11月その①
「うー」
「大丈夫か?」
部室の中で、いつものように勉強をしていると、後輩が低く呻き声を漏らす。
後輩の様子は端から見てもわかるくらいには調子が悪そうだ。
先に帰るか聞いたときはいいと答えていたが、やっぱり返した方が良さそうな気がするな。
後輩が調子悪そうなのも何度か見たことがあったが、今回はいつもよりも深刻そう。
「風邪じゃないんだよな」
「はい、移るようなアレじゃないです」
ならいいか、とは流石にならないが。
とはいえ移る病気ならずっと一緒にいるのは流石に受験生として都合が悪い。
「ん……、やっぱり帰りますね」
ダルそうに息を吐いた後輩がこちらを見る。
それを聞いて俺も、シャープペンの尻を押して芯をしまった。
「送ってくぞ」
「いいですよ、そんな気にしないでください」
言いながら立ち上がった後輩が、そのまま力が抜けたかのようにストンと椅子に尻を落とす。
「ちゃんと立ててないじゃねえか」
「今のは急に立ち上がったからですよ」
立ち眩みの理由としては定番だけど、どっちにしろ、そんな状態のやつを放っておけない。
「センパイは勉強しててください」
「そういう訳にもいかんだろ」
というのは、義務的な話ではなく。
「心配だし」
「心配ですか」
「ああ」
フラついてる後輩がちゃんと一人で帰れるかという心配は、杞憂だと笑い捨てられない程度には不安がある。
「でも勉強しないとですし」
「勉強なら帰っても出来るんだから気にしなくていい」
部室の方が集中しやすいって点を除けば、今帰ってもあとで帰っても勉強時間に差は生まれない。
「それじゃあ、お願いします」
「ん」
頷いて、荷物をまとめて立ち上がる。
一方後輩はまだ座ったままで、立ち上がるのも億劫といった様子に見えた。
「おんぶでもするか?」
「んー」
「じゃあだっこ」
「んんー」
「じゃあお姫様抱っこ」
「それはないです」
「そうか?持ち上げられると不安定で一番怖いって評判だぞ」
「ますます選びたくないじゃないですか……」
横に抱き上げると首がぶらーんってなって頭が支えられないから大変なんだよね。
まあ流石にそこまでされるのは恥ずかしいということで、結局普通に並んで帰ることになった。
これでも転びそうになったら支えるくらいはできるから十分かな。
後輩を送って家に着く。
そこで帰ろうかと少し考えたが、結局後輩の荷物も持っていたのでそのままお邪魔することにした。
病人ではないけど体調不良の相手だしな。
家には誰もいないらしく、そのまま促されて階段を登り、部屋の前まで着いたところで待つように言われる。
「覗いちゃダメですよ」
「そう言われると覗きたくなるんだが」
「もし覗いたら、怒りますからね」
「わかったよ」
釘を刺すような表情で部屋の中に入っていく後輩を見送って、スマホで今の時間を確認する。
まあ実際体調悪い人間にそんなことする気もないんだけど。
「まだかー」
「まだですー」
後輩の返事を聞いて、背中越しにまだしばらくかかりそうかなと推測する。
体調悪いんだから早く休んだ方がと思ったが、風邪でもないなら安静にしていた方がよくなるというわけでもないのかもしれない。
よく考えたら後輩の家に来るの初めてだな。
もちろん中に入ったのも初めて。
女子の部屋とか入っても良いんだろうかと若干思わなくもないが、看病みたいなもんなので遠慮して帰る方がおかしいか。
まあ、どちらにしろ俺にできることは特にないんだが、と思いながら背後のドアに体重を預けるとなぜかそこにあるべき抵抗がなかった。
体重を掛けたら掛けた分だけ動いていくドアと、流れた重心に抗えずどんどん後ろに倒れていく体に、ああ、ちゃんとドアが閉められてなかったんだな、と現実逃避を脳がおこなう。
その結果、部屋のドアは完全に開け放たれ、俺の背中は後輩の部屋の床にハードランディングした。
部屋の中は女子らしくかわいい内装をしていて、むしろ後輩のイメージからしたらもうちょっと普通の内装を想像していたので少し驚く。
とはいえ床にはいつも使っている学生鞄が置いてあって、テーブルにはいつも食べているチュッパチャプスが置いてある。
ちなみにテーブルは透明なガラスの天板で、他にもノートが広げてあるのが裏側から透けて見えた。
さらにベッドにはぬいぐるみが置いてある。
部屋の中を一通り観察して、たしかにここは後輩の部屋なんだなあと現実逃避を粗方済ませてしまったところで、視界の真ん中に、逆さまに仁王立ちしている後輩の姿を諦めて認識する。
「覗いたら怒るって、言いましたよね?」
「は、はは……」
ジト目で見下ろす後輩に冷や汗をかきながら、一応下着の上にもう一枚、インナーを着ている姿にギリセーフかな、と自己弁論する。
いや、やっぱりアウトかな?
「ごめんなさい」
「もういいですよ、ちゃんと閉めなかった私もほんのちょっとだけ悪いので」
そうだな。
なんて内心は、土下座したままなので後輩に気付かれずに済む。
まあどっちがどれくらいの比率で悪くても、相手が許さないと言えば許されない状況だったけど。
結局今回は謝って許してもらって、改めて部屋着に着替えた後輩がベッドに腰掛ける。
俺は途中のコンビニで買ってきた物を漁りながら、後輩に聞いた。
「なにかいるか?」
「なにがありましたっけ」
「ポカリ、ヨーグルト、プリン、アイス、板チョコ……板チョコ?」
「それ私が買ったやつです」
「あー、そういえばなんか買ってたな」
後輩が自分で買ってなぜか俺の袋に一緒に入れてたのを思い出した。
あれでも別の物もなにかカゴに入れてたような。……、まあいいか。
「というか風邪じゃないならわざわざこんなに選ばなくてよかったな」
完全に体力消耗してて固形物が辛い人間に食べさせる用のラインナップだ。
「でも、先輩が心配して選んでくれたのは嬉しかったですよ」
「……、それでなに食う?」
「あっ、照れてますか?こっち向いてくださいよ、センパイ」
照れてるというか、後輩の嬉しそうな顔を見るとこっちが恥ずかしくなるんだが、本人は気付いてないんだろうな。
いつもより、後輩の感情のガードが緩い気がするのはこれも体調不良故だろうか。
「じゃあ、プリンください」
「はいよ」
諦めた後輩のリクエストを聞いて、袋から出したプリンを渡そうとすると、それを制止してベッドの隣をポンと叩く。
「センパイも座ってください」
「まあいいけど」
座って体を向けると、お互いの膝が触れそうになる距離で容器のビニールを剥がす。部屋に二人きりで、寝巻きの後輩が手を伸ばすまでもなく届く距離にいるという事実を、なるべく意識しないようにして視線を合わせる。
「あーん」
と口を開ける後輩に一瞬戸惑い、すぐに諦める。
プリンを差し入れること数回、なんだか鳥の雛に餌やりしてる気分になってきた。
そんなことを考えて口許が綻ぶと、「なんですか?」と後輩に疑惑の視線を向けられてしまう。
「なんでもない」と誤魔化してそのままプリンのカップを空にしてテーブルに置く。
ゴミは持ち帰るとして、残りはそのまま放置でいいかな。
いや、アイスがあるからそれだけは困るか。
でも後輩にわざわざ片付けさせるのもアレだし、他人の家の冷蔵庫弄るのも気まずいからいっそ持ち帰って自分で食うかな。
「ねえ、センパイ」
「どうした、後輩」
「今日は送ってくれてありがとうございました」
「どういたしまして」
素直に感謝されるとくすぐったくて、そのまま言葉が途切れる。
他に誰もいない家は、お互いに喋るのを止めると沈黙が流れて、緩い暖房の音だけが部屋に響く。
普段通りに振る舞おうとしても、やはり所々に体調が良くない様子を見せる後輩にいつも通りの調子で冗談は言いづらい。
普段から互いに隙あらばマウント取りに行くような会話してるからなあ。
別にそれ自体は嫌いじゃないんだけど、流石に弱ってる相手にやるもんじゃない。
「とりあえず横になるか?」
「はい、そうですね」
後輩が布団を捲ってそこに潜り込む。
これもう帰ってもいいのでは?と思ったけど、言い出すタイミングを失ってしまったのでベッドの端に座り続ける。
「センパイ、のど渇きました」
後輩が横になってからしばらく雑談をしているとそんなことを言い出す。
「と言ってもそのままじゃ飲めないだろ」
今の姿勢で水を飲ませようとすると、どうやっても水責めしてるみたいになる。
人間の構造上、寝たまま水を飲もうとするのは難しいんよな。
「起きられるか?」
「起きるのめんどくさいです」
「じゃあ、ひとつだけ良い方法がある」
「なんですか?」
興味がある、と聞いてくる後輩に、ポカリのペットボトルを持ち上げながら答える。
「口移しで飲ませる」
そう言うと、後輩はなにも言わずに布団に潜り込んで、中でもぞもぞと動いたあと壁側の側面から体を出した。
「ほら」
「はい」
渡されたポカリを飲んだ後輩が、再びベッドに潜り込んで枕の位置から頭を出す。
その動きいる?
というか布団の中で動いたから髪の毛乱れてるし。
まあいいか。
「後輩が寝るならそろそろ帰るかな」
後輩は完全に寝る体制だし、実際に寝たら流石にもうやることもない。
それに寝てる後輩の部屋に残ってるっていうのもあんまり良くないだろうって話なんだが。
「帰っちゃうんですか?」
それは、卑怯だろ。
こちらを見上げる後輩の視線に諦めて、浮かせかけていた腰をまたベッドに下ろす。
「寝たら帰るからな。鍵掛けて郵便受けに落としとくぞ」
「勉強は、大丈夫ですか?」
「今さら数時間足りなくてどうにかなる学力じゃないからな」
今まで勉強していた数千時間と比べれば、今の数時間なんて誤差みたいなものである。
もちろん明日からはまた同じように勉強を続ける前提でのうえでだけど。
「センパイ、優しいですね」
「それは気のせいだ」
それから寝るのに邪魔かと思ってベッドの下に座り直すと、お互いの視線の高さが同じになって、距離も息遣いが感じられるくらいに近付く。
「私、変じゃないですか」
「いつも通りだぞ」
「そうですか、ならよかったです」
沈黙が流れて、枕の上で少し乱れた髪を撫でると後輩がくすぐったそうに目を細める。
「髪、長くなったな」
「あれから半年ですもんね」
春の頃は肩に掛からないくらいのショートヘアーだったのに、今だと肩より下の辺りまで伸びていて、随分と受ける雰囲気も変わった。
「髪の毛柔らかいな」
「洗うの大変なんですよ?」
苦労を語る後輩だが、その表情はなぜか楽しそう。
「たしかに、シャンプー代も馬鹿にならなそうだ」
「そうですよ、だからもっと有り難がってください」
「はいはい」
後輩の目蓋が落ちてきて、言葉も途切れてからしばらくして髪を撫でるのをやめる。
離そうとした手をもぞっと握られた。
おい。
起きているかどうか怪しい後輩の手を外そうとするが、しっかりと掴まれた手は簡単には外れない。
どうすんだこれ。
なんて途方に暮れても、実際にはどうすることもできなかった。
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