冬
12月その①
「おじゃましまーす」
部室に入ってくる後輩の声を聞きながら机に伏せていた頭を僅かに上げる。
「んー……」
「どうしました、センパイ? 調子悪い感じですか?」
「んー……」
質問に答えるのも億劫で呻くように返事をする。
「風邪ですか?」
「いや、調子悪いだけ」
朝からこんな調子だけど熱はなかった。
「ああでも、もし感染したら悪いから今日は帰った方がいいぞ」
「流石にこんなセンパイ置いて帰れませんよ」
言いながら、後輩の手が机に伏せている俺の額にピタリと触れ、そのあと自分の額で確認する。
「熱はなさそうですね」
「多分気圧だな。あと夢」
「夢?」
「ひどい夢を見てな」
気圧の変化で体調を崩すことは稀にあるのだが、俺の場合悪夢がついてくることがある。
特に今日はまともに安眠できずに寝不足なせいで頭が重いし胃がひっくり返るような感覚もあるので最悪だ。
「どんな夢を見たんですか?」
「無限に熊に追われる夢と」
「と?」
「屋上から落ちて無限に落下する夢と」
「と」
「入試に落ちる夢」
「うわあぁ……」
これに関しちゃ体調が悪いのの他に受験のストレスもあるんだろうなと考えられる。
普段はそこまで気にしないんだけど、弱ってる時はだめだ。
「帰って寝たほうが良いんじゃないですか?」
「帰りたくない……」
帰って寝ろは正論だが、正直無事に家まで辿り着けるかが若干怪しいレベルなのでこうして部室で休んでいる。
症状は大体気圧差と寝不足の体調不良なのでこれ以上悪くなるようなもんでもないのが唯一の救いだが。
「なにか飲み物買ってきましょうか?」
「あー……、大丈夫」
「センパイはこんな時でも遠慮するんですね」
むしろこんな時だからあまり人に頼りたくないんだけど。
「怒りますよ」
もう怒ってるじゃん、とは言わない。
体調不良で死にかけてなかったら本当に怒られてただろうから。
「わかった、頼む」
「それじゃあ、私が返ってくるまでに死なないでくださいねー」
「流石にそんなにすぐには死なんわ」
ということで颯爽と部屋から出て行った後輩を見送った。
「少し寝ますか?」
「またひどい夢見そうなんだよなあ」
後輩が買ってきてくれたポカリを一口飲んで、再び机に伏せて呻くように答える。
実際問題仮眠するのが一番の安牌なんだけど、悪夢を見てまたげっそりするのも簡単に予想できるから困る。
悪夢で起きると睡眠をとってもむしろ体力削られてる気がするんだよなあ。
「ならもしセンパイがうなされたら私が起こしてあげますよ」
「んー……」
そこまで後輩に甘えるのもなあという気持ちと、また遠慮したら怒られるんだろうなあという気持ちの間で迷っていると、机の向かいから伸ばされた後輩の手が俺の髪を撫でる。
腕を枕にそのまま寝られる体勢だったのもあり、その手の感触は眠りを誘う心地好さがあった。
その後輩の手は、柔らかくて、優しくて、安心できて、心地好い。
「あんまり優しくするなよ」
「どうしてですか?」
俺の言葉に、不思議そうな顔をした後輩が聞き返す。
「あんまり優しくされると、好きになっちゃうだろ」
「好きになっても、良いんですよ?」
優しく誘うように後輩が微笑む。
「俺が困るんだよ……」
もし後輩のことを好きになったら、それは、すごく困る。
「それにどうせ、俺が好きになっても自分は好きにならないから大丈夫です、って言うだろ」
「よくわかりましたね」
確かにそれなら後輩は困らないだろうけど。
△▽▲▼
「ねえ、センパイ」
センパイの髪を撫でながら囁くように声をかける。
その答えに帰ってきたのは静かな寝息。
こうしてからまだ少ししか時間は経っていないけれど、センパイはすぐに寝られたみたいだ。
それだけ寝不足だったのかもしれない。
見たところセンパイの寝顔は穏やかで、心配はなさそう。
私のおかげかな。
なんて考えて少しだけ笑う。
どちらにしても、センパイが気持ちよく寝られてるならそれでいいんですけどね。
受験で大変な思いをしているセンパイの助けになれたなら、それだけで十分だ。
寝ている顔は穏やかで、ちょっとかわいいかも。
「……、私のこと好きになっちゃってもいいんですよ」
なんてもう一度、呟いてみても実際にそうならないのはわかっていて。
もしそうなったとしても、私も困るんですけどね。
なので、センパイとの距離感は今の感じが一番楽なんだけど。
それはそれとして全く意識されないとそれはそれで不満だった。
心地好さそうに寝ているセンパイを起こさないように気をつけて頬を撫でる。
こんな穏やかな表情を見るのは初めてで思わずニヤけてしまう。
この部室に来た頃なら目の前で寝顔を見せてくれることなんてなかっただろうと思うと、過ごしてきた時間を実感する。
もう半年以上経ってますもんね。
それは同じ意味で、卒業までもう半年もないということなんだけど。
そう考えると少し、寂しいかもしれない。
「んっ……」
センパイが声を漏らして、頬を撫でていた私の手を握る。
「センパイ……?」
センパイのイタズラかと思ったけど、まだ寝ているのでもしかしたらくすぐったかったのかもしれない。
その手は私のものよりずっと大きくて、捕まえるように握られるとすっかり収まってしまった。
それを外そうかと考えて、やめた。
私に感謝してくださいね、センパイ。
パシャリ。
私の手を握りながらやっぱり気持ちよさそうに寝ているセンパイの寝顔を折角なので撮っておいた。
△▽▲▼
「ふぁ……」
眠りから覚めてまぶたを開けると、目の前には握られた手。
その片方は俺のもので、動かしてみるとちゃんと握っている感触がある。
もう片方は後輩のもの。
「なんで俺の手握ってるんだ、後輩」
「いや、センパイが握ってきたんですからね」
「そんな馬鹿な……」
とはいえ状況を見ればそれは否定できない。
まあ眠ってて俺の意思があったわけでもないし別にいいか。
「それより、よく寝れましたか、センパイ」
「ああ。どれくらい寝てた?」
「三十分くらいですかね」
「そうか」
実際に寝ていた時間はそこまで長くないらしいが、感覚的にはかなりよく眠れたようで頭もスッキリしている。
寝不足の症状も改善されてるし。
「それで」
「うん?」
「いつまで手を握ってるんですか?」
確かに寝ている間に握っていたその手は未だに繋がれたままで、動かすと後輩のすべすべした手の感触がある。
「嫌だったか?」
「別に嫌じゃないですけどね」
「それじゃあもう少し」
「お代は一時間につき板チョコ一枚ですよ」
「安いな」
大体スーパーで99円(税別)くらい。
「ちなみに一時間未満の場合は?」
「一時間までは定額で一枚です」
じゃあ一時間経つまでは握ってた方がお得か。
「んっ」
後輩の手を離してからぐっと腕を上げて伸びをすると、頭がシャッキリした感覚があった。
「そいえば、センパイ寝言で私の名前呼んでましたよ」
そんなまさか、と言いかけたが心当たりがあったので黙ってしまう。
「夢の中まで出てくるなんてどんだけ私のこと好きなんですかセンパイ」
「どうせ一緒にいたから連想したんだろ。もしかして寝てる間に話しかけたりしたか?」
「……、してませんね」
「ぜってーそれが原因だろ」
意識が半覚醒の状態だと、外の音に夢の内容が引きずられるなんてことは稀によくある。
主に動画流しっぱのまま居眠りしたときとか。
「そんなことより、どんな夢を見たんですか」
「んー、普通の夢だぞ」
「どんな感じに普通なんですか」
「普通に後輩が熊と殴り合ってた」
「普通な所がないんですけど!?」
「ちなみに後輩が勝ってたぞ」
「人のことをなんだと思ってるんですか!?」
「熊殺し」
まあ最終的には拳じゃなくて締め落としてたんだけど。
「センパイが私のことをどんな風に思ってたのかよくわかりました」
「流石に熊に殴り勝てるとは思ってないけどな」
あれは夢特有の荒唐無稽な内容なだけで。
「まあセンパイがよく眠れたならいいですけどね」
これに関しては本当に後輩に感謝だ。
「それじゃ、帰りますかセンパイ?」
「いや、勉強してく」
「勉強するんですか? センパイ勉強好きすぎじゃないですか?」
「別に体調戻ったら休む理由もないしな。後輩はどうする?」
「センパイが帰らないなら私もちょっと勉強してきましょうかね」
ということで二人でいつものように参考書を開いた。
「んじゃ帰るか」
「はい、センパイ」
勉強を一時間ほどして、すっかり暗くなった外を見ながら帰り支度を済ませた俺と後輩が部室を出る。
当然のように廊下に人の姿はなく、並んで歩く後輩と二人きりだ。
まあだからと言って色っぽい雰囲気になる訳ではないのだけど。
「そろそろ本格的に寒くなってきますね~」
「そうだなー」
そろそろ冬用のコートとかが欲しくなってくる季節だ。
「センパイは冬好きですか?」
「いやあ、どっちかっていうと夏の方が好き」
「へー、そうなんですね。なんかちょっと意外かもです」
「まあ夏ってキャラじゃないのは自覚してるが」
夏が好きっていうのも積極的な理由じゃなくて他の季節を考えた時の消去法だしな。
「そういう後輩の好きな季節は? 春?」
「私も夏ですよ~」
「まあそれはイメージ通りか」
「そう考えるとお揃いですね」
「そうだな」
まあもう夏は終わっていて、お揃いでも一緒に過ごすことはないんだけれど。
その事実にセンチメンタルな気分になったりは流石にしないけれど、でも少し寂しくはあるかもしれない。
「今日はありがとな、後輩」
「どういたしまして、センパイ」
安眠できたのは後輩のおかげだ。
「センパイが元気になったなら良かったです」
「今度お礼しないとな」
「板チョコ期待してますね」
「味はどれがいい?」
「ホワイトチョコでお願いします。明治で」
「あいよ」
それくらいならお礼としては安いものだ。
なんなら追加で別に何か買ってもいいくらい。
「そうだ、センパイ」
下駄箱の前まで着いて、後輩が思い出したように顔をあげた。
「どうした?」
聞き返した俺に、悪戯をするように後輩が笑う。
「本当はどんな夢を見たんですか?」
「…………、秘密だ」
「顔が赤いですよ、センパイ」
「気のせいだろ」
俺は誤魔化すように自分の靴のある場所まで進む。
流石に後輩は追っては来ない。
まあここで一旦逃げられても結局靴を履き替えたらまた一緒になるんだけれど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます