輪廻が両手を上げて飛び退くと、胸ぐらをつかんでいたスキンヘッドの男が引きずられ、わずかに開いたウィンドウの隙間に頭を挟まれてしまった。

「ぎゃっ! テメェ……!」

「これは申しわけありません。あなたの顔があまりにもおそろしくてつい」

「ッざけてんじゃねーぞコラ!」

 スキンヘッドの男がドアを開けて飛び出し、輪廻のみぞおちめがけてこぶしり出す。

 輪廻はそれをひらりとかわし、男の背中を思いっきりり上げた。

「ぐあッ……!」

 スキンヘッドの男が無様に地面へたおれ込む。様子を見ていた他の男たちがいつせいに色めき立った。

「おいこら、一般市民。調子に乗るなよ」

 アロハシャツの男が肩をいからせて車から降りてきた。

「そちらからけてきたので、正当防衛だと思うのですが」

 輪廻がひらひらと手をってみせると、アロハシャツの男がポケットに手を入れたままゆっくりと近づいてくる。

「こういう時にくつばっかりこねてるやつはなァ、長生きできねーぞ」

 男がポケットから手を出したしゆんかん、輪廻が男の手首をつかんでひねりあげた。

 男がにぎっていたナイフが手のひらから落ち、かわいた音をたててアスファルトの上へと落ちる。

「な……っ」

「おやおや、物騒なものをお持ちで」

「放せやコラァ!」

「浄化委員として、このような危険物の所持は見過ごせませんね。ぼつしゆういたします」

 輪廻が背中を丸めると、アロハシャツの男の体が、ふわりと宙に浮く。そのまま男は路上へと叩きつけられた。

 身をかがめて落ちたナイフを拾い上げると、

「……鹿にしやがって。てめえにはきついお仕置きが必要なようだな」

 四方を囲まれ、お仲間らしき男たちが輪廻へ向けてじゆうを構えている。

「おや、これは困りました。万事休すですね」

 輪廻が困ったようにまゆをひそめてみせる。しかしその口元には喜びがにじんでいた。

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