第2話 下野国の忍び

 忍びの弥平が西の方角を目指した頃、時を同じくして飛騨国を出立した男が美濃の地を一人歩いていた。


 三本杉と地蔵様を目印に、街道から逸れて山の裾野を周る様に一里半(六キロメートル)も行くと水沢村へと辿り着く。その村は水が豊富で湧水と三本の沢が、そこに暮らす人々の生活を助けているようだ。

 

 また、村の北側には山頂が長く平たい山が座しており、冬の厳しい北風からも守られていると言う。男は特徴的なその山姿に、失って間もない己の郷の山姿を重ねて見ていれば、間もなく言いようのない、強い導きを感じたのであった。故にあと半時(一時間)もすれば日暮れだと言うのに、籠を背負った男は道行く人に聞き及んだばかりの、その村を目指し歩いていたのだ。


 男の名は小平太こへいたと言い、身の丈は五尺六寸(百七十センチ)と中々に大きく体型も健康的なばかりか、旅笠に隠れた顔を見れば目元が涼やかな男前で、年の頃は二十代半ばである。間もなく道標となる三本杉まで来ると、足元の地蔵に手を合わせていた。


 冷害や日照り、それに大雨と言った天候不良によって起こる慢性的な飢饉や疫病が人々の暮らしを脅かしていたが、不幸はそれだけではない。三十年ほど前、応仁の世に起きた大乱以降、世の中の常識は大きく変わりつつあったのだ。


 それは各地を治める守護大名に並び、力のある者が権力を持つ時代へと変化を始めたのである。故に権力闘争が慢性化し、戦は絶えず繰り返される事となったのだ。これらは人々をより苦しめる事となったのだが、忍びの小平太にとっても他人事では済まない事となったのだ。


 今より七日前、郷長と忍頭が待つ屋敷へと向かったのは特別大事な用を命じられるからに違いない。刀袋に収められた反りのある太刀と書状が乗せられた盆が小平太の前へと差し出されれば、郷長はいつになく穏やかな表情で静かに命じたのである。


「これらを心して飛騨へと届けよ、その後は飛騨郷長の指示を仰ぐが良い」


 小平太の扱う術は大沢流となるが、それは遠く離れた飛騨国にも存在している。行った事は無いが郷の所在は忍びとなった時点で詳しく聞き及んでいた。


 理由も何も解らぬままに、盆ごと己の正面へと引き寄せれば「必ず」とだけ返答し盆を掲げると、後ろ足で退室し急ぎ旅支度を整えれば、その日のうちに出立したのである。


 下野国を出て上野国、そして信濃国を経て美濃国から飛騨国へと幾つもの山を越え歩き通せば、聞き及んだとおりの郷へとたどり着いたのである。下野からの使いであると伝えれば、小袖姿の忍びに案内され屋敷へと入ったのであった、己の郷の大事を知る事となったのは間もなくの事である。


「遠路、苦労であった」

「はっ」


 刀袋はそのままに書状へ手を伸ばすと、無言のままそれを読めば静かに閉じ、それを両手に掲げれば頭を下げていた。

 

 下野では近々戦が始まる気配が濃かった、ならば戦える者は一人でも多いにこした事は無い、しかも小平太は郷の中でも抜きんでた特別な称号を持つ忍びの一人なのだ。何もこのような時に使者とあれば他に適任者がいたはずである。何故己が使者として選ばれたのか理解が出来ないままに頭を低く保っていた。


「楽に致せ」

「はっ」

「ふむ、幻として心技共に超越しておるな」

 

 幻とは、もはや忍びの域を超えた超人で、その体術は目にも止まらぬ、まさに幻のような存在である事から、そう名付けられた称号である。


「恐れながら未熟故」

「いいや、お主が今、此処に居るという事はだ」


 飛騨の郷長が何を言いたいのか小平太に解りかねるのは当然である。


 大切そうに書状を仕舞うと、今度は反りの目立つ太刀を納めた袋の紐を解いたのである。間もなくして太刀が露になったのだが、確かに見覚えのあるそれを小平太は凝視していた。


 一般的な柄巻きにして、何の装飾も無い漆黒の鞘だが、目を凝らせばそこに流水文様が施されている。しかもそれは近年には見ない反りの大きい太刀である事からも間違いはない、紛れもなく下野大沢が家宝である備前兼平であったのだ。何故家宝を飛騨へと運ばせたのか小平太は疑問に思っていた。


「お主も知っていようが、下野では戦を目前にしていた。敵千百に対し、田村は大沢の忍びを足しても四百に欠ける。しかも此度の戦を前に郷が敵に漏れたようだ、田村の家に寝返った者が居たとあった」

「なんと……」


 敵に郷が知られれば当然攻撃の対象となる。戦においても平時においても忍びの存在は厄介でしかない。故に郷が見つかれば根絶やしにされるのは当然の事となるのだ。


「郷の壊滅は間違いがない、書状にはその覚悟が記されておった。それともう一つ、隠し里の存在が危ぶまれる事無きよう、里落ちを禁じたようだ」

「くっ!」


 小平太はその場に己の身が焼けるほどに熱くなるのを覚えていた。里落ちを禁じたという事は、郷に暮らす忍び以外の者も全員死んだという事になる。そこには子供も女も年寄りも、そして若き修行者も含まれるのだ。

 飛騨の郷長は厳しかった表情を穏やかにすれば、諭すように話し始めた。


「良いか、例えお主が鬼神の如く並外れた幻であっても戦況は何一つ変わらん。解るな?」

「しかしながら! 何故わたくしは此処に……何故戦う事を許されなかったのでしょうか」


 郷の一大事にも拘らず、何も知らされていなかったばかりか、戦い死ぬ事も許されず己は太刀と書状を届けに、遠く離れた飛騨に居るのだ。それはもう言葉にもならない。


「一滴の雫がやがては沢となり川となれば、何れは大海へと繋がる。万物に命を与え大地にそして生物に命を齎す。全ては一滴の雫から物事が始まる」


 それは大沢に伝わる教えの一つである。


「我々は古来より壊滅の危機に至った際には、郷で一番の幻を残す掟がある。何ゆえか理解が出来よう」

「物事の一滴に」

「その通り、郷一番の幻ともなれば雫も大きい、ならば間違いなかろう」


 大沢忍びの歴史は相当に古く、日の本に文明がはじまった時点では既に存在していたと聞く。故にこの大沢を絶やす事は許されない。大沢が二家に分かれているのも、恐らくは絶やさない為の工夫であろう。


「下野の郷長は皆に敵陣を割った後は戻らず、散って生き抜きお主の帰りを待つよう命じた。少数とは思うが精鋭の生き残りがお主を待って居ようぞ」


 出立前に命じられた通り、飛騨の郷長の指示を静かに聞き、新たなる道筋を見出すべく決意を固めていた。


「新たなる郷を築くがお主の使命となる、良いな」

「物事の一滴として必ずや成し遂げる所存に」

「うむ、それまで太刀は預かっておく、郷が出来たら知らせに参れ」

「はっ」


 屋敷を発った小平太は先ずは隠し里を目指し美濃国を歩いていたところであったのだ。水沢村はもう間も無くとなる。

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