メガネグマ・パニック!

武州人也

南半球に生息する唯一のクマ

 その日は最悪な日だった。眼鏡を踏んで壊してしまったのだ。昨晩は残業で終電帰りだったから、疲れからか横着してメガネケースに眼鏡を入れず、テーブルに置いたまま寝てしまったのだ。その結果、朝起きたときテーブルから眼鏡を取ろうとして落としてしまい、薄暗い室内で探しているうちに踏んでしまった、というわけだ。


 今、私の視界は周囲の風景にピントが合わずぼやけている。コンタクトを入れていると電車に乗り遅れてしまうから、職場に着いたらコンタクトをするつもりだ。


 住宅街の複雑に入り組んだ路地を歩いて、駅に向かっている。家賃をケチって駅から遠いアパートを選んでしまったけど、今はちょっと後悔。OLの朝は早いのだから、もっと朝の時間にゆとりを持てるようなところに住むべきだった。


 T字路を曲がる。家を出たときには薄明だった空は、すっかり明るんでいた。東の空から降り注ぐ日光がまぶしい。


 ……何か黒い物体が、私の前に立ちふさがっている。もそもそと動いているから、生き物だ。


「――っ!」


 そいつは真っ黒な毛に覆われたクマだった。そいつがのしのしと、こっちに近づいてきている。ケモノの匂いが、つんと香ってきた。


 どうしよどうしよ。クマがこっちに来てる! 私はすぐさま逃げ出した。が、クマは四つ足で走って追いかけてきた! 見た目よりも速い!

 

「助けて!」


 もうすぐ追いつかれる……そのときだった。


「うぉぉぉぉぉ! 街の平和はこの俺が守る!」


 十字路の右の方から、二メートル以上はありそうな巨漢が突っ走ってきた。そのスキンヘッドのマッチョマンに、私は見覚えがある。


「あっ、立居たちいさん!」


 駅前アーケードには、「立居食堂たちいしょくどう」という大衆食堂がある。彼はそのオーナーである立居たちいとらだ。元砲丸投げ選手の彼は偶然居合わせた銀行強盗をボコボコに殴り倒したり、商店街に乱入した脱走ブタを捕まえたり、とかく様々な活躍で知られる英雄だ。「商店街の守り神」として彼を称える者も少なくない。


「ここはお前の居場所じゃねぇ。早く立ち去れ」


 私とクマの間に割って入った立居さんは、仁王立ちをしてクマに語りかけた。大丈夫なんだろうか……と思った私だったけど、そんな心配は杞憂にすぎなかった。大男の威容に圧倒されたのか、クマはすごすごと引き下がっていった。


「あのメガネグマ……早く動物園の職員に捕まってくれりゃあいいがな……」

「あ、ありがとうございます! 今度また食堂にお邪魔しますので!」


 逃げていくクマ――どうやら動物園から逃げ出したメガネグマらしい――を見送る立居さんに、私は深々と礼をした。


 ――そのとき、動物園の職員らしき若い男性が、こちらに走り寄ってきた。


「早くここから離れてください! メガネカイマンが逃げました!」


 クマの次は、ワニの脱走劇らしい。

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