第47話 大混乱

 ピクリとも動かなくなってしまったが、迂闊に近づく事はしない。何せ普通ではない事が起きたのだ。


「お、おい孫兵衛……大丈夫か……?」


 急に静かになったものだから終息したのかと、周囲の者達も一息ついてその様子を伺っていた。


 それにしても一体何だったのか、不気味な音と共に空間が歪み、その中心部にあった黒い渦が周囲の景色を飲み込んでいる様に見えた。見ていればそれがこちらの存在に気付いたかのように、急にこちらへと向かって来たのである。


 逃げる途中で足を捻った孫兵衛の頭上へと行けば、黒い渦は霧状となり孫兵衛の目耳鼻口の中へと侵入したのである。


 孫兵衛は抵抗したようでのたうち回ったのだが、やがて激しく痙攣し動かなくなってしまったのだ。


「おい、その者は死んだのか?」

「……恐らく……」

「しかし、あの黒い渦は何だったんだ?」

「知る訳ねえだろ……地震の影響じゃねえのか? ……お、動いたぞ……」

「あ?」

「うぁぁぁ……うぁぁぁ……」


 不気味としか言いようのない呻き声に全員が固まった。とてもでは無いが生きている者の声などでは無かったからだ。


 固唾を飲んで見守っていれば、程なくして上半身を起こし、こちらに振り返ったのであった。


「うっ!」

「……な、なんだ……どうしたってんだよ……」


 血の気は無く死人そのものである、白目は出血によって赤く染まり、舌はそんなに出るのかと首を竦めるほどに、長く垂れ下がっていた。その姿は紛れもなく妖の類である。


「おいおい、これはやばいぞ……」

「あぁ、違いねえ……」

「ま、孫兵衛……?」


 見た目の恐怖と計り知れない威圧感に後去る事もままならぬ中、妖と化した孫兵衛はニヤリと口角をあげれば目を見開き不自然な動きで立ち上がったのである。


「な、何をする気だよ……」

「知るかよ……」


 妖は手にしていた槍を眺めていれば、瞬く間の出来事であった。手練れとして名を上げていた二人が一瞬で倒れ息絶えているのである。


「嘘だろ……」


 孫兵衛は剣術も槍術も共に酷く、使い物にならなかった筈である。何が起きたのか理解に苦しむが、槍で以て突いたのは間違いはない。仁三郎は後去りつつ妖と化した孫兵衛を見ていた。


「ま、孫兵衛……お、俺だ……わかるか? 仁三郎だ……わかるよな?」

「うぅぅ……れんら……るろぉ……」


 仁三郎と孫兵衛は幼いころから兄弟のように育ち、遊ぶのも剣術を習うのもいつも一緒であった。剣術や武術はからきし駄目な男だが、愛嬌があり、いついかなる時でも仁三郎を笑わせてくれる友であったのだ。


「あぁ! そうだ、仁三郎だ……聞け、お前は今自分を見失っている……な、先ずは、その槍を遠くへ投げ捨てよう……」




 妖とかした孫兵衛の顔は既に人間ではない、間もなく両方の目玉がどろりとこぼれ落ちれば、仁三郎は恐怖に耐えつつ己を落ち着かせていた。


「な、難しくはないぞ……遠くへな、そしたら薬師に診て貰おう、必ず良くなるからな……何も案ずるな……」

「うぅぅぅ……」


 妖と化した孫兵衛だが未だ記憶を失ってはいないようであった、孫兵衛は手にしていた槍をあっけなく遠くへと投げたのである。


「よ、良し……次は腰の刀だ……それも遠くへ投げてしまおう……お前なら問題なく出来る……」

「うぅぅぅ……わらっら……」


 危険から脱した可能性を受けて数人が足を止めれば、仁三郎と妖のやり取りを見ていた。間もなくして槍に続き腰の刀も捨てれば、腕に自信のある三人がゆっくりと動き、妖との間合いを詰めた、何せ目が見えないのだから、静かに動けば気付かれる事も無いのだ。


 それらの動きに気付いた仁三郎は孫兵衛へと話しかけていた。


「良し孫兵衛……良くやった、そしたらな、そのまま動かずじっとしているのだぞ、大事ない、恐れる事は何一つないからな……楽にしてやるからな……」


「うぅぅぅ……」


 もはや孫兵衛が人に戻る事は期待できない、仁三郎が合図をすれば三人が一斉に槍で突いたのであった。


「うぅぅぅぅ!」

「……許せ、孫兵衛よ……」


 しかし孫兵衛が倒れる事は無かった。急所を狙いもう一度突くがやはり、倒れる事は無い。それどころか、妖は脇に刺さった槍を抜くとそのまま奪い、一瞬にして三人を仕留めたのである。


 患部からの出血は不思議と止まり、溶けだして落ちた目玉の穴からも体液が止まり不気味な穴だけを見せていた。


「な、なんだと……」

「うぅぅぅ……」


 こうなればもう逃げる以外に策は無い、全く動かなかった足が一歩出れば二歩三歩と距離をとった。しかし、あろう事か、先に死んでいた筈の二人が不自然極まりない動作で起き上がったのであった。


「冗談じゃねえぞ! 皆ぁ! すぐに逃げろぉ!」


 一難去ったと思い安心していた者も居ようが、その殆どがつい今の出来事を見ていたようだ。一斉に走り出せば転んだものも多いが、皆は一斉にその場から離れようと必死であった。


 一方で状況が解らないままに逃げていた兵たちは少し離れた場所まで来れば、足を止め今来た方角を見ていた。


「一体何だったんだ?」

「妖だ、逃げろって聞いたぞ」

「おい、お前戻って確かめて来いよ」

「御免被る」

「仕方ねえ、一度兵所へ戻り報告するか」

「そうだな」


 歩き兵所を目指せば、程なくして後方より大勢の走り来る足音が怒涛のように響いて来たのである。まさかと思い振り返ってみれば血相を変えた仲間の兵が全力で走って来たのだ。その中には最前列で妖と対峙していた仁三郎の姿もあった。


「おぉい! 仁三郎じゃねえか! 何があった!」


 走り来る仁三郎の表情は硬直し、真剣そのものであった。


「今すぐ逃げろ!」

「妖か!」

「妖どころじゃねえ、死にたくなかったら死ぬ気で走れ!」

「おい! 待て!」


 ただ事ではないと察知して全力で走れば後方では大勢の悲鳴が聞こえてくるのである。


「おい! 仁三郎! 一体どうなっている!」

「死んだ者が生き返り、襲って来たんだ! 奴ら急所を刺しても切っても何でもねえ! それどころか馬鹿力はあるは、動きは早いは、とてもじゃねえが敵う相手じゃねえぞ!」

「何?」

「逃げる以外に策は無いと思え!」


 全力で走れば、後方の悲鳴も遠くなっていた。間もなく兵所が見えれば仁三郎は槍をかざし大声で叫んだのである。


「門を! 門を開けろぉ!」

「開門だ! おい! 見張り! 早くしろ!」

「此処からじゃ聞こえねえよ!」

「くっ! 命が惜しくば槍を置いて走れ!」

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