茶色の眼鏡の男
清瀬 六朗
第1話 篠子の物語
わたしには三分以内にやらなければならないことがあった。
さっき、不動産屋から電話がかかってきて、ルームシェアするつもりで仮押さえしていた部屋を、ルームシェア相手の
契約にはわたしが行って書類にサインして印鑑を
今日、珠枝が「もう一度見てみたい」と言い、その住宅の内見に行った。そして、鍵を返すときに不動産屋さんに
「ここ、やっぱりやめます」
と言ってしまったらしい。
どういうことだろう?
駅にも近い、大きな通りに面していて日当たりもよい、明るい、前の通りの交通量が多いわりには静か、そして家賃も安いという希少な物件なのに。
何か混乱した、または、勘違いした?
珠枝は慎重な子なので、そんなミスをするとは思えないけど。
それとも、どこかでだれかが珠枝になりすまして、部屋をキャンセルし、わたしにもそう伝えてきた?
それもないと思うが。だいたい、だれにもそんなことをする動機がない。
ともかく、電車が出るまでに珠枝に電話して、真意を聞かなければ。
そう思っていたところに、珠枝から電話がかかってきた。
「あ、珠枝。いったいどういうこと?」
不動産屋さんにキャンセルを伝えたのがなりすましの珠枝でなければ、いきなりこう言ったので伝わるだろう。
「うん。それがさ、
珠枝は言いにくそうだ。それに、もともとのんびりした性格だ。
「あと二分ちょっとで電車に乗るから、手短に!」
と言う。
SNSのメッセージなら電車のなかでも交わせるけど、いまは直接に話をしておかなければ、と思った。
「あの、収納のところに、箱みたいなの、あったじゃん?」
珠枝はちょっと早口になって、いきなり本題に入った。
「うん」
三段の収納ボックスのようなものだったと思う。
「あれの後ろ、見てみたらさ、壁の板の下半分がカビでまっ黒だったんだよね。だいたい、ほかの家具は置いてないのに、あの箱だけ置いてある、っておかしいじゃん?」
「ああ」
たしかに、茶色い眼鏡をかけたあの若い仲介業の男は、収納を開けてみせるときは
「あ、ここが収納です。わりと大きいでしょ? それに収納ボックスも置いてありますから」
と言うとさっさと戸を閉めてしまったのだが。
珠枝は続けて言う。
「あとさ、トイレの戸のベニヤ板がはずれかけてて、戸を閉めようとしたら指引っかけてささくれができちゃったし」
そんなの、あんたが不注意で不器用なだけでしょ、と言うところだ。
珠枝でなければ。
珠枝は、たしかに体の体積がちょっと大きいから、痩せた人ならば引っかからずにすむところに引っかかりやすい、ということはあるかも知れないけど。
でも、自分のミスとわかっているならば、こんな話はしないだろう。
珠枝なら。
「うーん」
「それで、大家さん、電話で呼んでみたんだよ」
たしか、下見のときには、大家さんは近くに住んでいるし、この建物に住んでる人を家族のように思っているから、困ったことがあれば電話すればすぐ駆けつけてくれます、という話だったのだが。
「そしたら、いま仕事中だから、家に帰るの六時くらいだからそれから電話して、って、すごくぶっきらぼうに言うんだよ。それで、いや、いまお宅の部屋、見せてもらってるんですけど、って言うとさ、いまは話さないで、そんな余裕ないから、って、さっさと電話切っちゃったんだよ。明らかにダメだと思わない?」
「うーん」
たしかに、それは、あの茶色眼鏡の男が言っていたのとは違う。
大きく違う。
「だからさ、鍵を返しに行ったとき、不動産屋には、この話はなかったことに、って言ったんだけど」
言いたいことはわかった。
「いや。だったら、不動産屋さんに言うまえに、トリあえず、わたしに先に連絡して」
「ごめん」
珠枝はすぐに謝った。
けっきょく、わたしは電車に乗らず、不動産屋に
「ちょっとこっちで、すりあわせができていなかったとか、いろいろありましたんで、あの話はなかったことにさせてください」
と電話で伝えた。
悪徳不動産屋ならば、それでも手付金は払えとかなんとか言って来るかな、と思ったけど、とても腰が低い対応で、キャンセルに応じてくれた。
だから、問題のある物件を、問題のところを隠してわたしたちに貸そうとしていた、という、珠枝らしくない主張に対しては、その夜のあいだはわたしは半信半疑だった。
向かい合って食事をしながら、珠枝が
「だって、最初に案内してくれた、例の茶色のフレームの眼鏡の仲介業者の男の人、異様にお調子者って感じだったでしょ? 悪いところは一つも言わなかったじゃない? それで、わたしたちに問題物件を押しつけようとしてるんじゃないか、って、どうしてもそういう疑いが、さ」
とうつむき加減に言ったのに対して、わたしは
「いや、そんなふうに、色めがねで見ちゃいけないと思うな」
と言ったのだった。
※ 次話「珠枝の物語」は3月27日8:00に公開予定です。
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