湘南幻燈夜話 第八話「美食の系譜」

湘南幻燈夜話 第八話「美食の系譜」

 出勤すると、まず予約リストを確認する。

(うへ、いきなり渡久山さんかぁ)

 とたんに意気消沈した。

 昨日はなかった渡久山とくやまさんの名が、ぼくの九時のマスに流麗な字体で書きいれてあった。

 ことしで八十八歳になる勇子いさこ先生の字だ。店は先生とぼくのふたりしかいない。昨夜、ぼくは定時に上がったから、先生が店を出るまぎわになって電話してきたのだろう。その日の朝になってカットだパーマだといってくる渡久山さんにしては、前日予約とはめずらしい。気まぐれが一メートル四十センチの土台に脂身の多い肉を七十キロばかりつけて、ピラピラやヒラヒラやフリフリにキラキラをまぶした布でくるむと渡久山さんになる。顔はいわゆるお盆に目鼻で、だだっぴろくぺたんこの丸顔にちんまりした部品がついていた。それだけならよくあるオカメの顔立ちだが、問題は渡久山さんのおちょぼ口だった。それが曲者なのだ。予約リストに渡久山さんの名前を見るたび、ぼくの胃がきゅっとなってしまうのはそのせいだった。愛らしいおちょぼ口に胸がつまるのでは、ない。


 ぼくと渡久山さんの出会いは一年まえにさかのぼる。

 ぼくが勇子先生のところにきた初日に予約なしで渡久山さんは現れ、

「あ、そこのお兄さん、あんたね」

 ぼくを指さしてニヤリとした。

 渡久山さんは六十年配のド派手なオバはんだった。値段だけは高そうな趣味の悪い服に大きな指輪やネックレス、とっかえひっかえ提げてくるブランドバッグから判断すると、成金おやじのかみさんじゃないかと店にくるお客さまは噂していた。住所は鎌倉山だが、裏駅の紀伊国屋がテニスコートだった時代から、そのとなりで美容院をしてきた勇子先生も町で見かけたことはないという。ごく最近どこからか越してきたのだろう。あるいはほかの町に住んでいて、月にいちど鎌倉まで髪を整えにくるということも考えられた。じっさい、そういったお客さまもけっこういらっしゃる。

 謎めいているけど神秘的という言葉の醸しだすロマンにはほど遠い渡久山さんだが、いつも指名していただくぼくもプロだ。お客さまはどなたも大切にしなければならない。しかし、ストレスは髪にわるい。近ごろなんとなく頭頂部が薄くなったような気がして不安だった。禿頭の家系ではないが、つい頭のてっぺんを鏡に映してしまう。

「あ、いらっしゃいませ。おはようございます」

 気のせいだよなあと髪をいじっているところへ先生の声がして、渡久山さんが現れた。

「お待ちいたしておりました。どうぞ」

 ぼくは明るく渡久山さんをむかえた。

「こんにちは。まだちょっと早いんだけど、カットお願いね。ほんとは神矢かみやさんに会いたかったのよ。なんてね。うふっ」

「それはどうも。ありがとうございます。あ、シャンプー台へどうぞ」

 ホスト・クラブじゃないんだぞといいたい気持ちをこらえていると、渡久山さんは 上目づかいにぼくを流しみた。

「ホスト・クラブじゃないぞって思ってんでしょ? 顔に書いてあるわよ」

 ぼくはぞっとした。

 ひとのこころを読むという〈さとる〉の妖怪みたいだが、変に勘のいいこのおちょぼ口の恐怖はこれからが本番なのだ。

「神矢さんさあ」

 シャンプーがすんだ渡久山さんは、待っていたようにぼくに話しかけた。

「食べ歩きが好きっていってたわよね。最近、なんかおいしいもの食べた?」

(あれ? きょうは食べ物で一席ぶつ気かな)

渡久山さんの話はいつも決まっていて、ブランド自慢とエステと化粧品の話、それにテレビタレントの誹謗中傷罵詈雑言なのだが、それも飽きたのだろうか。

「えーと、そうですねえ。小町こまちに新しいパスタの店ができて…」

「そんなの、とっくに知ってるわよ。〈ブス・デ・ヘチャムクーレ〉ってとこでしょ。べっちょべちょのナメクジみたいなパスタじゃない。あんなもんがいいの、あんた」

 ひとに訊いておいて最後までいわせず、渡久山さんは一刀両断、びしっと切りすてた。

「洋物はいいわ。和食なんかはどう? おすすめのとこをさ、ちゃちゃっと、てっとりばやくいってみてよ」

「あ……友だちから聞いたんですけども、う…」

 胃がこむらがえりしておくびが出そうになり、ぼくはちょっと絶句した。

岐れ道わかれみちから大塔宮だいとうのみやへ行く途中に……」

「ああ、懐石料亭〈火の車〉ね。京都の〈青息吐息〉の支店よ。どっちもだめだめ、あんな田舎料理をおいしいなんて、その友だちってひとの舌はどうなってんのかしらね」

「…森戸もりと海岸の……」

「ふふん。海鮮料理の〈土左衛門どざえもん〉っていいたいんでしょ。なーんだ、口ほどでもないわねえ。神矢さんもさあ、ろくな店、知らないじゃない」

「すみません、役立たずで。渡久山さんはどこかいいとこ見つけましたか」

 ハサミを持つ手がわなわなした。

「ないわよ、だから訊いてんじゃない。でもさ、こないだテレビ観てたら、食べたいなあって魚いたのよ。ナポレオン・フィッシュってやつ」

 呆然としているぼくにかまわず、渡久山さんはつづけた。

「三枚に下ろしてお刺身にしたら何人前になるかしら。でも大味でまずいかもね。じゃなきゃ一夜干しにしてさ、七輪であぶってお醤油をちびっとたらしたらいけそう」

 ぼくの頭の中には、生干しにされた巨大なナポレオン・フィッシュが目をむいて七輪にのせられ、渋団扇をばたばたさせた渡久山さんに炭火であぶられている図が浮かんだ。

 うわあ。

「ねえ、ナボちゃんのさ、あのほっぺのたんこぶ……」

 渡久山さんはうっとりとつぶやくのだ。

「なにが入ってると思う? あそこがいっとうおいしいかも。どう?」

「き、金目鯛なんかもそうですね。魚はほっぺたがいちばんおいしいですよ…うう」

「でしょ? だからさ、煮付けにしてもいけそ……ああ、食べたい!」

 イカモノ喰いは止めたほうがといいかけて、ぼくは口をつぐんだ。


 ぼくはヤマト最古の種、カミ一族の末裔だ。

 カミ一族は太古の昔から髪で世を制してきた。時代時代の社会を構成する人びとの身分、つまり地位や職業に合わせた髪型を考案し、髪文化の発展に多大な貢献をしてきたのだ。それだけではない。くせ毛、ネコ毛、ちぢれ毛、赤毛、若白髪など、髪質を問わず秀麗な形態に整える天賦の才を与えられたものたち、それがぼくたちカミ一族なのだ。

 ぼくたちの力の根源は特異な食文化にある。美味しいものが生きがいの美食の系譜でもあるカミ一族は、この世でもっとも美味なもの、つまり、ひとの髪を食してきた本物のグルメなのだ。始祖の代よりあらゆる毛髪を食しつづけた結果、ぼくらは瞬時に髪質を見分け、手なずける能力を身につけた。なにを隠そう、じつは、毛髪とはひとに寄生する糸状生物なのだ。だが、染めたり脱色したりで漆黒の髪が少なくなった昨今、美食の道もきびしくなった。

 ぼくたちは苗字にも定義がある。姓名に、上、神、髪、紙、この四文字のいずれかひとつを有するのだ。ぼくは神の矢と書いてカミヤと読む。勇子先生の苗字は上の林で、カンバヤシというのだ。髪との関わりを生業としてきたぼくらだが、いまでは必ずしもそうではない。異種との交配が進む過程で、残念ながら一族の矜持を失うものも少なくないのだ。ぼくや勇子先生は直系の、もっとも主流に属する純血種であることが誇りだった。


 ふと気がつくと、渡久山さんが妙にうっとりした目でぼくを見つめていた。

「ねえ、神矢さんのほっぺた、こっくり煮付けたら金目よりおいしいかも」

 ちょっと肉がついてきたぼくに嫌味をいって楽しんでいるのだ。

「ひどいなあ、そんなこといっていじめないでくださいよ」

 へたするとほんとうに喰われちまうかもと考えたつぎの瞬間、ぼくは凍りついた。

(トクだ……こいつは、トク一族だ)

 ざあっと音を立てて全身の血が引き、また逆流した。

 カミ一族には宿敵がいた。トク一族だ。トクはがさつで品性に欠け、容赦のない非情な言葉の連発を武器にするといわれる。トク一族に狙われたが最後、カミ一族はしだいに生気を失い、喰われるまえにかならず禿げるそうだ。ずけずけ、ぽんぽん、いいたい放題を聞かされるうち、禿頭とくとうビールスに感染してしまうからだ。そしてある日、抜け落ちた髪の束を残して行方知れずになる。

 トク一族の大好物は、ぼくらだ。かれらは闇の美食の系譜だった。

「神矢さんみたいにグルメでおいしいものばっかり食べてるひとのお肉ってさ、どんな味がするのかな。とくにそのほっぺが……うふ、うふふふ」

 じゅるるっと涎をすすり、渡久山さんはうるんだ眼差しをぼくにむけた。

「え、あ、は、ははは、まずいに決まってますよ。ろくなもん、た、食べてないですから」

 ぼくは上ずった声でいった。

「そうお? そうかなあ。いいにおいするのよ、あなたってさあ……」

 渡久山さんは小さな目をさらに細め、鼻をひくつかせて、袋小路に追いつめたネズミを喰らうまえの猫のようにぼくの全身をねめまわした。

「いろいろおいしいモノを食べてるはずよ、むかし、むかし、そのむかしからねえ……あたしもう、もう、我慢も限界。うわああ、食べたい!」

 その瞬間、渡久山さんのおちょぼ口がくわっと耳まで裂け、ぼくの髪は完全に逆立った。


「ごくろうさま。手ごわかったわね。初めての対決にしては上出来よ。よくやったわ」

 勇子先生はそういってぼくの背に筋ばった手をおき、ねぎらってくれた。

「ここ数十年というもの、世の中はトク一族まがいの言動をするがさつな女が急増してたでしょ。見分けるのがひどく難しくなっていたのよね。それにしても、あなたの〈必殺ハサミ返し〉はすばらしかったわ」

「ありがとうございます。ぼくのほうこそ先生の、あの伝説の秘術〈黄楊の櫛刺し胡蝶の舞〉を目のあたりにできて感激です」

「ふ、わたしも久しぶりに舞ったわ……さあ、これであなたも一人まえのトク・バスターよ。みんな、期待していますからね」

「先生……」

 ふだんはクールな勇子先生の思いがけない言葉に涙があふれた。

 思えばつらく孤独な日々だった。バスターズ幹部候補生としてカミ一族の長老のひとりである勇子先生の元へ送られ、宿敵トク一族の詳細も知らされぬまま、夜食のチャーハンを作るうちに鍋返しから発想をえたのが必殺ハサミ返しだった。熱いメシ粒を顔に浴びたり、手がすべって鍋を頭からかぶったり、研鑚に励んだ日々の記憶が走馬灯のように脳裡をかけめぐった。

 そしていま、ぼくはいくばくかの毛髪を失ったが、超難関のトク・バスターズ資格認定試験に合格して、栄えある戦士となったのだ。

「さっそくだけど本部から指令が出ているの。緊急出動よ。行ってくれるわね」

 にじみ出る涙をぬぐい、ぼくはきっぱりといった。

「もちろんです、先生。それでターゲットはどこですか」

「神戸よ。旧居留地一帯に新たなトクが出没しているらしいの。すでにふたりやられたわ。ずけずけ言いはこれよりすごそうだから覚悟して行って」

 勇子先生は足元でまだかすかにひくついている生ゴミ用ビニール袋を目で示した。

「このトクはせっかちで墓穴を掘ったけれど、くれぐれも心してかかってちょうだい」

「わかりました。一族の誇りをかけて使命をまっとうします」

「よくいってくれました。それで、トク一族の見分け方はもう把握したわね」

「はい、先生。カミ一族を見つける鋭い嗅覚、サトルまがいの心理読み、ずけずけ言い、エンガチョ、渡久山や行徳などのトクの字隠しですね」

 満足そうに勇子先生はうなずき、ふうっと細く息をはいた。

「年よねえ……私も匂いが薄くなって、トクの食欲をそそらなくなってしまった」

「先生、そんなことおっしゃらないでください。先生はわれら一族の香水瓶です」

 ぼくは精一杯の讃辞を口にした。

 ちょっと寂しげな表情をみせた勇子先生だったが、すぐまたいつものやさしくもきりりとした顔になり、

「関西言語圏特有の表現習得もおろそかにしないこと。イケズとかイラチ、しばく、どつく、おどりゃー、いてまう、などよ。東京弁を使ってはいけません」

「よかばってん、了解じゃけんのう!」

「なんかちがうような気もするけど……まあ、いいわ。さあ、これをお飲みなさい。最新のワクチンです。抜けた髪はすぐ元に戻りますからね。もうハゲる心配はありません」

 先生に手わたされた銀色のカブセルをぼくは感無量で見つめ、飲み干した。

 トク一族との壮絶な戦いのなかでぼくたちの祖先が改良に改良を重ねたのが禿頭ビールス・ワクチンだ。だが病原菌はすぐに耐性ができる。カミとトクの戦いは、新種の耐性菌とワクチンの果てしない攻防の歴史でもあった。ワクチン製造には長い年月と莫大な費用が必要なうえ、抽出される量も限られている。したがってワクチンを摂取できるのは最前線で戦うぼくたち、トク・バスターズの戦士だけなのだ。

「先生、短いあいだでしたがお世話になりました。では、行ってまいります。美しく、美味しい髪のために」

「カミ一族のために」

 ぼくたちは一族の誓いの言葉を交わし、天を指して音高くハサミを合わせた。

 その夜、ぼくはトク・バスターとして新たな戦いに挑むべく、勇躍、経費節約のため、鈍行で神戸の地へと旅立った。


   ― 了 ―

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湘南幻燈夜話 第八話「美食の系譜」 @kyufu

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