【KAC20247】空の色、星の色

金燈スピカ

空の色、星の色

「空色、っていう絵の具があるんだね」


 僕の絵の具箱を覗き込んだヒナは、不思議そうな声でそう言った。たくさん使ってひしゃげたり色がついたりしている絵の具チューブたち。何色があるのかは把握しているし、綺麗に並べるのが面倒で適当に放り込んでいたそれを、几帳面なヒナは色番順に並べているようだった。彼女が手にしているのはセルリアンブルーの絵の具だ。薄くなく濃くなく、抜ける青空のような深みもあって、どこまでも飛んでいけそうな心地にさせてくれる色。


「ああ、それ、空色って書いてある?」

「うん」

「セルリアンブルーとも言うんだよ」

「へーえ」


 僕が筆を休めなかったのを見て、ヒナはその絵の具を箱に戻して、僕の前の大きなキャンパスを覗き込んだ。


「この中で使ってる?」

「うん。空のところと、海のこの辺にも使ってるかな」

「ほんとだ、綺麗な色。まさしく空色だね」

「うん、よく使うから、もうほとんどないでしょ」

「うん」


 ひなびた田舎の崖の上の小さな小屋。僕はそこから見える海と空を描くのが好きだった。気温、風、日差し、雲。同じように見える海と空は、よくよく見ると全然違うようにも思えるし、やっぱり同じだと思う時もある。絵に描く二つの青も作品によってさまざまで、夏の海をウルトラマリンで鮮やかに描いたり、冬の曇り空をモノトーンでしんしんと描くこともある。今日のこのキャンパスは、新緑との対比が綺麗に出るように、セルリアンブルーをふんだんに使っていた。


 僕が淡々と筆を滑らせていくのに飽きたヒナは、ごろりと芝生の上に寝転がった。


「綺麗な色だけど、今日の空の色とはちょっと違うね?」

「そうだね、今日は紫がかって見える気がする」

「…………」


 ヒナは僕がアトリエにこもる時は、土日の休みの時に必ず遊びに来て、しゃけと明太子のおにぎりを握って持ってきてくれる。僕はひそかにそれをアテにして自分の食事を用意していない。ここで食べるヒナのおにぎりは最高だ。もう少ししたら食べよう。そんなことを考えていると、風が吹いて横のテーブルの素描スケッチブックを吹き飛ばし、ついでに絵の具箱もひっくり返った。キャンパスも危ない、僕は立ち上がって倒れかけたキャンパスを押さえる。


「すごい風! 海の近くってやっぱり風が強いね」

「そうだね、無理しないでアトリエで待っててもいいよ」

「大丈夫!」


 ヒナは笑いながら落ちた絵の具とスケッチブックを拾ってくれた。絵の具を拾う度にしげしげとそのラベルを眺め、その色の名前を確かめて、また順番に並べてくれるらしい。


「ね、空色はあるけど、星色って絵の具はないの?」

「星色?」

「うん、なんか綺麗そう、キラキラしてて」

「星色は聞いたことないなあ……」

「なんでないんだろうね?」

「うーん……」


 僕は首を傾げる。


「……星はさ、たくさんあって、色が違うじゃない? だからこの色、って決められないんじゃないかな」

「えー、じゃあ、空だって、この色以外にもいろんな色があるじゃん。夕焼けの色とかめっちゃ綺麗だし」

「そうだなあ……」


 僕は記憶をまさぐって、ここから眺める夕日を思い起こした。雲がいい感じにたなびいていると、ばら色に染まっていく様が本当に綺麗だ。燃えるようなオレンジ、ギラギラと反射する海面、東側は淡いピンク色になっていて、やがて濃紺の夜がひたひたとやってくる……。どれもこれも綺麗で、ずっと眺めていたくなる景色だ。


「いろんな空の色があるけど……空色の空が一番綺麗だからなんじゃないかな?」

「なにそれ」

「思い出してみなよ、真っ青で、吸い込まれそうな空。白い雲がぽっかり浮かんでて、どこまでもどこまでも、ずっと続いていくんだなーって思わされるようなさ」

「…………」


 ヒナが絵の具をしまう手を止めて、今の目の前の空をじっと見上げる。その黒っぽい茶色の瞳に空が映り込んで、青い宝石のようにきらきらと煌めいている。


 ああ、なんて綺麗な空なんだろう。


「……ジュンの言う通りかも。青い空、綺麗」

「でしょ」


 僕がふふっと笑うと、ヒナもふふふと笑い返した。


「じゃあさ、ジュンの中で私の色ってある? 私が一番綺麗な時の色」

「何だよそれ」

「数多の女ではなくて、この私ただ一人の中で、一番綺麗な色はどれですかっ」


 ニコニコしているヒナの頬が少しばかり赤く染まっているのを見て、僕は目を細めた。ヒナがきちんと並べてくれた絵の具箱を覗き込んで、バーントアンバー、こげ茶色を選ぶ。


「これ」


 ひょいとヒナの手にその絵の具を置くと、うげー、とヒナはすごい顔をした。


「全然かわいくない! ピンクとか黄色にしてよ!」

「別にそれでもいいけど」

「この黄色ってことにして!」

「はいはい」


 ヒナはパーマネントイエローライトの絵の具を取って、午後もしばらくぷりぷりしっぱなしだった。


 その瞳は、怒っていても変わらず綺麗なバーントアンバーだった。

 




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