非ユークリッドの恋

@fkt11

非ユークリッドの恋

 理沙のことはずっとライバルだと思っていた。

 その気持は今も変わらない。

 だけど今日は、もう一つの気持を打ち明けようと思う。

 きっと理沙は笑うだろうけれど。


   ◇


 高校に入って最初の定期考査で、ぼくは学年2位の成績を取った。

 まあ、こんなもんだろうと、軽く浮かれた気分で窓から校庭を眺めていた昼休み、教室の片隅に固まっていた女子グループのひそひそ話で、その名前を始めて知った。


「聞いた? 理沙のこと」

「知らない。なんのこと?」

「学年1位だったんだって。今回の定期考査の成績」

「おお、やるな理沙。中学時代からすごいやつだとは思ってたけど、やっぱ本物だったんだ」

「だよね。で、何点だったって?」

「499点!」

「えっ、それって1点だけ間違えて、あとは満点だったってこと?」

「その通り。英作文で一ヶ所、ピリオドを打ち忘れたんだって」

「すげえな理沙。でもあんたも細かいことよく知ってるね」

「テストどうだった? って聞いたら教えてくれたんだよ」

「理沙はそういうとこもオープンだもんね」

「そのあとでアハハって笑って、これがほんとのガリョウテンセイヲカクだな、だってさ」

「どういう意味?」

「さあ、よくわかんないんだけどね」


 ぼくはいろいろとショックを受けた。

 2位とはいえ、ぼくは484点で、その差は15点もある。しかもケアレスミスではなく、解けない問題が数学と英語で二つずつあったのだ。

 それはまだいい。これから猛勉強すれば追いつけない点差ではないはずだから。


 何よりショックが大きかったのは、その理沙という女子生徒が、自分の点数を平気で他人に教えてしまうということだった。それでいて、どうやら女子たちから好感を持たれているらしい。頭の良さを鼻にかけたり、逆にあざとい謙遜をしたりするタイプではないのだろう。


 ぼくも中学時代から成績はずっとトップを維持していた。だけどテストの点数を他人に教えるなんてことは絶対にしなかった。いや、できなかったのだ。


 今回は1位でも、次に誰かに抜かれたら「なあんだ、たいしたことないやつ」って思われるかもしれない。


 ちょっと頭がいいからって調子にのってんじゃねえよって、目をつけられるかもしれない。


 智也くんてさあ、勉強ばっかでなんか暗いよねって、敬遠されるかもしれない。


 つまりは自意識過剰だったのだ。


 中3になった頃から、うすうす気づいてはいた。だからといって突然キャラを変えることなどできなかった。そしてそれは、高校に入ったからといって激変するものでも、できるものでもなかった。

 だから、理沙という女子生徒のことを自分の目で確かめずにはいられなかったのだ。


 次の日、顔も苗字も知らないからすぐにはわからないかもしれないなと思いつつ、理沙という女子生徒のいる3組をそっとのぞきに行った。

 窓際に人だかりがあった。なにやら楽しげに盛り上がっている。その中心にいたのが理沙だった。理沙は自分の席に腰かけ、文庫本を読んでいた。その周りには女子だけでなく男子も集まり、ゲームか何かの話をしているようだった。


「でさあ、理沙ったらテトリスならやったことあるっていうんだよ」

「しぶいなあ」

「さすがにマリオは知ってるよね。おい、理沙、人の話を聞け」


 理沙と呼ばれた女子生徒は、文庫本の向こうからちらりと目だけをのぞかせ「知ってるよ。昔、ブラジルで安倍さんがやってたやつだろ」とだけ言って、再び物語の世界へともどっていった。


「そうじゃなくて」

「理沙らしい」

「てか、理沙が読書中に反応したってのがすごいじゃん」

「ほんとだ。理沙が人の話を聞いてたなんて」


 大物だ。

 しかも偏屈なのに人望がある。

 こいつには到底かなわない。


 ぼくは人間的な器の違いを見せつけられて大いにへこんだ。

 こういうことは努力してどうにかできるものではない。それはぼく自身が一番よく知っている。

 でも――

 勉強ならば努力でなんとかなるはずだ。

 いや、なんとかするんだ。

 今度はぼくが1位を取ってやる。


 高校での初回の定期考査は問題が易しく設定されていたようで、次の回からは平均点がぐっと下がった。だがぼくは5教科で合計490点を取った。難易度が上がる中で6点のアップだ。やるなぼく。さあ、理沙はどうだ。

 次の日には理沙の点数が学年中に広まっていた。


 497点。


 バケモノめ。

 でも点差は縮まった。

 次こそ1位だ。

 ぼくのモチベーションはさらにアップした。


 2学期、3学期、さらに2年になっても、理沙は不動の1位、ぼくは万年2位のままだった。

 そして高校最後の年に、理沙と同じクラスになった。


   ◇


「それ、演習プリントか」


 新学期第一週の金曜日、ぼくは一人で弁当を食べ、そのまま自分の席で数学の週末課題に取り組んでいると、通りかかった理沙から声をかけられた。


 周囲の生徒たちが、「おっ」という感じで聞き耳を立てるのがわかった。


 ぼくは極力隠していたが、学業成績が学年2位という位置にあることはいつしか周知の事実となっており、それなりに興味を持たれる存在ではあったのだ。

 学年1位と2位の初接触。

 たしかに野次馬的興味はそそる出来事かもしれない。


「こんなの家でやるほどのもんじゃないからね」

 ぼくは内心の緊張を悟られないように、自制心を総動員し、完全に抑揚を殺した口調で答えた。

 理沙は、「なるほどね」と言いつつ、腰に手をあてた。

「前から気になってたんだけどね、君の数学の解答は時々エレガントじゃないんだな」

「エレガントじゃない? どういう意味だ」


 ざわ、と周囲の雰囲気が一気に張り詰めた。


「そうだなあ、どう言えば伝わるかなあ」

 理沙はぶつぶつ言いながら、教室の前にある黒板へと向かって歩き出した。

「たとえば、こういうのはどう考える?」

 理沙はちびたチョークをつまむと、黒板に「田」と書き、くるりと振り向いた。


「数学の問題です。この図形の中に、四角形はいくつありますか」

「9個」

「正解。で、9個はどうやって求めたのかな」

「見ればわかるだろ。小さな正方形が4個、外側の大きな正方形が1個、あと縦長の長方形が2個と横長の長方形が2個で合計9個」


 ほう、という複数のため息があちこちから聞こえた。


「やっぱりエレガントじゃない。その考え方は数学じゃなくて算数だよね」

「だから、どういう意味だよ」

「図形が『田』だったから算数でも解けたけどさ、これが将棋盤のマス目だったり、碁盤のマス目だったらどうする? 今、君が数えたようなやり方で答えが出せるかな」


 みんなの視線が理沙とぼくの間を往復する。


 ぼくは言葉に詰まった。

 こめかみに指をあて、どうすれば将棋盤の四角形の数を求めることができるのかを必死で考えた。

 だが思考は空転し、時間ばかりがすぎてゆく。注目を浴びていることに加え、エレガントではないという言葉が大きなプレッシャーだった。


「ギブ。降参だ」

「潔いな。好感度がアップしたよ。じゃあまた明日にでも数学の話をしよう」

「え? 答えは教えてくれないのか」

「は? 自分で答えを考えなくていいのか」


 それはそうだが、この流れで説明無しはないだろう。

 ぼくの不満が伝わったのか、理沙は「じゃあヒントだけ」と言って、ぼくの目を正面から見た。


「四角形には横の線が2本、縦の線が2本必要だろ。『田』場合、横の線が3本、縦の線が3本あるから――」

「あ、縦横それぞれ3本から2本を選ぶ組み合わせか。ああ、たしかに9になる」

「そういうこと」

「なるほど、将棋盤なら線が縦横10本ずつだから――2025個かな」

「お見事」

「じゃあ碁盤なら線が――何本だ?」

「私も知らない」

「おい」

 ぼくと理沙は同時に声を出して笑った。

 周囲の生徒たちは、そんなぼくたちに珍獣でもみるような目を向けた。


 次の日の昼休みから、ぼくと理沙は額をつき合わせるようにして数学の問題に取り組むようになった。


「だから、不等式は範囲分けが重要なんだって」

「わかってるよ」

「わかってない。頭でばかり考えるから見落とすんだ。こういう問題はまずグラフを書くんだよ」

 理沙はさっと席を立ち、颯爽と黒板に向かった。

 カツッと音を立ててチョークを黒板の中央当てると、なんのためらいもなく、一気に直線を引く。

 横に、そして縦に。黒板は巨大な座標となる。

 サインカーブ、双曲線、円の接線、どれもがフリーハンドとは思えないほど正確に描かれる。


 理沙が描く図形の中で、ぼくが特に好きなのは放物線だ。のびやかな曲線と理沙のイメージが重なって、一瞬見とれてしまう。

「どうだ、この解法。エレガントだろ」

 理沙の声にはっとして、ぼくは我に返る。

「まずまずだな」

「ふん、だったら別解を考えてみろ」


 初めの頃こそ、二人のやり取りに唖然としていたクラスメイトたちも、最近では日常の風景になってしまったようで、理沙が大声を出しても誰も振り向かなくなった。


 おだやかで充実した日々が過ぎていった。


 ぼくと理沙は数学について毎日深く語り合ったが、それ以外のことは一切話題にならなかった。

 だから、卒業まであと二ヶ月だというのに、理沙の好きな食べ物も、家族構成も、住んでいるところも、血液型も、誕生日も、進路も、何一つ知らない。

 それでいい。理沙はただのライバルなのだ。

 そう思っていた。


 高校生活最後の定期考査の時期となった。

 理沙との最後の勝負である。全敗のまま卒業はしたくない。ぼくは受験勉強をいったん中断して、定期考査対策の勉強に打ち込んだ。


 結果が出た。


 また理沙には勝てなかった。でも、負けもしなかった。

 500点

 はじめて一位を二人で分け合った。


「やるな、智也」

「お前もな」


 そして卒業がすぐそこに迫っていた。


   ◇


 いよいよ明日で卒業か。

 ぼくは布団の中から暗い天井を見上げ、ふうと長い息を吐いた。


 受付でブレザーの胸に花飾りをつけてもらって、ひんやとする体育館で校長の話を聞き、担任の点呼に応え、卒業証書を受け取り、教室に戻って、そして――


 そうか、もう明日から昼休みはないんだ。


 その日が来ることは、ずっと前からわかっていた。

 だからといって、何かができるわけでもない。ならば、今日のこの昼休みの数十分間を有意義に過ごすしかないだろう。

 そう自分にいいわけをして、残された日々を、できるだけいつもと同じように、いや、よりいっそう熱心に、理沙とともに数学の問題を解き続けてきた。


 でも、それでよかったのか。理沙との思い出は数学のことだけでいいのか。


 わからない。

 だって、理沙とは数学のことしか話してこなかったのだ。

 それで十分楽しかったのだ。


 でも、そんな楽しい時間は、もう二度とないんだぞ。


 わかってる。

 そんなことは、ずっと前からわかってるんだよ。


 ぼくは布団を引っ張り上げて顔の上にのせ、ぎゅっと目を閉じた。


   ◇


「あとで話がしたいんだけど」

 卒業式が終わり、教室にもどる廊下の途中で、ぼくは思い切って理沙に声をかけた。

「話?」

 理沙は小さく首をかしげた。

「うん、最後のホームルームが終わってさ、みんなが帰ってしまった頃に、教室にもどってくれないか」

「教室か。わかった」

「悪いな」

「悪くないよ」

 理沙はぼくからすっと目をそらし、真っ直ぐ前を向くと足を速めた。


「空っぽって感じだな」

 理沙は机の一つに腰かけて、足をぶらぶらさせながら教室をぐるりと見わたした。

「そうだな」

 心臓がやばかった。手足の先も冷たくなっている。

 告白するって、こんなにも緊張するものなのか。タケちゃんも、マサも、シンヤも、彼女とつき合うためにこんな経験をしていたのか。

 悪かった。チャラ男だなんてバカにして申し訳なかった。お前たちは勇者だ。立派な漢だよ。


 よし、いけ智也。

 お前も漢になれ!


「あのさ、ぼくは――」

「好きなんだろ、私のことが」

「へ?」

「わざわざこんなシチュエーションで言わなくたってさ、わかってたよ」

「そ、そうだったのか。でも、なんで、わかっちゃってたんだ?」

「バーカ、君は真性の野暮だね。察しろよ。ほんとエレガントじゃないんだから」


 察しろ?

 てことは、理沙も?


 だめだ。

 心臓が、脳が、三半規管が。


「じゃあ、ぼくとつき合って――」

「ごめんな、それはできないんだ」


 え? 何で? 何かおかしくないか?

 ぼくは次に発すべき言葉が見つけられず、ただ理沙の顔を見ることしかできなかった。


「オーストラリアに行くんだ。オヤジの転勤でね。まあ、よくあるやつさ。北半球と南半球じゃ遠距離にもほどがあるだろ。だから、たぶん、無理だと思うんだ」

「そう――だったんだ」

 理沙は「よっ」というかけ声とともに机から降りると、ぼくに向かって右手をさしだした。

「告白されるなんて初めだったから、結構緊張したわ。でさ、ついでみたいで悪いけど、私も智也のこと好きだよ。勇気を出してくれてうれしかった。今日はありがとうな」


 はじめて触れた理沙の手は、想像よりもずっと小さくて、温かかった。


   ◇


 理沙を見送ったぼくは、誰もいない教室の、いつもの席に座って、何も書かれていない黒板をぼんやりとながめた。


 ぼくは振られたんだろうか。

 それとも、つき合う前に別れがやってきたんだろうか。

 理沙は今、どんな気持ちでいるんだろうか。


 わからない。

 数学ならどんな難問でも必ず解答があるのに。


 気がつくと、窓の外は真っ暗になっていた。どこに光源があるのか、教室の中は水底のようにうす青い光に満たされている。


 ――いくら考えてもわからないときは、とにかくグラフを書いてみるんだよ。


 ぼくは席を立ち黒板に向かった。ちびたチョークをつまみ、黒板の真ん中に当て、真横に直線を引いた。

 理沙のようにきれいな線は引けなかったが、理沙のようなのびやかな線が描けた。

 よし、もう一本。

 理沙の直線の下に同じ長さの直線を引く。

 少し考えて、二本の直線の斜め上にコメントを添えた。


 <互いに平行な直線Rと直線Tは、永久に交わることはない>


 数学的な解答を得たことでぼくの気持は静まった。


 さようなら。


 ぼくは教室を出ると、後ろ手にドアを閉めた。


   ◇


 ノートがない。

 理沙と解いた数学の解答がぎっしりと詰まったノートが――


 昨夜は何もする気になれず、十時前に寝てしまったから朝まで気がつかなかったのだ。

 未練がましいとは思うが、あのノートだけは手元に置いておきたい。

 どこに仕舞ったんだっけ。

 そうか、学校の机の中だ。

 卒業式の前日に、まだ次の日も昼休みがあると勘違いして、ノートを机の中に入れたままにしていたんだ。

「忘れ物、取りに行ってくる」

 ぼくは履き潰したスニーカーに足を突っ込み玄関を飛び出した

 

 在校生たちは授業中だった。ぼくは来客用のスリッパを履き、教室へ入る許可を得るために職員室へと向かった。

「おう、お前も忘れ物か」

 元担任は机に積み上げられた資料の山の向こうから「西側の階段を使ってくれ」とだけ言って、指先を西に向けた。


 あった。

 予想通り、ノートは元ぼくの机の中で見つかった。

 ふと前を見ると、黒板には昨夜の落書きがそのまま残されていた。


 <互いに平行な直線Rと直線Tは、永久に交わることはない>

 

 かっこ悪いな。

 急に恥ずかしさがこみ上げてきた。

 誰かに見られる前に消しておこう。


 黒板に向かって歩き出すと同時に、教卓の上の地球儀に気がついた。

 あれ? 昨日はこんなとこに置いてなかったよな。

 不思議に思いつつ、黒板消しを手に取った。


 ん? 

 ぼくが昨日最後に書いたそのコメントの下に、新たな2行が書き加えられていた。


 <球面上に平行線は引けない。異なる2つの大円は必ず2点で交わる>

 <私たちは地球という球面上に存在している>


 なるほど。

 これがエレガントな解答というやつか。


 ぼくは黒板消しを使わないまま元にもどした。

 地球儀の上で日本を探し、オーストラリアまでを目でたどってみた。


 思っていたより南にあるんだな。


 教卓を離れ、南に面した窓から空を見上げた。

 透き通った青が視界の端から端まで広がっている。

 その一角に、ぽつんと一つ銀色の点が現れた。

 銀色の点はその後ろに白い飛行機雲を生み出しながら南に向かってゆっくりと移動していく。


 またどこかで会おうぜ。


 ぐんぐん伸びる白い直線Rから少し離れた位置にチョークをかざし、もう一本の直線Tを一気に引いた。


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