湘南幻燈夜話 第六話「惜春」
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湘南幻燈夜話 第六話 惜春
花絵の家は鎌倉でも山深い
道をはさんだ向いの家は日ごろ無住なだけで空家ではなかった。毎年、盆が近づくと、バス通りの煙草屋のお婆さんが山道を登ってくる。お婆さんはまず花絵の家の勝手口に現れて、今年もよろしゅうにどうぞと挨拶する慣わしだった。向家は横浜にほど近い町工場のつつましい保養所なのだ。門柱に社名を書いた板がかけてあった。風雨に洗われているものの、「関東螺子製作所 海の家」の墨跡がうっすらと消えのこっている。ずいぶんと海水浴場から遠い海の家だが、夏だけの保養所というつもりらしかった。
勝手口からお婆さんの声が消えてしばらくすると、向いの家の雨戸を繰る音が聞こえる。花絵は床から出て、窓の手すりに身をよせた。二階から見下ろす向家はどこもかしこも開けはなたれ、手拭を姉さんかぶりにしたお婆さんが忙しげに箒を使っている。
息を吹きかえした海の家に最初に現れるのは若い工員たちだった。遠慮がちだが楽しげな笑い声やレコードの音楽が花絵の部屋にもとどいた。夏の盛りには学校休みの子どもをともなった家族づれがひきりなしに訪れる。海から帰った子どもたちは昼寝をし、目覚めると縁側で西瓜を食べて種の飛ばしっこに興じ、日が落ちると庭で花火をして歓声を上げた。家中の電灯が明るくともり、ラジオは後楽園の国鉄・阪神戦を活き活きと中継した。
八月の海に土用波が立つころ、海の家の夏は終る。ある日、雨戸を立てにきたお婆さんがふたたび勝手口に姿を見せて、いつものように花絵の好きな石衣を懐から出す。嬢ちゃんも早ようようなるといいがのう、ことしも泳げなんだなあ、と沈んだ声でいい、向家を閉じて山を降りていく。それからは訪れるひともなく、向いの家は来年の夏までひっそりと眠りにつくのだった。
世間の暦はどうあれ、花絵の一年は十二か月ではない。七月にはじまり、八月で終わる真夏のふた月だった。五年生のときに結核をわずらって以来、花絵は山の上の家から出たことはない。勉強は中学校長の父が教えた。訪れるのは定期検診の医者と看護婦だけだ。変化のない寂しい日々だった。でもそれは夏までだ。夏になれば向いの家にたくさんの人びとが集い、さんざめく。はずんだ声が聞こえるとそれだけで気分が浮きたった。
海の家の軒下に自分とおなじくらいの女の子の海水着が干してあると、もう忘れかけた足裏の焼けた砂の感触や、泳ぎすぎて塩からい口にふくんだドロップの味がよみがえった。竹竿に干された水着がうすいナイロンなら、
(よかった、朝までに乾くわ)
と、安心し、それが毛糸だと、
(だじょぶかなあ、ヒヤッとするのよね)
顔をしかめて濡れた水着を着る子を心配した。
翌朝、朝食を食べた子どもたちが、はやく行こうよう、ねえ、はやくう、とせがむ声に耳をそばだてた。まだよ、朝ごはん食べたばっかでしょ、お腹がおさまるまでだめ、母親の声がする。やっと出かけるころはまた大騒ぎだ。まだ生乾きの水着をはいて、わ、ひゃっけえ、と男の子が叫び、やん、ちべたあっ、と女の子が悲鳴を上げる。
(当て布してね、アイロンかけるの)
そう教えたくても知らせるすべはなかった。
子どもたちが水着を着てシャツをはおったら、こんどは親と子の声が騒ぎたてる。
《浮輪はもったか、こらっ、いまからふくらますんじゃない、おにぎりはどこ、なにやってんだよ、薬缶に麦茶入ってないぞ、手ぬぐい、手ぬぐい、角で西瓜を買うの忘れるなよ、写真機いるかな、ほら、バケツとシャベル、帽子かぶんなさいっ、ビーチパラソルはおまえがかつげ、ゴザもって、さあ、行くぞ、おしっこ…、あーもー、また便所かよお、おいてくぞ、ヤダー、ワーン、ワーン》
午後おそく帰った子どもたちは山道でつかまえた真っ赤な弁慶蟹で遊んだ。
《ほら、みろ、このはさみ、すげえ、わ、いてててっ、おとーさーん、おにいちゃんがはさまれたあー、バカやろ、おまえがいじめるからだ、いたとこにかえしといで、だってえ、ああ、もう弱ってる、かわいそうだろ、お父さんのいうこと聞きなさい、生きてるもんオモチャにする子はお母さんきらいだよ、うん……、はやくかえしといで、トウモロコシがじきにゆだるから、はーいっ》
夜、テレビのない海の家はラジオを聞きながら夕食をとる。
《テレビほしい、テレビ、てれび、てれび、うるさいっ、うちにもないのがここにあるかっ、あっかどーおすずのすけえ、メシ喰いながら歌うなっ、あんた、なにいらいらしてんの、どなんないでよ、おい、ビールもってこい、おとーさん、テレビさ、ボーナスで買ってえ、ぼっぼっぼくらはしょーねんたんてーだん、ゆーきーりんりん、ほら、こぼすっ、おかーさんも怒ってばっかりじゃんか、おれさ、学校でさ、おとーたん、あのね、あのね、てえび》
いつもより遅くまで起きていた子どもたちも寝る時間になった。
《ちゃんと腹巻して、あついよー、だめ、寝冷えしてピーピーんなったら泳げないよ、磁石と砂鉄さ、このまんまもってっていいでしょ、ばかっ、ふとんが砂だらけになるでしょっ、おかーさーん、おにーちゃんがあ、なんだよう、おれなんにも、蚊帳つったよ、はやくしなさい、おとーたん、あの、あの………ふう、やれやれ、やっと寝たか、昼間あんだけ騒げばね、あっというまに丸太んぼうだわよ、タバコ、はい、にいさんとこどうですか、なにがだ、景気、まあな、おまえの方はどうだい、おんなしですよ、あんたとこはボーナスよさそうじゃないの、姉さんもよくいうよ、暮には底を打ちそうだっていうけどどうだかなあ、あんたもはやく身をかためてさ、ビール、はい、枝豆まだあるか、みんな食べちゃったわよ、スルメあったろ、買ってやりたいわ、テレビ、よう、スルメは?、学校でテレビの話に入れないらしいのよ、おい、テレビ、え?、あ、スルメだ、やだーっ、きゃははは、わっはっはっは、はははは、はははははは……》
夜風は体にわるいと両親は気づかうが、ほんのすこしだけ窓を開けたままだ。
花絵はそこからもれる花絵だけのラジオ放送に耳をかたむけ、笑いすぎて咳きこみ、顔を枕に押しつけた。
花絵の病状は一進一退で微熱と咳がとれず、人ごみに出ることはむずかしかった。季節の変わり目と風に当たることがよくない。春先はいつも長く熱を出してしばらく伏せった。ふだんはレース編みや刺繍をして過ごす。単調な日々のくりかえしだがそれは夏までのしんぼうだ。夏になればまた向いの家の人たちが溌剌とした下界の息吹をはこんでくれる。
花絵はもう子どもではなかった。十六歳の少女の関心は若者たちに移っていた。
日にさらされない花絵の肌は白く透け、漆黒の髪に縁どられた瓜実顔は年のわりに大人びて、一重で切れのながい涼しい目元をしていた。細い鼻梁と薄い唇が夢二の絵のようにさみしげだが、赤い金魚の浴衣をまとう姿には人生でもっとも美しい季節をむかえる乙女の、さなぎから蝶になるまぎわの命の輝きがあった。
海の家では家族もちと独身者がいっしょになることはなかった。二階家で間数はあるのにそういう習慣らしい。若者たちの声がすると、花絵の胸はときめいた。彼らは着くとすぐフロートを小脇に飛びだしたきり、運わるくどしゃぶりにでもならなければ一日中もどらない。どこかで夕飯をすませ、帰ってくるのはだいたい九時過ぎだった。それから音量を下げてレコードを聞いたり、夜おそくまでトランプをした。
《いいなあ、小百合ちゃん、金田投手がよう、これ高かったんだ、さっきの子すげえグラマーで、明日さ、浜で野球やんねえか、煙草屋のばあちゃんに聞いたんだけど、いつでもゆーめをー、カーン、残念でしたあ、二階でずっと寝たきりなんだって、なんかおれ、腹へっちゃった、塩豆ならあるよ、ここもよう、テレビの一台くらいあってもいいよなあ、社長にいえって、はなえって名まえの、わ、ババ引いちゃった、裕ちゃんの歩き方ってさ、あー、また負けだ、浜のツイスト大会に、会ってみたいなその子、蚊取線香ついてねえだろ、足くわれた、大毎オリオンズがさあ、小百合ちゃんっ、おまえよう、しつっけえと嫌われんぞ、はなえってどんな字だろ、国からおふくろが、さゆりっ、あーうるせーなー、酔っぱらってんだよ、こいつ、おい、それとれよ、はなえってどんな字をかくんだろう……》
向家の明かりが消えてしばらくしたころ、花絵はそっと寝床をでた。母親が閉めた窓を音のしないよう左右いっぱいに開ける。夜空にぽっかりと月が浮かんでいた。月光は冴え冴えと澄み、深更の庭を明るませた。どこかで虫の音がわき、ときおり海岸の方角を車が走りさる。紫紺に椿をあしらった銘仙の羽織を肩にはおった花絵は窓辺に腰を下ろした。夜気はさすがに冷たく、うっかり咳がこぼれぬよう口元に袖を当てている。海の家に来る若者たちを花絵はだれひとり見たことがない。ただ、声を聞くだけだ。いく夏かすると声の調子やなまりで、
(ああ、あのひとだ、今年もきた)
あのひとがだれかもわからず、声で若者を聞きわけてほほえんだ
花絵は口元から袖をはずした。唇にぽっちりと紅がともっている。貝紅だった。煙草屋のお婆さんが孫の京土産を届けてくれたのだ。そのときふと、花江は不思議な感覚にとらわれた。どこかから、だれかにじいっと見つめられている気がした。だが、周囲や下を見ましても庭木の梢が月明かりにほんのり浮かぶばかりだ。花江は夜空を仰ぎみた。密の色の月が花絵の夕顔のような顔を煌々と照らした。花絵は白い喉をみせて、月のしずくをあびながらいつまでも身じろぎもしなかった。
明くる年、花絵は十七歳で逝った。娘の遺骨を抱いた両親が北の故郷へ去ったのは、それからほどなくしてだった。家は空き家のまま残った。
やがて季節はめぐり、ある春の日、数人の屈強な男たちが山道を登ってきた。彼らは空き家の朽ちかけた雨戸を外すと中から古道具を運びだした。編みのほどけた籐椅子や染みだらけの箪笥は折から満開の桜の下に積まれた。家は近々とりこわされ、分譲地として売りに出されるのだ。近所の人が集まってものめずらし気に眺めるなかには、画帳にしきりと鉛筆を走らせる若い男もいた。
三棹の古箪笥の上にはらはらと桜の花びらが舞い下りた。
さらに五十余年の月日が流れた。
銀座四丁目の老舗画廊はその日、ちょっとした熱気につつまれていた。日本画の大家の叙勲を祝う展覧会が催されているのだが、盛況の理由はそれだけではなかった。雄渾な筆使いの風景画で知られる画家に、けっして描かないといわれた美人画がただ一点のみ存在することがわかったのだ。会場のもっとも奥まった場所に話題の絵は展示されていた。事前にマスコミが書きたてたため、人びとは《惜春》と題された以外と小ぶりな作品に群がった。絵は非売品だった。
画面は夜の庭だ。空には満月が輝いている。右手後方に闇に沈む廃屋があり、中央は大きく枝をはる満開の桜、その下に朽ちかけた数棹の古箪笥が置かれていた。中央の箪笥の上に、花嫁御寮が腰をかけている。裳裾に紅い椿をちらした紫紺の打ち掛けをはおり、雪よりなお純白の羽二重に身をつつみ、緞子の帯を締めた花嫁は、千代紙細工の花嫁人形そのものだった。淡い桃色の花びらが白く丸い角隠しにふりかかる。花嫁は恥じらう様子も見せず顔を仰のけ、白い喉をさらして、夜空に輝く月を見つめていた。白々と初々しい肌に、ぽっちり咲いた唇の紅が映える。全体に薄墨を流したような暗色の画面に、一点、唇の紅は鮮やかに燃えたった。正統派の美人画とは一線を画す独特の叙情を醸している。
絵のモデル探しは大きな話題のひとつだった。目録によると制作年は昭和四十年初頭となっている。老画家は横浜近郊の螺子工場で工員をしつつ、絵筆をもちつづけた異色の経歴だった。衆目を集める美人画には主題の《惜春》に添えて副題があった。
《花の絵》
あるひとは、ほかの男に嫁ぐ恋人との別れを描いたのだという。あるひとは、暗に画家の陰の女性の存在をほのめかした。いや、じつは自分の娘なのではというものもいた。夜桜を、あやしい花の精を描きたかったのだ、行く春を惜しむ心象風景だ、さまざまな声が聞こえた。
往時から艶聞の絶えない画家だった。アカデミズムに拝跪せず孤高をたもつ姿勢や整った顔立ちに魅了された女性はすくなくない。だが画家は生涯独り身を通した。
非売品だろうが何だろうがとにかく手に入れたい収集家と、なんとかして大金が欲しい画商が絵のそばでひそひそと話していた。
「どうにかならんかね。金に糸目はつけないといってるんだから」
「ま、もうすこしご辛抱ください。いや、私も懸命なんですが、先生はご承知のようなご気性のお方でいらっしゃいますからなかなかにどうも」
欲心勃々と画商は胸算用にはげんだ。
「そんなこといってるうちに美術館にでも寄贈された日にゃ、もうおしまいだよ。親族とは折りあいがわるいそうだし、あの先生ならやりかねん。ところで、あれから先生のお加減はどうなの」
「まあ、いますぐどうということでは……」
画商はことばをにごした。
画家と年の近い従弟のひとりはたまではあるが画家と交流があった。その男に金をにぎらせ探りをいれると、余命は一年を切るらしい。死ねばさらに値は上がる。ましてやこの未曾有のお宝だ。ゼロ八つはかたい。老画家はすでにこの絵を鎌倉近代美術館へ寄贈の意思であるからなおさらだ。ああ、気が焦る。
「そうか。たのむよ、きみ」
収集家は画商の脂の載った丸い肩をたたいた。
「しかし、観れば観るほど不思議に引きよせられる絵だね。なんとしてでも手に入れたいよ。ところで、きみはこの女性のモデルはいたと思うかい」
「先生の創意を刺激した人物なり情景なりは、私はあったと思います。なにしろ私事を口にされないお方だものですからこれも推測の域を出ませんが」
画商は大家の韜晦ぶりをなげいた。
功成り名をとげてのちも結核予防協会の理事長をつとめ、小児結核予防対策に助力を惜しまなかったことすら世間にはほとんど知られなかった。
収集家は苦笑いした。
「なるほど。それはそうと、これ。これは必要なのかね。私にゃ、よく分からんなあ」
副題の《花の絵》を指さした。
画商は首をかしげ、
「さあ……先生にはなにかしら思い入れがおありなのでしょう」
あれは、晩夏の清閑な鎌倉の画室だった。
はじめてこの絵を目にした午後の息が詰まる衝撃と、微動もせず絵を見つめる老大家のあまりに無垢で哀切な面ざしは、欲得づくめの画商にも胸にせまる情景としてきざまれている。
老画家は絵を見つめてつぶやいた。
「さあ、外へいっておいで」
秘蔵の美人画に話しかける老画家のまなざしには、時をへてもなお失われぬ深い哀惜がこめられていたのだった。
― 了 ―
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